南部信方
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旧暦明治元年12月7日(1869年1月19日)、先代藩主南部信民は戊辰戦争における罪を問われ隠居を命じられる。翌年正月、信方はその養嗣子として跡を継ぐが、若年ゆえに実際の藩政は信民が行なった。なお、この際七戸藩が戊辰戦争以前に実際に分知を受けていたかが問題とされたが、盛岡藩重臣新渡戸傳が七戸藩領を分知した記録を新政府に提出したために認められた(ただし、七戸藩の改易を避けるために盛岡藩側が急遽作成したとする説もある)。
明治2年6月(1869年)の版籍奉還で藩知事となったが、同年閏10月に藩政改革に反対する百姓一揆が起こる。明治4年(1871年)の廃藩置県にて藩知事を退任。
新暦1876年(明治9年)2月、明治政府からアメリカ留学を許可され、ボストン大学へ留学。1878年(明治11年)末の帰国後は大学予備門に入学した。1884年(明治17年)7月8日、子爵を受爵[1]。同年9月には浜離宮・芝離宮・吹上御苑勤番に任ぜられ、1886年(明治19年)まで在職。1888年(明治21年)より翌年まで福島県尋常中学校(助教諭心得・教諭心得)、1895年(明治28年)より1898年(明治31年)まで農商務省水産局、山林局東京大林区署嘱託、1903年(明治36年)より1905年(明治38年)まで華族女学校講師(植物・英文)[2]、1915年(大正4年)より1922年(大正11年)まで農商務省山林局林事試験場(現在の森林総合研究所)嘱託を務めた。卜蔵梅之亟の設立した日本植物愛護会では幹事嘱託を務め、また1917年(大正5年)12月22日に神田の多賀羅亭で開かれた植物病理学関係者の懇親会にて、植物病理学会設立の場に同席するなど、晩年まで菌学および植物病理学に携わった。
研究内容・業績
南部自身は植物や菌類に関する専門的な教育を受けたわけではなかったが、20代の頃に内藤新宿植物御苑(現在の新宿御苑)に住んだことで植物に興味を抱き、農商務省農事試験場の堀正太郎のもとに出入りして、自身が採集、製作した植物病理標本をパウル・クリストフ・ヘニンクスやパウル・ディーテル(英語: Paul Dietel)などの欧州の菌学者の元に送付して同定を依頼した。また、自宅に顕微鏡を導入して菌体の観察、同定を行い、卜蔵梅之丞や北島君三へ送られてきた標本についても鑑定同定を担当した。自身でも日本全国に採集旅行に赴いて標本を収集し、その病原菌の同定を行った。
『植物學雜誌』に欧州に送付した植物病理標本の鑑定結果、また『病害蟲雜誌』には自身が鑑定した植物病害に関する記事を発表した。送付した標本を元に新種記載された植物病原菌にはOchropsora nambuanaやPhragmidium nambuanum、Puccinia nambuanaなど南部に献名されたものがある。また南部自身も鹿児島県でアカマツ苗に発生した病害の鑑定結果からCercoseptoria pini-densiflorae(= Pseudocercospora pini-densiflorae)を堀と共に新種記載している。
