ブルーノート・レコード
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ブルーノート・レコード(Blue Note Records)は、ドイツ出身のアルフレッド・ライオンによって、1939年にニューヨークで創設されたジャズ・レーベル。1950年代から1960年代には、ハード・バップを中心に、ソウル・ジャズ、ポスト・バップ、アヴァンギャルド・ジャズなどの作品を多数発表し、戦後ジャズを代表するレーベルの一つとなった[1]。
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| 略称 | BN、BNR |
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| 本社所在地 |
90028 カリフォルニア州ロサンゼルス・バインストリート1750[注釈 1] |
| 設立 | 1939年 |
| 業種 | 情報・通信業 |
| 事業内容 | 音楽・映像ソフト制作及び販売、音楽著作権管理、原盤制作ほか |
| 代表者 | ドン・ウォズ(2012年 - ) |
| 主要株主 | キャピトル・レコード |
| 関係する人物 |
アルフレッド・ライオン (創設者/プロデューサー) フランシス・ウルフ (プロデューサー) ルディ・ヴァン・ゲルダー(レコーディング・エンジニア) リード・マイルス (グラフィックデザイナー) アイク・ケベック (ミュージシャン/A&R) デューク・ピアソン (ミュージシャン/A&R) |
| 外部リンク | bluenote.com |
概要

アルフレッド・ライオンによるアーティストの選定と録音制作、フランシス・ウルフによる写真、録音エンジニアのルディ・ヴァン・ゲルダーによる音響、リード・マイルスによるジャケット・デザインが結びつき、音楽、録音、視覚表現を含む独自のレーベル・イメージを確立した。また、録音前のリハーサルにも報酬を支払うなど、演奏家が十分に準備できる制作環境を設けていた[2]。
1960年代半ばに独立レーベルとしての経営を終えた後は、リバティ・レコード、ユナイテッド・アーティスツ・レコードなどの傘下で活動を続けた。1970年代末に新規録音が途絶えて一時休眠状態となったが、1984年にブルース・ランドヴァルの指揮のもとで再始動した[1]。
現在はユニバーサル ミュージック グループが所有し、同社傘下のキャピトル・ミュージック・グループを構成するレーベルの一つとなっている[3]。日本ではユニバーサル ミュージック合同会社がブルーノート作品を取り扱っている[4]。
歴史





ブルーノート最初の録音セッションは1939年1月6日にニューヨークで行われ、ブギウギ・ピアニストのアルバート・アモンズとミード・ルクス・ルイスが録音に参加した[5][6]。
同年末、アルフレッド・ライオンのベルリン時代からの友人で、商業写真家として活動していたフランシス・ウルフがナチス政権下のドイツを離れて渡米し、ブルーノートの運営に加わった[7]。第二次世界大戦中にライオンが兵役に就くと、新規録音は一時中断され、ウルフはミルト・ゲイブラーとともに既存カタログを維持した。
戦後は、ライオンが録音制作とアーティストの選定、ウルフが経理などの運営実務とセッション写真の撮影を主に担当した。ブルーノートは当初、ブギウギや伝統的なジャズを中心に制作していたが、1940年代後半からビバップをはじめとするモダン・ジャズへ活動の範囲を広げた。1947年には、当時まだ一般的な評価を得ていなかったセロニアス・モンクのリーダー録音を開始し、その後もファッツ・ナヴァロ、タッド・ダメロン、バド・パウエルらを録音した[8]。
1950年代には、アート・ブレイキー、ホレス・シルヴァー、マイルス・デイヴィス、ハンク・モブレー、リー・モーガンらの録音を通じて、ハード・バップを代表するレーベルの一つとなった。また、ジミー・スミスをはじめ、ベイビー・フェイス・ウィレット、フレディ・ローチらのオルガン奏者も起用し、ブルース、ゴスペル、R&Bとの結びつきが強いソウル・ジャズの発展にも寄与した。
録音面では、サクソフォーン奏者で美術家でもあったギル・メレの紹介をきっかけとして、1952年に録音エンジニアのルディ・ヴァン・ゲルダーと接触した。1953年秋以降、ブルーノートの録音の多くは、ニュージャージー州ハッケンサックにあったヴァン・ゲルダーの両親宅の居間を改装したスタジオで行われ、その録音は後に「ブルーノート・サウンド」と呼ばれるレーベルの音響的なイメージを形作った[9]。
