ラーパイ・ノーセン
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| ラーパイ・ノーセン Lahpai Naw Seng | |
|---|---|
| 1920年 - 1971年 | |
| 渾名 | ピンマナ共産主義者の恐怖 |
| 生誕 | シャン州クッカイ郡区ロイカン村 |
| 所属組織 |
北部カチン・レヴィース ミャンマー軍第1カチン・ライフル部隊 ポンヨン民族防衛隊 ビルマ共産党(CPB)人民解放軍 |
| 軍歴 | 1942年 - 1971年 |
| 勲章 | ビルマ勇敢勲章(BGM)2回 |
| 出身校 | 連邦憲兵学校(ラーショー) |
| 配偶者 |
ナイロイ(Nai Roi) ンディン・ロイ(Nding Roi) |
| 子女 | 8人 |
ラーパイ・ノーセン(Lahpai Naw Seng、1920年 - 1972年)は、ミャンマー(旧ビルマ)のカチン族の軍事指導者で、民族的英雄。第二次世界大戦中の対日抗戦における英軍傘下での活躍や、ビルマ独立後のカチン民族主義を掲げた反政府蜂起で知られる。
ノーセンはシャン州北部に位置するカチン族の村で生まれた。第二次世界大戦中、英軍指揮下のゲリラ部隊「北部カチン・レヴィーズ(Northern Kachin Levies、〈カチン語:Wunpawng Jawt Gasat Dap〉)」に加わり、対日ゲリラ戦において数々の武功を挙げた。その勇猛さから英軍より「ビルマ勇敢勲章(Burma Gallantry Medal:BGM)」を2度授与された。
独立後のビルマにおいては、ミャンマー軍(国軍)将校として反乱鎮圧に従事したが、1949年に民族自決を掲げて反旗を翻した。カチン族独自の武装勢力「ポンヨン民族防衛隊(Pawngyawng National Defense Force:PNDF)」を組織し、一時はビルマ北部を席巻。1950年に中国へと逃れた後は、ビルマ共産党(CPB)の支援を受けつつ活動し、1972年に中国国内で客死した[1]。
彼の生涯は、現代のカチン独立軍(KIA)の思想的基盤に多大な影響を与えている。
生い立ち
ラーパイ・ノーセンは1922年(1920年説あり)、現在のシャン州クッカイ郡区タモニエ(Tarmoenye)にあるロイカン村(Loi Kang village)に生まれた[2]。父のラパイノー(Laphai Naw)は名の知れた猟師であり、ノーセンは7歳の頃から父の狩猟に同行して射撃の技術を磨いたとされる[3]。
1935年、15歳の時にラシオの連邦警察予備隊(Union Military Police)のアカデミーに入隊した。小柄ながら機敏で決断力に富む性格であり、軍事戦略のほか、カチン文学や英語も学んだ。当時の教官からは将来の有能な軍事指導者としての素質を見出されていた[3]。
第二次世界大戦
1942年7月15日、ミャンマーに侵攻してきた日本軍(第15軍)と戦うために、地元のカチン族の若者を集めて民兵団を結成。その後、当地にパラシュート降下してきたイギリス軍によって、民兵団は北部カチン・レヴィーズ に再編された。NKLは7,000人の兵士を擁し、A、B、C、D、E、F、Gの7個中隊で構成され、各中隊は4個小隊で構成されていた。ノーセンは当初、小隊長に任命されたが、すぐにD中隊の指揮官に昇進した[3]。
ノーセンはこの部隊の指揮官としてミッチーナ奪還作戦などで多大な戦果を挙げた。その戦いぶりは日本軍からも「不死身の男(The Bulletproof Man)」として畏怖された。英軍は彼の功績に対し、ビルマ勇敢勲章(BGM)を2度授与した[4]。
