三角山 (鳥取県)

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位置 北緯35度20分17.2秒 東経134度13分8.5秒 / 北緯35.338111度 東経134.219028度 / 35.338111; 134.219028座標: 北緯35度20分17.2秒 東経134度13分8.5秒 / 北緯35.338111度 東経134.219028度 / 35.338111; 134.219028
三角山
千代川に架かる雛橋から望む三角山。中央の尖った山頂が三角山で、左側の低い頂きがお城山。
標高 516[1] m
所在地 日本の旗 日本 鳥取県鳥取市(旧用瀬町
位置 北緯35度20分17.2秒 東経134度13分8.5秒 / 北緯35.338111度 東経134.219028度 / 35.338111; 134.219028座標: 北緯35度20分17.2秒 東経134度13分8.5秒 / 北緯35.338111度 東経134.219028度 / 35.338111; 134.219028
山系 中国山地
三角山 (鳥取県)の位置(日本内)
三角山 (鳥取県)
三角山の位置
プロジェクト 山
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三角山(三隅山[2]、みすみやま[1])(別名「頭巾山[3]・襟巾山[2](ときんやま[4]、とっきんざん[1])」)は、鳥取県鳥取市(旧用瀬町)にある山で、中国百名山の一つ。標高516メートルの山頂には三角山神社があり、その本殿は鳥取市の指定文化財になっている[5]

山名の由来

三角山は旧用瀬町の中心部の背後に聳える山で、南の洗足山と峰続きになっている。周辺では珍しい花崗岩の山で、侵食によって山頂付近は三角形に鋭く尖っていて、アカマツが林立し、巨岩巨石がある[1][2][6]

山の東麓を鳥取県を代表する千代川の本流が流れており、支流の佐治川との合流点付近の平野に用瀬町の中心市街がある。一方、西麓には千代川の支流の赤波川が北流しており、三角山の裾野を回るように西から北へ流れ、千代川に合流する。この合流地点付近の平野部は用瀬市街地より広く、鷹狩地区(旧鷹狩村)の集落がある[1][3][4]

三角山の北麓は鷹狩地区へ向かって下っているが、途中に標高325メートルの頂があり、戦国時代に景石城があったことからお城山と呼ばれている[4][1]

山頂にある三角山神社の社伝に拠ると、天孫降臨のときに道案内を務めた猿田彦命が、この山に住んでいたことから「御栖山(みすみやま)」と呼ばれていた[7][1]。これが「三角山」に転訛したとしている[7][1]

一方『因幡志』では、「頭布山」の起源として、当山がもともと山伏の三角形の頭巾の形状に似ていることから「襟巾山」と称したと伝えている[7][3][1][2][8]

三角山神社

三角山は、古くは「滝社峰錫(ほうしゃく)権現(峰錫坊権現、峯先錫坊権現)」といい、山岳信仰修験道の修行地で、江戸時代には鳥取藩の祈願所が置かれていた[1][7][4][5]。山域は太平洋戦争前までは女人禁制で、麓には垢離場や女人堂が残されている[1][7][4][5][8][9]。このため用瀬では山や神社を「峰錫さん」とも呼ぶ[10]享保年間から8月24日 (旧暦)を祭礼日とし、「用瀬の滝祭り」と称していたが、新暦となった現在では7月23日が祭礼日となっていて、名物の「あめ湯」の販売や松明行列などを行う用瀬の夏祭りになっている[8][2][11][7][3][4]

明治時代に神社体系の整備が行われると、「三角山神社」となり、山麓の東井村にあった妙見社(東井神社に改称)の摂社の扱いとなった[4][10][1]。この時から修験道の聖地としての性格は失った[注 1]が、戦後まで女人禁制のしきたりは残っており、参道入口にある女人堂(山下本宮)までしか立ち入ることができなかった[9][12][1]

山頂にある本殿は天正期の戦乱で焼失し、1626年寛永3年)に再建された記録がある[1]。現在の本殿は1845年弘化2年)のもので、明治期に方角を直されている[5]。この本殿は1976年昭和51年)に旧用瀬町の指定文化財となった。のちに用瀬町が鳥取市と合併したため、2014年現在は鳥取市の指定文化財となっている[5]。祭神は猿田彦大神である[12]

景石城とお城山

三角山から北へ尾根伝いにゆくと標高325mのピークがあり、戦国時代に景石城があった[4]。このためこの山を「お城山」と呼んでいる[4]。景石城の言及は古くは太平記にみえ、地元の用瀬氏、播磨赤松氏、山陰の山名氏が争ったと伝わる[4]

景石城は豊臣秀吉勢による中国攻略の折にも戦場となり、秀吉配下の磯部康氏が守将となったため「磯部城」とも呼ばれる[4]。磯部氏は山名氏の傍系で、同族で毛利方の山名豊国が景石城を攻めると、戦わずに退却した。落城に際して、鎮魂のために用瀬の盆踊り唄が生じたという伝承もある[13]。磯部氏は翌年の鳥取城攻めで功をあげ、景石城と智頭郡の半分に相当する3000石を与えられて約20年間治めた[4][3]。のちの用瀬宿の発展はこの治世によって育まれたとされている[4][13]。磯部氏は、関ヶ原の戦いで西軍に与したため、戦後に所領を失った[4][14]

城は江戸時代に一国一城令によって破棄されたが、城跡は鳥取市(用瀬町)の史跡となっている[3][14]。石垣は現存しており、好天時には一の丸跡の石垣から日本海を望む[3]

登山ルート

三角神社の参道が登山道に相当し、近年はハイキングコースとして用瀬から三角山・景石城跡へのルートが整備されている[15][16]用瀬駅から20分ほどで女人堂がある参道の入り口に至り、そこから山頂までは約40分[6][注 2]の道程である[1][9][12]。参道の途中には、大正時代の鳥取出身の歌人、谷口雲崖の歌「鶯や この道行けば 女人堂」の石碑や、種田山頭火在原行平の歌(後述)の石碑がある[17][18]。山頂までは一部に急斜面や鎖場がある[6]

文学と三角山

脚注

参考文献

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