北関の戦い
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| 北関の戦い | |
|---|---|
北関の戦いを描いた『倡義討倭図』 | |
| 戦争:文禄の役 | |
| 年月日:文禄元年10月20日 ~ 文禄2年2月28日(1592年9月16日 – 1593年1月28日) | |
| 場所:朝鮮国咸鏡道吉州、鏡城、明川 | |
| 結果:朝鮮側の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
咸鏡道の反乱勢力 | |
| 指導者・指揮官 | |
| 鄭文孚(咸鏡道北評事) 羅廷彦(咸興府使) |
加藤清正(第二軍) |
| 戦力 | |
| 約5,000人 | 約22,000人 |
| 損害 | |
| 不明 | 約8,000人以上が死亡 |
北関の戦い(ほくかんのたたかい)は、1592年9月16日から1593年1月28日にかけて、咸鏡道において李氏朝鮮と日本軍の間で行われた一連の戦闘である。本戦役では、義兵と呼ばれる民兵が鄭文孚の指導のもとで活動し、地域の協力者を処断するとともに、日本軍の侵攻を撃退することに成功した[1]。
咸鏡道への日本軍侵攻
漢城が1592年5月3日に陥落した後、日本軍の侵攻は小西行長と加藤清正の指揮のもとでさらに拡大した。小西は平安道へ進軍し、一方で加藤は北東方面を担当し、迅速に咸鏡道へ侵入した。
咸鏡道における反乱
当時、咸鏡道の住民は朝鮮中央政府による構造的差別を受けており、広範な不満が蓄積していた。さらに、臨海君および順和君が王軍徴発のため派遣された際、衣服や食糧などの物資を略奪するなどの行為を行ったことで、住民の反発は一層強まった。その結果、住民の一部は日本軍に投降し、朝鮮官吏を殺害あるいは捕縛して日本軍に引き渡す事例も見られた[2]。
加藤清正軍が会寧に進出すると、会寧に拠点を置いていた国景仁は蜂起して日本側に与し、明川の鄭末守および鏡城の国世弼もこれに同調した[2]。1592年7月23日、国景仁は会寧に避難していた臨海君・順和君およびその家族・従者を加藤軍に引き渡した[3]。これに対し加藤清正は国景仁に会寧の統治権を与え、国世弼には鏡城の支配を委ねた。その後、主力を撤収して安辺に軍事拠点を設けた[4]。
さらに加藤清正は吉州以南の回廊地帯を直接支配するため、加藤馬之丞や加藤清兵衛ら8名の将を吉州に配置し、吉州から安辺に至る要地にも兵を展開して支配体制を強化した[5]。
鄭文孚の義兵蜂起
日本軍の支配と暴政が進むにつれ、民衆の不満は爆発し[2]、李豊壽・池達元・崔伯天・姜文祐らは義兵の結成を決意した。彼らは隠遁していた鄭文孚を指導者として招き、鄭はこれを受諾して義兵を組織した。これに応じて数百人の兵が集結した[6]。
戦闘
鏡城の戦い
1592年10月20日、鄭文孚率いる義兵は、国世弼が駐屯していた鏡城を攻略・確保した[7]。 占領後、鄭文孚は檄文を発して住民に抗戦への参加を呼びかけた。これに応じて、鄭賢龍、呉応泰ら多くの兵がこれに加わった[8]。 鏡城陥落の報に接した加藤馬之丞は、状況を探るため斥候100名を派遣したが、この偵察部隊は姜文祐の騎兵によって撃退された[9]。
内通者の処刑
吉州奪還を前に、鄭文孚は部下の要請を受け、日本側に投じた協力者の処刑を決断した[10]。そして義兵結成を布告し、国景仁や鄭末守ら主要な反逆者を討つことを宣言した。
同年10月、会寧では儒生の呉允迪が鄭文孚の檄文を読んで国景仁の暗殺を企てたが、これを察知した国景仁は夜間に部下を使って呉を捕縛した[4]。翌日の処刑が予定されていたが、別の儒生である申世俊が武装した一団を率いて国景仁の邸宅を包囲し、これに放火して討ち取った[11][10]。
