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穂積陳重

日本の法学者 From Wikipedia, the free encyclopedia

穂積 陳重(ほづみ のぶしげ、入江陳重、いりえ のぶしげ、1856年8月11日〈安政3年7月11日〉[1] - 1926年〈大正15年〉4月7日)は、明治から大正期の日本の法学者。日本初の法学博士の一人[2]。東京帝国大学法学部学部長[3]。英吉利法律学校(中央大学の前身)の創立者の一人。貴族院議員(勅選)。男爵。枢密院議長。勲一等旭日桐花大綬章。現在の愛媛県宇和島市出身。獨逸学協会会員。弟子に牧野英一など。

別名 邑次郎
生誕 (1856-08-11) 1856年8月11日
死没 (1926-04-07) 1926年4月7日(69歳没)
国籍 大日本帝国の旗 日本
概要 人物情報, 別名 ...
穂積 陳重
人物情報
別名 邑次郎
生誕 (1856-08-11) 1856年8月11日
死没 (1926-04-07) 1926年4月7日(69歳没)
国籍 大日本帝国の旗 日本
出身校 東京開成学校法学科(中途海外留学)
ミドル・テンプル法曹院
ベルリン大学(聴講生)
配偶者 歌子(渋沢栄一長女)
両親 重樹(父)、綱子(母)、入江左吉(養父)
子供 重遠(長男)、律之助(次男)、貞三(三男)、孝子(長女・渋沢元治妻)、光子(次女・石黒忠篤妻)、真六郎(四男)、晴子(三女・市河三喜妻)
学問
研究分野 法学(法理学)
研究機関 東京大学法学部→帝国大学法科大学→東京帝国大学法科大学
学位 法学博士(日本・1888年)
称号 東京帝国大学名誉教授(1912年)
主要な作品 『法律進化論』(1924-1927年)
学会 帝国学士院
国家学会
法学協会
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生年月日 1856年8月11日
(安政3年7月11日)
出生地 日本・伊予国宇和郡宇和島中ノ町(現:愛媛県宇和島市京町)
没年月日 (1926-04-07) 1926年4月7日(69歳没)
概要 生年月日, 出生地 ...
穂積 陳重
ほづみ のぶしげ
生年月日 1856年8月11日
(安政3年7月11日)
出生地 日本・伊予国宇和郡宇和島中ノ町(現:愛媛県宇和島市京町)
没年月日 (1926-04-07) 1926年4月7日(69歳没)
死没地 大日本帝国の旗 日本・東京府東京市牛込区払方町9(現:東京都新宿区)
前職 東京大学教授
称号 正二位
勲一等旭日桐花大綬章
男爵
配偶者 穂積歌子
子女 穂積重遠(長男)
穂積律之助(次男)
穂積真六郎(四男)
親族 渋沢栄一(義父)
穂積八束(弟)
阪谷芳郎(義弟)
大川平三郎(義弟)
石黒忠篤(娘婿)
大日本帝国の旗 第14代 枢密院議長
在任期間 1925年10月1日 - 1926年4月7日
天皇 大正天皇
在任期間 1925年3月31日 - 1925年10月1日
枢密院議長 濱尾新
在任期間 1916年1月26日 - 1925年3月31日
在任期間 1890年9月29日 - 1892年2月17日
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人物

1856年8月11日(安政3年7月11日)、伊予国宇和島藩領で国学者の鈴木(穗積)重樹の次男・邑次郎として生まれた[注釈 1]。明治に入り鈴木家は穂積に改姓している。13歳で婿養子として入江家と養子縁組(婚約)をし、宇和島藩の貢進生として大学南校入学時は入江邑次郎、開成学校では入江陳重と名乗っている[9]。1876年(明治9年)から文部省の国費留学生[10]としてロンドン大学キングスカレッジに留学。同年ミドルテンプル法学院にも入学。

1878年(明治11年)には、コモン・ロー刑法学士位競争試験を受験し、異文化圏に属しながらアジア人として初めて年間一人の「一等学士」に選ばれる[11]。1879年(明治12年)にミドルテンプルを卒業し法廷弁護人(バリスタ)の称号を得、その後ベルリン大学に移る。

