平壌城の戦い
From Wikipedia, the free encyclopedia
第2次平壌城の戦い
| 第2次平壌城の戦い | |
|---|---|
![]() | |
| 戦争:文禄の役 | |
| 年月日:文禄元年(1592年)7月26日(西暦1592年8月23日) | |
| 場所:朝鮮国平安道平壌 | |
| 結果:日本側の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| 明 | |
| 指導者・指揮官 | |
| 小西行長 |
金命元 黄援 |
| 戦力 | |
| 約18,000人以下 | 明軍:約3,000〜3,500人 朝鮮軍:約3,000人 |
| 損害 | |
| 不明 | ほぼ全滅 |
背景
平壌の占領の後、小西行長率いる日本軍の進撃を受け、朝鮮の宣祖は永柔へ退き、その後さらに中国国境近くの義州へと移動した。宣祖は臣下から明への亡命を思いとどまるよう説得されたが、明に対する軍事支援要請を強めていった。 一方で明は対応が遅れていた。当時、軍の主力は哱拝の乱に投入されており、モンゴル系チャハル部の反乱鎮圧に追われていたためである[2]。
1592年6月25日、史儒率いる1,029名の兵が、遼陽副総兵である祖承訓の先遣隊として朝鮮に侵入し、宣祖の護衛任務にあたった。その後、祖承訓本隊1,319名が合流し、総勢約3,000名となった。[3][4] これを5,000〜6,000人とする記録もある。[2] しかし朝鮮側は派遣兵力の少なさに失望した一方で、祖承訓は一度の決戦で日本軍を撃破できると考えていた[3]。
その頃、小西行長率いる日本軍は平壌以北への進軍を試みていたが、増援と補給の不足により進撃が停滞していた。補給物資は朝鮮西海岸を経由して海上輸送される予定であったが、朝鮮水軍の指揮官李舜臣による黄海での連戦連勝により、多くの輸送船が撃沈されていた。その結果、平壌へ到達する兵力と物資はわずかであり、他の日本軍部隊からの支援も困難な状況であった。[5]
戦闘経過
1592年7月26日夜、祖承訓と史儒率いる明軍は激しい雨の中で平壌に到着した。日本軍は完全に不意を突かれ、北側城壁の防備が薄かった七星門を占領されたことで明軍は城内へ侵入したが、日本軍は明軍の兵力が少数であることを把握すると部隊を分散させて敵を誘引し、その後火器による反撃を開始した。狭く泥濘化した市街地で明軍の騎馬部隊は機動力を失い、大きな損害を受けて各個撃破され、撤退命令が出されるまでに壊滅状態となった。最終的に史儒は戦死し、祖承訓は義州へ撤退し、この戦闘で明軍約3,000人が戦死した。[6][5]
戦後
祖承訓は敗北を矮小化し、悪天候のために「戦術的撤退」を行っただけであり、兵力を再編した上で中国から再び戻ると宣祖に説明した。しかし遼東へ帰還後、彼は正式な報告書において朝鮮側に敗因を転嫁する内容を記し、責任を朝鮮軍に帰した。これに対し朝鮮へ派遣された明の使節は、この主張に根拠がないことを確認した[7]。
一方で小西行長は、この戦いが明軍本格介入の始まりであると認識し、8月16日に漢城へ赴いて宇喜多秀家とともに縦深防御の戦略を協議した。これにより、今後平壌で劣勢となった場合には計画的な撤退を行う方針が検討された[8]。
祖承訓の敗北は明で大きな議論を引き起こし、明朝政府は日本軍が朝鮮を完全に制圧した場合の帝国への脅威を強く認識するようになった。1592年9月10日、万暦帝は宣祖に対し、日本軍撃退への支援を正式に表明する詔勅を発した[8]。
第3次平壌城の戦い
| 第3次平壌城の戦い | |
|---|---|
| 戦争:文禄の役 | |
| 年月日:文禄元年(1592年)8月1日(西暦1592年9月6日) | |
| 場所:朝鮮国平安道平壌 | |
| 結果:日本側の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| 指導者・指揮官 | |
| 小西行長 |
李元翼 李薲 金應瑞 |
| 戦力 | |
| 約17,000人以下 | 約13,000人以上 |
| 損害 | |
| 不明 | 不明 |
都元帥金命元は、日本軍が平壌以北へ進軍せず勢力も衰退しているとの報告を受け、李元翼・李薲に平壌城攻撃を命じた。これにより助防将金應瑞、別将朴命賢らは、龍岡・三和・甑山・江西など沿岸各地の兵力約1万を率い、約20の部隊に分けて平壌西側を圧迫した。また別将金億秋は水軍を率いて大同江河口を占拠し、別将林仲樑は約2,000の兵力で中和を防衛した[9]。
三方面に分かれて進軍し、普通門付近に到達したが、城門付近の日本軍数十名を討ち取るなど一定の戦果を挙げたものの、直後に日本軍の反撃を受けて敗退した。10月には再び官軍と僧兵による平壌奪還作戦が計画され、11月には僧兵単独による奪還計画も立てられたが、いずれも実行には至らなかった[9]。