視覚面では、ウルフが撮影した演奏家の写真と、1950年代半ばからジャケットを手がけたグラフィックデザイナーのリード・マイルスによるタイポグラフィーを組み合わせ、レーベル独自のデザインを確立した。1955年に始まった12インチLPの1500番台は、1958年までに約100作が制作され、その後の4000番台とともにブルーノートを代表するカタログとなった[10]。一部のジャケットには、商業美術家として活動していた時期のアンディ・ウォーホルによるイラストも用いられた[11]。
1957年3月7日、ニューヨークのマンハッタン・タワーズで行われたアート・ブレイキーの『オージー・イン・リズム』のセッションで、ヴァン・ゲルダーはブルーノートとして初めて2トラックのステレオ録音を行った。同年5月以降は、多くのセッションでモノラルと2トラックのテープが並行して使用されたが、ブルーノートが最初のステレオLPを発売したのは1959年である[12]。この時期に録音された『ブルー・トレイン』『クール・ストラッティン』『サムシン・エルス』などには、モノラル版とステレオ版が存在する。
1959年、ヴァン・ゲルダーはニュージャージー州イングルウッド・クリフスに専用スタジオを開設した。以後、ブルーノートの主要なセッションの多くが同スタジオで行われ、『モーニン』『処女航海』『アウト・トゥ・ランチ』などが録音された。
1964年には、前年に録音されたリー・モーガンの『ザ・サイドワインダー』が発売された。初回プレス4,000枚が短期間で完売し、タイトル曲もシングルとしてヒットするなど、同作はブルーノート史上最大級の商業的成功を収めた[13]。
しかし、ヒット作の成功だけでは小規模な独立レーベルとしての経営上の問題を解消できず、ライオンとウルフは1965年にブルーノートをリバティ・レコードへ売却した。両者は売却後もレーベルに残ったが、ライオンは企業組織のもとでの制作体制になじめず、健康上の問題もあって1967年に退任した[14]。ライオンの退任後は、ウルフとピアニスト兼編曲家のデューク・ピアソンが主に録音制作を担当し、リード・マイルスも同時期にジャケット制作から離れた。
日本では、東芝音楽工業が1966年からアメリカ盤に日本語の帯や解説を付けて販売していたが、1968年に日本国内でプレスしたブルーノート盤の発売を開始した。最初の国内プレスは主に45回転シングルで、国内プレスのLPは1969年から発売された[15]。
1970年代には、親会社リバティ・レコードの事業がユナイテッド・アーティスツの管理下へ統合され、1971年のフランシス・ウルフ死去後、プロデューサーのジョージ・バトラーがレーベルの制作を主導した。1972年からはユナイテッド・アーティスツの番号体系を取り入れ、カタログ番号に「BN-LA」を用いた、いわゆる「LAシリーズ」が開始された[16]。
この時期も従来のハード・バップやポスト・バップの作品は制作されたが、同時にエレクトリックピアノ、シンセサイザー、エレクトリックベース、ボーカル、ストリングスなどを取り入れ、ファンク、ソウル、R&B、フュージョンへ接近する作品が増加した。とりわけバトラーのもとで、ドナルド・バードとマイゼル兄弟による制作がレーベルの新たな方向を示し、『ブラック・バード』は当時のブルーノート史上最大の売上を記録した。代表的な作品には、バードの『ブラック・バード』『プレイシズ・アンド・スペイシズ』、ボビー・ハンフリーの『ブラックス・アンド・ブルース』、ボビー・ハッチャーソンの『モンタラ』、ロニー・ロウズの『プレッシャー・センシティヴ』、モアシール・サントスの『マエストロ』などがある[17]。
視覚面でも、リード・マイルスの幾何学的なタイポグラフィとウルフのモノクローム写真を中心とした統一的な様式から、複数のデザイナーによるカラー写真、イラストレーション、大胆な書体を用いた多様なジャケットへと移行した。1973年から1978年頃には、青一色のレーベル面に黒い「b」と音符を組み合わせたロゴが使用され、音楽だけでなくレーベルの視覚的な印象も刷新された[18]。
1977年、日本におけるブルーノート作品の発売権は東芝EMIからキングレコードへ移り、同社は復刻盤や未発表音源を含む多数の日本盤を発売した[19][20]。
1979年11月2日に行われたホレス・シルヴァーのセッションを最後に、ブルーノートによる新規録音は事実上中断され、レーベルは休眠状態に入った[21]。この期間にも、プロデューサーのマイケル・カスクーナらによって、過去の録音や未発表音源の発掘・再発が進められた。