なお、ノーセンは日本軍兵士を殺した証拠に、遺体からその耳を削ぎ落としたと伝えられる[4]。同じようなエピソードは、バーティル・リントナーの『Burma in Revolt』の中に描かれている[5]。
ジョセフ・スティルウェル将軍は、成功したカチン族のレンジャーゲリラ部隊のリーダーに、特定の戦闘で死亡した日本人の数がいかに多く、正確であるかをどうして確信できるのかと尋ねた。カチン族は竹筒を開け、干からびた耳を山ほどテーブルに投げ捨てた。「2で割れ」と彼はスティルウェルに言った。
1945年9月、キャンディ協定にもとづいて、英領ビルマ軍と愛国ビルマ軍新生国軍が誕生した際、ノーセンは第1カチン・ライフル大隊を率い、重砲、迫撃砲、機関銃の訓練の受けた[6]。
ビルマ独立と反政府蜂起
1948年1月、ミャンマーはビルマ連邦として独立したが、その直後から、ビルマ共産党(CPB)やカレン民族同盟(KNU)などが反乱を起こし、ミャンマーは内戦状態に陥った。この際、シャン族、カチン族、チン族といったパンロン協定に署名した少数民族は、中央集権的な1947年憲法体制に不満を抱きながらも、反乱軍側に回らず、ウー・ヌの政府を支援した[7]。
ノーセンの第1カチン・ライフル大隊はCPBの部隊と戦う命令を受け、マンダレー地方域ヤメイティン郡区やタニンダーリ地方域でCPBと戦った。その際、カチンの部隊は国軍上層部から、敵の通信線と補給路を遮断し、捕虜・逃亡者を処刑し、反乱軍を匿う村々をすべて破壊するよう指示されたとされる。ノーセン以下カチン族兵士たちには、ビルマ族に対する敵意を抱いていなかったが、命令には従うしかなかった。これらの残虐行為のためにノーセンには「ピンマナ共産主義者の恐怖」というあだ名が付いたが、次第に不満を溜め込んでいったとされる[7]。
1949年2月、当時ピンマナ(現ネピドー)に駐留していた第1カチン・ライフル大隊は、KNUの武装組織・カレン民族防衛機構(KNDO)が支配していたバゴー地方域タウングーの奪還を命じられた。カチンの部隊は一旦タウングーに向かったが、途中、ノーセンは同じキリスト教徒のカレン族と戦うことを良しとせず、ピンマナに引き返して全軍に離反を告げた後、タウングーに赴いてKNDOと合流した[8]。
その後、カチン・カレン同盟軍は、「上ビルマ作戦」と呼ばれる軍事作戦を発動し、ピンマナ、ヤメイティン、メイッティーラを次々と占領した。2月21日、メッティーラの空軍基地でダコタ機を2機奪い、1機にカチンの小隊が、もう1機にカレンの小隊が乗り込み、メイミョーの陸軍基地に向かった。基地ではヤンゴンから要人が到着したと考えた士官たちが勢揃いで出迎えたが、着陸したダコダ機から飛び出したカチン・カレンの兵士たちは彼らを全員拘束し、カレン族の捕虜を解放した。捕虜の多くが反乱軍に加わったが、解任されたばかりの前国軍総司令官スミス・ダンを含む相当数の捕虜はこれを拒否したと伝えられる。3月13日にはミャンマー第二の都市マンダレーを占領した[9][8]。
その後、カチン・カレン同盟軍はヤンゴン奪還を目指して南下したが、ニャウンレービンでチョーゾー率いる国軍部隊と衝突。町自体は占領したが、弾丸と物資不足に陥り、KNU議長ソー・バウジーがコートレイ暫定政府の樹立を宣言していたタウングーにまで撤退した[10][11]。

同年8月、カチン・カレン同盟軍はシャン州に攻勢をかけ、8月13日にタウンジー、8月27日にラーショー、その次にナムカムを占領した。その後、国軍の援軍が北方からナムカムに迫ってきたので、カチン・カレン同盟軍はクッカイに赴いた[12][13]。
