ハビエル・アスカルゴルタ

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本名 フランシスコ・シャビエル・アスカルゴルタ・ウリアルテ
Francisco Xabier Azcargorta Uriarte
ラテン文字 Xabier AZCARGORTA
生年月日 (1953-09-26) 1953年9月26日
ハビエル・アスカルゴルタ
名前
本名 フランシスコ・シャビエル・アスカルゴルタ・ウリアルテ
Francisco Xabier Azcargorta Uriarte
ラテン文字 Xabier AZCARGORTA
基本情報
国籍 スペインの旗 スペイン
生年月日 (1953-09-26) 1953年9月26日
出身地 スペインの旗 スペイン アスペイティア
没年月日 2025年11月14日(2025-11-14)(72歳没)
身長 175cm
選手情報
ポジション FW (CF)
利き足 右足
ユース
1969-1971 スペインの旗 レアル・ソシエダ
1971-1972 スペインの旗 アスレティック・ビルバオ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1972-1977 スペインの旗 アスレティック・ビルバオ 0 (0)
1975-1976 スペインの旗 ビルバオ・アスレティック
通算 0 (0)
監督歴
1978-1980 スペインの旗 ラグン・オナク
1980-1982 スペインの旗 アウレラ・デ・ビトリア
1982-1983 スペインの旗 ジムナスティック・タラゴナ
1983-1986 スペインの旗 RCDエスパニョール
1986-1987 スペインの旗 レアル・バリャドリード
1987-1988 スペインの旗 セビージャFC
1990 スペインの旗 CDテネリフェ
1993-1994 ボリビアの旗 ボリビア代表
1995-1996 チリの旗 チリ代表
1997-1998 日本の旗 横浜マリノス
2005 メキシコの旗 CDグアダラハラ
2012-2014 ボリビアの旗 ボリビア代表
2014-2015 ボリビアの旗 クラブ・ボリバル
2015-2016 ボリビアの旗 オリエンテ・ペトロレロ
2016-2017 ボリビアの旗 スポーツ・ボーイズ・ワーンズ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ハビエル・アスカルゴルタバスク語: Xabier Azcargorta)ことフランシスコ・シャビエル・アスカルゴルタ・ウリアルテFrancisco Xabier Azkargorta Uriarte, 1953年9月23日または9月26日または9月29日 - 2025年11月14日)は、スペインアスペイティア出身のサッカー選手、サッカー指導者。

ギプスコア県アスペイティア生まれ。1969年から2年間レアル・ソシエダの下部組織でプレーした後、1971年にアスレティック・ビルバオの下部組織に移った。1972年にトップチーム登録されたが、負傷の影響でアスレティックでは公式戦に1試合も出場することがなく、1977年に23歳で現役を引退した。

選手を退いてから1年後の1978年にラグン・オナクで指導者となり、主に下部リーグに所属するバスク地方のチームを指揮した。1982年にはセグンダ・ディビシオンBジムナスティック・タラゴナの監督に、翌年にはプリメーラ・ディビシオンRCDエスパニョールの監督に就任[1]。ジムナスティックではそのシーズンのセグンダ最年少監督だった[2]。エスパニョールを3シーズン指揮し、その後はレアル・バリャドリード [3]セビージャFC[4]CDテネリフェ[5]と、1991年までプリメーラ・ディビシオンのクラブの指揮を執った。ヨハン・クライフとも親交があり、テネリフェ時代にはFCバルセロナBでプレーしていたアルベルト・フェレールをローンで借り受けている。セビージャとテネリフェでは契約満了前に解任された[6][7]

1993年にはボリビア代表監督に就任し、ボリビアをアメリカワールドカップ本大会に導いた。ボリビアにとっては44年ぶりのワールドカップ出場であり、過去2大会は予選なしで本大会に出場していたため、南米予選を勝ち抜いたのは史上初のことだった。この際に中核を担ったフリオ・セサル・バルディビエソは、後に横浜マリノスでもアスカルゴルタの指導を受けている。1995年から1996年にはチリ代表を指揮した[8][9][10]

1997年から1998年にはJリーグ横浜マリノスの指揮を執った。第二監督としてアントニオ・デラ・クルス、選手として同じバスク地方出身のフリオ・サリナスヨン・アンドニ・ゴイコエチェアを呼び寄せ、日本人選手では城彰二や新人(1997年加入)の中村俊輔らをまとめた[11]。本来はチキ・ベギリスタインの獲得も進めていたが、中村俊輔のプレー振りを見て獲得を取りやめた[12]。アスカルゴルタが中村をサイドで起用しようとした理由は守備意識を高めさせるためだったが、中村はアスカルゴルタについて選手の個性を消す監督だったと語っている[11]。1997年前期は5位、後期は3位、1998年前期は4位となったが、1998年8月に柳想鐵の獲得を巡ってフロントと衝突し[12]、またファーストステージ優勝出来なかったことにより解任された。Jリーグでは66試合を指揮して45勝21敗(152得点107失点)の成績を残している。

横浜マリノスを離れてからは長らくチーム監督生活から遠ざかり、レアル・マドリードで中南米のアカデミー長を2年間務めたこともあった[13]。2005年にはメキシコのCDグアダラハラを指揮した。2006年には中国サッカー・スーパーリーグ北京国安足球倶楽部のフットボールディレクターに就任[14]。2008年7月14日には母国スペインのバレンシアCFのスポーツディレクターに就任することが決定したが[15][16]、最高責任者のビジャロンガが解任されるとアスカルゴルタも解任され、その在任期間はわずか10日間だった[17]

2012年7月17日には再びボリビア代表監督に就任。グスタボ・キンテロススペイン語版監督に代わってブラジルワールドカップ・南米予選の残り6試合を指揮した[18]。2014年3月にはクラブ・ボリバルの監督に就任し[19][20]、2014年のコパ・リベルタドーレスではベスト4となった。優勝したCAサン・ロレンソ・デ・アルマグロに準決勝で敗れたが、サン・ロレンソの選手たちは標高3,637mのエスタディオ・エルナンド・シレスでプレーする際にバイアグラを用いたとされている[21]

晩年は約10年間心臓疾患に苦しみ、闘病生活を続けて2020年に監督を引退した。2025年11月14日死去、72歳没[22]

指導歴

タイトル

指導者時代

クラブ・ボリバル
チリ代表
  • カナダカップ:1回(1995)

脚注

関連項目

外部リンク

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