一方、明川では住民が鄭末守に対して蜂起したものの、反乱勢力によって鎮圧された。これを受けて鄭文孚は具滉と姜文祐を派遣し[2]、反乱勢力を撃破して鄭末守を殺害した。さらに鏡城再奪還後、国世弼ら残存する協力者の処刑を命じた[12][7]。これにより、咸鏡道における反乱は最終的に鎮圧された。
吉州の戦い
長坪の戦い
鄭文孚は軍勢を中軍・左翼・右翼の三隊に編成し、それぞれ鄭賢龍・韓仁済・柳景泉に指揮を委ねた。また、呉応泰および元忠瑞の率いる伏兵部隊を各所に配置し、奇襲を行わせた[4]。
1592年10月30日、元忠瑞は明川で住民を虐殺した後に帰還する日本軍部隊を待ち伏せし、これを襲撃した。この攻撃により日本軍は吉州城の東方約2キロに位置する長徳山方面へ退却した[10]。義兵は日本軍に先んじて山頂を確保し、攻撃を加えた。日本軍は付近の谷へ退いたが、四方から包囲された。同夜、大雪が降り始め、日本軍は寒冷に耐えきれず戦闘能力を喪失した[10]。
吉州城の包囲
吉州の日本軍は城門を閉ざし、防御体制を強化した[13]。これに対し朝鮮軍はこれを包囲し、薪などの必需物資の供給を遮断した[10]。
同年11月、鄭賢龍・柳景泉・呉応泰は約3,000の兵を率いて城への攻撃を行ったが、日本軍の激しい抵抗により攻略には至らなかった。
これを受けて鄭文孚は、端川と吉州を結ぶ要衝である遮城を攻撃し、日本軍の連絡線を遮断する作戦を採用した[14]。この過程で朝鮮軍は臨溟で略奪を行っていた日本軍部隊と遭遇し、双浦において交戦した。その結果、11月19日に朝鮮軍が勝利した[7]。
端川の戦い
端川には加藤与左衛門の指揮下にある約900の兵が駐屯していた[15]。端川府使の姜燦は鄭文孚に援軍を要請した[16]。
これに応じて、1593年1月22日、鄭文孚は具滉ら4名の将に約200の兵を与え、摩天嶺に伏兵として配置した[17]。戦闘を誘発するため、官軍約20名が偽装退却を行い、日本軍を伏撃地点へ誘引した。その結果、奇襲によって日本軍約170名が討ち取られ、朝鮮側の損害はなかった[18]。
白塔橋の戦い
明軍の参戦および平壌の戦いにおける小西行長軍の敗北により戦局が変化する中、加藤清正は咸鏡道における孤立を避けるため漢陽方面への撤退を図った[2]。しかし、吉州で義兵に包囲されていた日本軍の救援を目的として、2万余の兵を動員し吉州へ向けて進軍した。
これに対し、加藤清正が摩天嶺を越えたのを受けて、鄭文孚は端川から兵を撤収した[18]。1593年1月28日、朝鮮軍は臨溟北方の百塔橋において加藤軍を迎撃し、大きな損害を与えたが、自軍も相当の損害を被り、明川へ退いて再編を図った[19]。同夜、加藤は包囲されていた日本軍部隊と合流し、直ちに安辺へ撤退した[18]。
戦後
孤立していた部隊の救出後、加藤清正は2月20日に咸興で軍を再編し、その後安辺へ撤退した[20][21]。1593年2月29日までに漢陽へ到着し、総兵力約2万2,000のうち約8,000の損害を被っていたことが確認された。これを受けて加藤清正は全面的な撤退を開始した。また、安全な撤退を図るため、加藤清正は平安道の孟山・陽徳を経て平壌城を攻撃するとの偽情報を流し、撤退中に側背からの脅威を受けることなく、2月末までに漢陽へ安全に撤退することに成功した[22]。
日本軍撤退後、義兵は解散され、指揮権は尹卓然に引き継がれた。やがて鄭文孚と尹卓然の間に対立が生じ、尹が戦功を過大に主張したと認識された。その結果、鄭文孚の功績は反逆者の処刑に関するものに限定して評価され、戦役全体における軍事指導については十分に認められなかった[23]。