1984年、親会社のEMIは、レコード会社経営者のブルース・ランドヴァルにブルーノートの再建を要請した。ランドヴァルはカスクーナと協力し、かつて所属していたジミー・スミス、マッコイ・タイナー、フレディ・ハバード、ジョー・ヘンダーソンらの復帰を進める一方、ダイアン・リーヴス、ミシェル・ペトルチアーニ、ジョン・スコフィールドらを新たに契約し、レーベルを再始動させた[22]。
1985年2月22日には、ニューヨークのタウン・ホールで再始動を記念するコンサート「ワン・ナイト・ウィズ・ブルーノート」が開催された。公演には、ハービー・ハンコック、フレディ・ハバード、ジョー・ヘンダーソン、ボビー・ハッチャーソン、ジミー・スミス、セシル・テイラーら、ブルーノートに縁のある多数の演奏家が出演した[23]。
1990年代には、従来のジャズに加えて、ヒップホップやR&Bとの接点も広がった。イギリスのグループ、Us3はブルーノートの旧録音を公式にサンプリングする許可を得て、ハービー・ハンコックの「カンタロープ・アイランド」を使用した「カンタループ(フリップ・ファンタジア)」を発表した。同曲は1994年にアメリカでヒットし、アルバム『ハンド・オン・ザ・トーチ』はブルーノート作品として初めてアメリカでプラチナ・ディスクに認定された[24][25]。
1998年には、ヴァン・ゲルダーが自ら録音を担当した、ブルーノート作品のデジタル・リマスターを開始した。これらは「RVGエディション」として継続的に再発された[26]。1998年のスイングジャーナル社主催の「ジャズ・ディスク大賞」で、同年度のリマスタリング部門と企画部門の2部門を受賞した。
2002年には、ノラ・ジョーンズのデビュー・アルバム『カム・アウェイ・ウィズ・ミー』が発売され、世界的なヒットとなった。ジョーンズは同作によって、2003年のグラミー賞で年間最優秀アルバム、年間最優秀レコード、年間最優秀楽曲、最優秀新人賞などを受賞した[27]。
2004年には、17歳で録音した松永貴志のアルバム『STORM ZONE』(日本盤題『MOKO-MOKO』)が米国をはじめ各国で発売され、ブルーノート史上最年少のリーダー録音とされた[28]。
2006年、EMIはブルーノートを中心として、マンハッタン・レコード、ナラダ・プロダクション、ハイアー・オクターヴ、バック・ポーチ、エンジェル・レコードなどを統合したブルーノート・レーベル・グループを設立した[29]。
音楽プロデューサーのドン・ウォズは2011年にブルーノートの最高クリエイティブ責任者に就任し、翌2012年に社長となった[30]。同年、ユニバーサル ミュージック グループがEMIのレコード音楽事業を買収したことにより、ブルーノートは同社傘下のキャピトル・ミュージック・グループに組み込まれた[31]。日本では2013年4月、EMIミュージック・ジャパンがユニバーサル ミュージックに吸収合併された[32]。
2013年には、ロバート・グラスパーのアルバム『ブラック・レディオ』がグラミー賞の最優秀R&Bアルバムを受賞した[33]。
2014年には、日本出身のトランペット奏者黒田卓也がブルーノートから『ライジング・サン』を発表した[34]。
グレゴリー・ポーターは、ブルーノートから発表した『リキッド・スピリット』で2014年、『テイク・ミー・トゥ・ジ・アレイ』で2017年のグラミー賞最優秀ジャズ・ヴォーカル・アルバムを受賞した[35]。
2018年には、ソフィー・フーバー監督によるドキュメンタリー映画『Blue Note Records: Beyond the Notes』(日本題『ブルーノート・レコード ジャズを超えて』)が制作され、同年のトライベッカ映画祭で世界初上映された[36][37]。
2010年代後半以降、ドン・ウォズ体制のブルーノートは、ベテラン奏者の活動を支える一方、現代ジャズの若手・中堅奏者を継続的に起用した。チャールス・ロイド、ビル・フリゼール、ジョシュア・レッドマン、ロニー・フォスターらの作品に加え、アンブローズ・アキンムシーレ、ジュリアン・ラージ、ジョエル・ロス、イマニュエル・ウィルキンス、メリッサ・アルダナ、ヌドゥゾ・マカティーニ、DOMi & JD BECKらの録音を発表した。また、ノラ・ジョーンズ、グレゴリー・ポーター、ミシェル・ンデゲオチェロなど、ジャズとR&B、ソウル、ポップス、シンガーソングライターの表現を横断する音楽家も所属し、レーベルの音楽的領域を広げた[38]。
