モーノホイ
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土木の変が起こった頃にはオイラトのエセンの配下であったようで、景泰元年(1450年)閏正月には弟のボロトとともに北京方面に出兵したが敗れたとの記録がある[1]。
この後、エセンはタイスン・ハーンを弑逆して自らハーン位に就いたが、モンゴル諸侯の反発を受けて景泰5年(1454年)中には殺されてしまった。そこで、東部モンゴリアの諸侯が擁立したのがマルコルギス・ハーンで、景泰6年(1455年)4月にモーノホイはマルコルギスおよびスルタン(鎖魯檀)・平章エンケ(昂克)・ボロト(孛羅)らとともに使者を派遣しており、マルコルギスの重臣の一人であったようである[2]。また同年10月には「マルコルギスならびにモーノホイ・ボロトらが4万騎を率いてアラク・テムルを攻めようとした」との記述があり、マルコルギス麾下の中でも有力な諸侯であったことが窺える[3]。
モーノホイの活動に関する記録は以上であるが、成化15年(1479年)にはベグ・アルスランを殺害して「太師」の地位を得たイスマイルに関して、「その父のモーノホイ(毛那孩)はかつて太師であり、故に衆心はこれ(イスマイル)に帰した」との記録がある[4]。モーノホイが太師であったのは、エセンの死後、ボライが太師を称する天順元年(1457年)以前のことと推定される。
脚注
- ↑ 『明英宗実録』景泰元年閏正月甲戌(二十九日),「……又言把台常至太上皇所、痛哭云、太上皇帰、我亦帰。若不帰、我亦不帰。其心常在于中国。其誘也先肆虜掠者、皆喜寧及小田児。也先在大同廝殺、折了把八平章、在北京折了毛那孩平章及其弟孛羅合人馬計有九万、戦死及疫死已不下万餘。其老営在九龍口、精鋭俱在断頭山。又言、吾之大炮・神銃・短鎗、虜所甚畏。……」
- ↑ 『明英宗実録』景泰六年四月戊戌(二十三日),「迤北王子麻児可児遣正副使皮児馬黒麻・鎖魯檀・平章昂克・毛那孩・孛羅遣使臣可可・宛者赤・板達阿里等、進貢馬駝至京言。孛羅以阿剌知院殺死也先、率兵攻之、殺敗阿剌、奪得玉宝并也先母妻」
- ↑ 『明英宗実録』景泰六年十月乙卯(十三日),「兵部奏。近得朶顔衛使臣言、北虜脱脱卜花王子馬児可児吉思并毛那孩・孛羅等、領四万騎、欲攻阿剌知院。阿剌屯坎坎地面、亦聚衆三万待之。夷虜相攻、勢不可両立、敗亡者必来假息近辺、勝捷者必至乗勢入寇。乞移文各辺総兵等官、多遣間諜、厳為守備。従之」
- ↑ 『明憲宗実録』成化十五年五月庚午(九日),「福餘衛都指揮扭歹等奏報、迤北癿加思蘭為其族弟亦思馬因所殺……居数年、満都魯部下大頭目脱羅干等不分、与亦思馬因謀殺之、遂立亦思馬因為太師。亦思馬因者、其父毛那孩曽為太師、故衆心帰之也」
参考文献
- 岡田英弘訳注『蒙古源流』刀水書房、2004年
- 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年
- 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年
- 宝音徳力根Buyandelger「15世紀中葉前的北元可汗世系及政局」『蒙古史研究』第6輯、2000年
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