11月、ノーセンはクッカイでポンヨン民族防衛隊(Pawngyawng National Defence Force:PNDF)を結成した。ポンヨンはカチン族の古い祖先で、PNDHの旗は、下半分は豊かで肥沃なカチンの土地を象徴する緑、上半分は反乱で亡くなった人々を悼む赤で、中央には交差した2本のカチン・ダー(伝統的な剣)が掲げられており、のちにKIO/KIAの旗ともなった。カレン族の民族主義に影響を受けたノーセンはカチン州にポンヨン共和国を樹立することを夢見ていたと伝えられる。この時点でPNDFは約2,000人の兵士を擁し、カチン族だけではなく、カレン族やシャン族も若干名含まれていた[12][13]。
その後、PNDFは、モンコー(Mong Ko)、モンホム(Mong Hom)、モンヤー(Mong Ya)、ポンセン(Phong Hseng)などの中緬国境で国軍の部隊と激闘を繰り広げたが、次第に弾薬が尽きかけてきた。国軍のほかのカチン・ライフル部隊は離反の気配を見せず、地元のカチン族の長老たちも、ノーセンのビジョンには否定的だったとされる[12][13]。
ノーセンは、国境の向こう側のマンハイの地元当局者と非公式の会談を行い、彼らはPNDFを難民として受け入れることに同意した。1950年5月5日、ノーセンは400人の兵士を率いて雲南省に亡命した。カチン州に残った兵士の中には、のちにKIO/A初代議長となるゾーセン(Zaw Seng)がいた[12][13]。
中国亡命とビルマ共産党(CPB)
亡命後、ノーセンら元PNDFの兵士たちは、貴州省の人民公社に所属し、地元の女性と結婚して、工場などで働いていた。しかし、1963年初頭、ヤンゴンで和平交渉が始まる前に、ノーセンは四川省に連れてこられ、同じく亡命中だったCPB幹部タキン・バテインティンに引き合わされ、「ミャンマーに戻って戦う時が来た」と告げられた。中国での暮らしにうんざりしていたノーセンらPNDF兵士たちはこれを承諾し、軍事訓練と政治教育を受けた[14][15]。
1968年1月1日、国製兵器で重装備したノーセン率いる約300人のカチン族のCPB部隊が、18年前に中国へ撤退した町・モンコーへ侵入。そこに駐屯していた37人の国軍兵士を撃退し、町を占拠した。新年の祝賀会を楽しんでいたモンコーの人々はカチン族の英雄の帰還を歓迎し、ノーセンは国軍の前哨基地から奪った米、塩、練乳などの物資を人々に配り、村人たちと握手して回ったと伝えられる[16][17]。
その後、CPB部隊は8月までにシャン州北東部に3,000平方kmの地域を支配下に収め、「北東軍区」(North-East Command)を設置し、ノーセンが軍司令官に任命された。しかし、帰国してから数週間以内にノーセンは自分が戦っている相手が、国軍ではなく、同じカチン族のKIAであることに気づいて愕然とした。亡命中は情報を遮断されており、ノーセンはKIO/Aの存在を知らなかったと伝えられる[16]。
死
1971年3月9日、ノーセンはモンマウ(Mong Mau)近郊で死去した。CPBの最初の内部発表では、彼は「前線に向かう途中」に落馬して死亡したとされていた。しかし、すぐにその公式発表は変更され、ワ丘陵地帯で狩猟中に崖から転落して死亡したとされた[18]。
現在でも多くのカチン族の人々は、ノーセンがKIAと戦うことを拒否したためにCPBに暗殺されたと信じている。しかし、死の直前にノーセンに会った人々は、彼のCPBに対する忠誠は揺るぎないものだったと証言している。実際、ノーセンが北東軍区の司令官だった1968年から1971年の時期はCPBの領土が非常に拡大した時期だった[19]。
一方、敗戦の後にノーセンが大酒を飲んでいたという証言もあり、CPBの公式発表を信じている者もいる[19]。