1881年(明治14年)、英独での留学から帰国し、東大法学部講師に就任。この時点では、ボアソナードや仏法学にも好意的だったが、翌年から仏文の財産法草案(プロジェ)を検討するにつれ、批判的になる。この時の学生だった江木衷や奥田義人らが、穏健派の陳重を差し置き、明治22年からの民法典論争で延期派の中核を担う[12]。なお、陳重自身は英仏両派の派閥的感情的争いからは距離を置き、もっぱら学者的見地からの公平な法典批判に徹している[13](後述)。

なお、法学部を卒業した日本の法学士の数は1877年(明治10年)から1882年(明治15年)には全国で僅か38名であり、陳重は「代言人の地位向上、司法権の独立、治外法権の撤廃」を口忙しく強調していたという[14]。

1882年(明治15年)、穂積姓に復帰して渋沢栄一の長女歌子と結婚し、渋沢財閥・大川財閥の縁戚となった。

1885年(明治18年)、司法省の援助を得、増島六一郎・菊池武夫らとともに英吉利法律学校(イギリス法律学校。中央大学の前身)を創立。

1888年(明治21年)、箕作麟祥・田尻稲次郎・菊池武夫・鳩山和夫とともに、日本で初めて法学博士号を授与される。

1890年(明治23年)3月、主著『法典論』を刊行、欧米各国の法典編纂の歴史・方法を網羅し日本法典の拙速主義を批判、法典断行論者をして反省させるに足るものがあったといわれ[15]、後に明治民法制定の理論的基盤となった[16]。

1890年(明治23年)11月、井上馨の三井家政改革において相談役となっていた渋沢栄一・益田孝・三野村利助から、家憲草案の作成を委嘱された[17]。

1893年(明治26年)3月、法典調査会起草委員に就任。現行民法典の起草に中心的な役割を果たし[18]、商法にも関与した。1922年(大正11年)、改正刑事訴訟法法案が成立した際には、枢密院の枢密顧問官を勤めていた。

1926年(大正15年)4月8日 、心臓麻痺のため逝去。満69歳没(享年71)[19]。墓所は谷中霊園。

学説

穂積は、イギリス留学時代に法理学及びイギリス法を研究するかたわら、法学の枠を超え、当時イギリスで激しい議論の的になっていたチャールズ・ダーウィンの進化論、ハーバート・スペンサーの社会進化論などについて、幅広い研究をした。

その後、ドイツへ転学し、ハインリヒ・デルンブルヒの講義を聴講してドイツ法を研究し、サヴィニーに触発され、日本民法へのパンデクテン法体系の導入のきっかけを作った。

穂積の学説は、歴史学派・進化主義の立場に立つもので、民法典論争では、富井政章と共に延期派にくみし、断行派にくみする梅謙次郎と対立した[20]。日本人起草の旧民法家族法に対しては、相続法の構成が良くないが、親族法は過渡期の立法としては概ね妥当という評価であった[21](例外は隠居制[22])。財産法の自然債務規定については、本来道徳領域に属すべきものであるにもかかわらず、フランス民法典にも無いボアソナードの独自説を強引に立法化したために多数の前後矛盾を生じた最悪の失敗作と断じ手厳しい態度を採っているが[23]、逆に所有権の定義については法典および仏民法を批判し、ボアソナード独自説に依った草案の方が妥当とも評している[24]。天賦人権論批判のような感情的非難は全くみられず、個人主義、男女同権、自由民権論などと相通じる面を持っていたといわれる[25]。

刑法では、ロンブローゾの生来犯罪人説を研究し、新派刑法理論を日本に紹介した。

法律もまた生物や社会と同様に進化するものと考える一方で、20世紀をこえた頃から当時再生されつつあった自然法論(新自然法論)を意欲的に摂取し、進化論的立場に矛盾しないものとして再評価している。日本古来の習俗も研究し、後掲『法律進化論』を完成させ出版することを企図していたが、未完のままに終わっている[26]。