この時期の若い奏者による作品では、伝統的な小編成ジャズの語法を基礎としながら、ヒップホップ、R&B、現代音楽、電子音楽、アフリカ音楽などを取り入れる傾向がみられた。代表的な作品には、ジョエル・ロスの『KingMaker』(2019年)、イマニュエル・ウィルキンスの『Omega』(2020年)、ヌドゥゾ・マカティーニの『Modes of Communication: Letters from the Underworlds』(2020年)、ミシェル・ンデゲオチェロの『The Omnichord Real Book』(2023年)などがある。
2024年には創立85周年を迎え、所属する若手奏者によるブルーノート・クインテットのツアー、フランシス・ウルフの写真展、旧作の再発、新作の発売などを行った。この時期のブルーノートは、新しい録音の制作、国際的なアーティストの発掘、歴史的カタログの修復・再発を並行して進めている[38]。
特徴
制作方針とレパートリー
創設者のアルフレッド・ライオンとフランシス・ウルフは、ジャズを短時間で大量に録音する商品としてではなく、演奏家の作曲、即興、アンサンブルを記録する芸術作品として制作する方針をとった。ライオンは、十分な準備を行わないまま規定時間内に曲数を録音する当時の制作慣行を避け、必要に応じて録音時間を延長した。演奏家には録音当日だけでなく、事前のリハーサルにも報酬が支払われた。これは当時のジャズ・レコード業界では一般的な慣行ではなかった[39]。
リハーサル時間を確保することにより、ブルーノートではスタンダード曲の即興演奏だけでなく、演奏家自身による新曲、複雑な編曲、多管編成の作品を録音しやすい環境が形成された。レーベルはセロニアス・モンク、バド・パウエル、ホレス・シルヴァー、ハービー・ハンコック、ウェイン・ショーター、アンドリュー・ヒルらの自作曲を積極的に録音し、器楽演奏とオリジナル曲を中心とするレパートリーを蓄積した[40]。
ライオンは、若手とベテラン、ブルースやR&Bに近い演奏家と実験的な演奏家を組み合わせて録音することも多かった。このためブルーノートはハード・バップと強く結び付けられているが、実際のカタログにはビバップ、ソウル・ジャズ、オルガン・ジャズ、アヴァンギャルド・ジャズ、ゴスペルを取り入れた作品なども含まれる[40]。
ヒット作を出せなかった演奏家との契約を直ちに打ち切らず、長期的な関係を築いた点も特徴とされる。録音後には批評家や音楽ライターによる詳細なライナーノーツを掲載し、レコードを演奏、録音、写真、文章、装丁からなる一つの制作物として提示した[41]。
ブルーノート・サウンド
「ブルーノート・サウンド」という表現は、主として1950年代から1960年代に制作された録音の音響と演奏様式を指して用いられる。音響面では、録音エンジニアのルディ・ヴァン・ゲルダーが大きな役割を果たした。ライオンは1952年頃、ヴァン・ゲルダーが録音したギル・メレのレコードの音質に注目し、1953年からブルーノートの録音を継続的に依頼した[42]。
録音は当初、ニュージャージー州ハッケンサックにあるヴァン・ゲルダーの両親の自宅兼スタジオで行われ、1959年以降は同州イングルウッド・クリフスに建設された専用スタジオが中心となった。ハッケンサックのスタジオは住宅の居間を利用した空間で、イングルウッド・クリフスのスタジオは高い天井を持つ独自の建築と音響を備えていた[42]。
ヴァン・ゲルダーの録音は、管楽器の音の立ち上がりや息遣い、打楽器の力強さ、ベースの存在感を明瞭に捉えながら、個々の楽器を分離しすぎず、同じ空間で演奏するアンサンブルの一体感を保つものと評されている。『ザ・ニューヨーカー』のリチャード・ブロディは、その特徴として、管楽器の音色の鋭さ、打楽器が全体を圧倒しない均衡、各奏者の音が前面に出ながら互いに絡み合う感覚を挙げている[42]。
一方、ヴァン・ゲルダーはプレスティッジ・レコード、サヴォイ・レコード、インパルス!レコードなど、他のレーベルの録音も多数担当していた。したがってブルーノート・サウンドは、録音技術だけで生み出されたものではなく、ライオンのプロデュース、事前のリハーサル、演奏家の組み合わせ、オリジナル曲を重視した選曲、録音空間などが結び付いた結果と考えられている[41][42]。