年譜

  • 1856年8月11日(安政3年7月11日) - 伊予国宇和島(現在の愛媛県宇和島市)に宇和島藩家老で国学者の鈴木(穗積)重樹の次男として生まれる。
  • 1868年(明治元年) - 父の同僚・入江佐吉[27]の幼い娘の将来の婿養子として望まれ養子縁組する。
  • 1870年(明治3年) - 貢進生として大学南校に入学[3]
  • 1874年(明治7年) - 開成学校に転学
  • 1876年(明治9年) - 文部省の国費留学生としてロンドン大学キングズ・カレッジ入学 / 同年中にミドル・テンプル法曹院入学。
  • 1879年(明治12年) - 同校卒業 バリスター(法廷弁護士)の資格を得る。
  • 1880年(明治13年) - ドイツに移りベルリン大学入学
  • 1881年(明治14年) - 同校卒業 帰国。東京大学法学部講師に就任。伊達宗城家令・西園寺公成が渋沢栄一長女との縁談を持ち込み、入江家と縁を切って翌年結婚。
  • 1882年(明治15年) - 東京大学教授兼法学部長に就任。その後、民法のみならず比較法学・法史学・法哲学等の幅広い分野で日本法学の先駆者、開拓者として活躍。
  • 1884年(明治17年) - 法学協会の会誌『法学協会雑誌』の創刊にあたり、論文『民事訴訟用印紙規則に付 本邦と英独の比較』を寄稿。
  • 1885年(明治18年) - 増島六一郎、菊池武夫らとともに英吉利法律学校(中央大学の前身)を創立。
  • 1888年(明治21年) - 日本国最初の法学博士の学位取得
  • 1890年(明治23年)9月29日 - 貴族院議員に勅選される[28](- 1892年(明治25年)2月まで)
  • 1891年(明治24年) - 大津事件において同郷の大審院長児島惟謙を激励し犯人死刑論を非難。
  • 1893年(明治26年) - 富井政章、梅謙次郎とともに法典調査会主査となり、民法・戸籍法などを編纂。帝国大学法科大学長に就任。
  • 1896年(明治29年) - 民法典公布(1898年(明治31年)施行)。東京学士会院会員となる。
  • 1912年(大正元年) - 大学退職
  • 1915年(大正4年)12月1日 - 男爵叙爵[29]
  • 1916年(大正5年) - 枢密顧問官就任
  • 1917年(大正6年) - 帝国学士院院長に就任
  • 1922年(大正11年)11月20日午後、小石川植物園で開かれた学士院のアルベルト・アインシュタイン夫妻の公式歓迎会に長井長義夫妻らとともに出席。
  • 1925年(大正14年)3月30日 - 枢密院副議長に就任[30]。
  • 1925年(大正14年)10月1日 - 枢密院議長に就任[31]。
  • 1926年(大正15年)4月8日 - 心臓麻痺のため逝去(享年71)[19]

著述

訳書
  • 『斉家必携』 績文社、1875年12月
  • ウィリアム・モーズレイ・ベスト (1882). The principles of the law of evidence: with elementary rules for conducting the examination and cross‐examination of witnesses. John Archibald Russell, Appleton Morgan. Jersey City, New Jersey: Frederick Linn D. Company
    • 『証拠法論綱』、片山清太郎校閲、岸小三郎・高山圭三訳。博文社(長尾景弼)、1886年。序文のみ穂積。事実上の抄訳版。
  • The new Japanese civil code, as material for the study of comparative jurisprudence. Tokyo Printing Co., Ltd., 原書1904.
    • 『新日本民法典〔英文〕 新日本民法典講義〔第2改訂版〕』 信山社〈学術選書プラス〉、2011年6月、ISBN 9784797212556
  • Lectures on the new Japanese civil code: as material for the study of comparative jurisprudence. Second & revised edition, Maruzen Kabushiki-kaisha, 原書1912.
    • 前掲 『新日本民法典〔英文〕 新日本民法典講義〔第2改訂版〕』
編書
著書
他