1960年代末以降、録音場所、プロデューサー、編成、制作方法は多様化した。1970年代には電気楽器、ストリングス、ボーカル、多重録音などが取り入れられたため、「ブルーノート・サウンド」はレーベルの全時代に共通する固定的な音響ではなく、特にライオンとウルフが運営した時代の制作美学を示す呼称として用いられることが多い。
写真とジャケット・デザイン
ブルーノートは、音楽だけでなく、アルバムの写真とグラフィック・デザインによっても独自のブランドを確立した。初期のLPジャケットにはジョン・ハーマンサダー、ギル・メレらが関わり、1956年頃からグラフィックデザイナーのリード・マイルスが多数のジャケットを手がけた[41]。
ウルフは録音セッションやリハーサルへカメラを持ち込み、演奏中の奏者だけでなく、譜面を確認する姿、休憩、楽器の調整、スタジオ内の会話などを撮影した。これらは宣伝用の記録であると同時に、演奏家を創作に取り組む芸術家として表現した写真作品でもあった。ブルーノートが所蔵するウルフの写真資料には、1940年から1970年までに撮影された2万点以上の画像が含まれている[43]。
マイルスはウルフのモノクローム写真を大胆に切り抜き、サンセリフ体を中心とするタイポグラフィ、限られた色数、非対称な配置、大きな余白を組み合わせた。写真をジャケット全面へ均等に配置するのではなく、顔、手、楽器などを部分的に拡大し、文字を写真と同等の造形要素として扱った。写真を使用せず、文字、線、色面だけで構成されたジャケットも制作した[41]。
マイルスは必ずしも熱心なジャズ愛好家ではなく、ライオンからアルバムの音楽的性格について説明を受け、それを視覚的な構成へ置き換えていた。デザイン誌『Eye』は、録音、写真、デザイン、レーベル運営が相互に結び付くことで、1950年代後半から1960年代半ばのブルーノートに統一された表現が成立したと論じている[41]。
マイルスとウルフによるジャケットは、フレディ・ハバードの『Hub-Tones』、ジャッキー・マクリーンの『It's Time!』、ジョー・ヘンダーソンの『In 'n Out』、ラリー・ヤングの『Unity』などを含め、ニューヨーク近代美術館のデザイン・コレクションにも収蔵されている[44]。
1960年代後半にマイルスがブルーノートの仕事から離れ、ライオンとウルフも相次いでレーベルの制作現場を去ると、ジャケットの様式は次第に多様化した。1970年代のLAシリーズでは、カラー写真、イラストレーション、装飾的な書体などが広く使用され、音楽のファンク、ソウル、フュージョンへの接近と並行して、視覚的なブランドも再構成された。
代表的なアーティスト
過去に所属していたアーティストを含む。
トランペット
サクソフォーン
ピアノ
ドラムス
ベース
トロンボーン
ギター
ヴィブラフォン
ボーカル
他楽器
所有レーベル
- ブルーノート・レーベル・グループ
- ブルーノート・レコード
- ナラダ・プロダクション
- バック・ポーチ・レコード
- リール・ワールド・レコード
- モザイク・レコード
- マンハッタン・レコード
- パシフィック・ジャズ・レコード
- ルーレット・レコード
関連書籍
- マイケル・カスクーナ、油井正一『ブルーノートJAZZストーリー』新潮社〈新潮文庫〉、1987年
- 行方均『ブルーノート再入門』径書房、1994年。のち〈朝日文庫〉、1999年。
- 行方均『ブルーノートの名盤』立風書房、1996年
- リチャード・クック『ブルーノート・レコード』前野律訳、行方均監修、朝日新聞社〈朝日文庫〉、2002年
- 中山康樹『超ブルーノート入門:ジャズの究極・1500番台のすすめ』集英社〈集英社新書〉、2002年
- 小川隆夫『ブルーノート・ジャズ』平凡社〈平凡社新書〉、2003年
- 中山康樹『超ブルーノート入門完結編:4000番台の至福』集英社〈集英社新書〉、2004年
- 小川隆夫『ブルーノートの真実』東京キララ社、2004年
- 『ブルーノート決定盤100』宝島社、2004年
- 小川隆夫『はじめてのブルーノート』音楽之友社、2005年
- 小川隆夫『ザ・ブルーノート、ジャケ裏の真実』講談社、2008年
- 中山康樹『ブルーノート名盤 其の壱《鍵弦打編》』プリズム〈プリズム・ペーパーバックス〉、2009年1月
- 中山康樹『ブルーノート名盤 其の弐《管楽器編》』プリズム〈プリズム・ペーパーバックス〉、2009年4月
- 行方均『ブルーノートの名盤 改訂新版』学研パブリッシング、2010年3月
- 中山康樹『黒と白のジャズ史』平凡社、2011年10月
- 行方均『名曲・名盤のブルーノート物語:最強のジャズ100年史』学研プラス、2016年