系譜・家族

長男の穂積重遠
大正7年の穂積一家
晩年の妻歌子

穂積家は、仙台藩藩主伊達政宗の庶子伊達秀宗が分家し宇和島藩伊達家となってからの譜代の伊達家家臣。饒速日命を祖に持つと言われる。祖父重麿は宇和島藩に思想としての国学を導入した人物であった。父重樹は長子として父の学問を継ぎ、明治維新後藩校に国学の教科が設けられるとその教授となり、また国学の私塾も営んだ[32]。兄の重穎(頴)は第二十国立銀行頭取などを務めた、渋沢栄一に近い実業家。憲法学者穂積八束は弟。長男の穂積重遠は「日本家族法の父」といわれ、東大教授・法学部長、最高裁判所判事を歴任。妻歌子(または宇多)は、渋沢栄一の長女。孫の穂積重行は大東文化大学学長(専攻は近代イギリス史)。


鈴木重麿
 
 
穂積重樹
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
穂積重頴穂積陳重穂積八束
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
穂積重遠穂積律之助穂積真六郎渋沢孝石黒光子市河晴子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
穂積重行八十島和歌子岩佐美代子

栄典・授章・授賞

梅謙次郎(中央)・富井政章(左)とともに(1895年)
位階
爵位
勲章等
さらに見る 受章年, 略綬 ...
受章年 略綬 勲章名 備考
1893年(明治26年)12月28日 勲四等瑞宝章[50]
1897年(明治30年)12月28日 勲三等瑞宝章[51]
1898年(明治31年)6月29日 勲二等旭日重光章[52]
1903年(明治36年)5月21日 金杯一個[53]
1906年(明治39年)4月1日 勲一等瑞宝章[54]
1913年(大正2年)12月27日 旭日大綬章
1915年(大正4年)11月10日 大礼記念章[55]
1926年(大正15年)4月8日 旭日桐花大綬章[48] (没後叙勲)
1926年(大正15年)4月8日 帝都復興記念章[56] (没後叙勲)
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外国勲章佩用允許
さらに見る 受章年, 国籍 ...
受章年 国籍 略綬 勲章名 備考
1919年(大正8年)4月17日 支那共和国 一等大綬嘉禾章(中国語版)[57]
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エピソード

穂積橋
穂積橋記念碑
  • 1887年(明治20年)、矢田部良吉らとともに、鹿鳴館の舞踏会に仮装して出演した[58]。
  • 死後、出身地の宇和島市で銅像の建立の話が持ち上がったが、「老生は銅像にて仰がるるより万人の渡らるる橋となりたし」との生前の穂積の言葉から遺族はそれを固く辞退した。それでは改築中の本開橋を「穂積橋」と命名することにしてはという市の申し入れに対して遺族も了承し、現在も宇和島市内の辰野川にかかる橋の名前としてその名が残っている。
  • 大正10年(1921年)に故郷宇和島町と隣接する八幡村の合併協議が頓挫した折、反対派を東京の私邸に招き、懇切丁寧に合併の必要性を説き、翻意させて合併実現に貢献した。
  • 大正11年(1922年)に皇太子の宇和島市行啓に同行し、宇和島城に於ける茶会の折、皇太子の前の席には県知事を配するという県の方針に対し英国の例を引用し「殿下には宇和島市民が敬意を表すべき」との理由から市長を配すると主張、実現した。(出典:山村豊次郎傳)
  • 陳重の婿入りを期待していたはずの入江家は、円満に養子縁組を解消している。孫の陳行によれば、旧藩の重役西園寺公成のみならず主君の伊達宗城の意向が働いていた可能性が高いという。陳重は入江家をその後も気にかけており、元婚約者が別家に嫁入りして産んだ子供を彼女の離婚後に引き取って養育している[59]。一方で、穂積陳重とその兄弟、子女の結んだ閨閥関係は度を過ぎたものと批判されることがある[60]。
  • 法制史学者の七戸克彦によれば第一回の文部省留学生の選考には漏れており(明治8年の第一回国費留学生は法学からは同級の鳩山和夫)「成績不良」であったという。鳩山は穂積の前年に帰国し東京大学の講師となっていたが、明治14年に舌禍事件を起こし15年1月に退職したことで、翌2月に穂積は27歳で法学部長となった。優秀であった鳩山和夫や梅謙次郎に対してはライバル意識を伴う複雑な感情を抱いていたように見える[61]という。

脚注

関連文献

外部リンク

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