南部信光 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 南北朝時代生誕 不明死没 天授2年/永和2年1月23日(1376年2月13日)改名 力寿丸(幼名)、信光 凡例南部信光時代 南北朝時代生誕 不明死没 天授2年/永和2年1月23日(1376年2月13日)改名 力寿丸(幼名)、信光別名 通称:三郎神号 南部信光命官位 大炊助、薩摩守、贈従三位主君 北畠顕信氏族 根城南部氏父母 南部信政、工藤貞行娘・加伊寿御前兄弟 信光、政光子 長経、光経、南部守行室テンプレートを表示 南部 信光(なんぶ のぶみつ)は、南北朝時代の武将。根城南部氏7代当主。 南部信政の子として誕生。母は正室・加伊寿御前(工藤貞行の娘)。 南朝方の武将として活躍[1]し、正平10年(1355年)に北畠顕信の推挙により大炊助に、翌正平11年(1356年)11月19日に薩摩守に叙任されている。 父・信政が祖父の政長に先立ち死去したため、政長から所領を譲られ家督を継承する。祖父同様に八戸根城を拠点として南朝方の中核として奮戦、正平15年(1360年)には陸奥国田舎郡黒石郷と鼻和郡目谷郷を安堵されている[2]。 その後本領の甲斐国巨摩郡波木井郷(現在の山梨県南巨摩郡身延町梅平周辺)に帰った。正平22年(1367年)に北朝方の神大和守に波木井城を攻められるが、逆襲して神城を陥落させた。その戦功により後村上天皇から甲冑と太刀一腰、感状を賜り、所領を加増された。現在、櫛引八幡宮にある白糸威褄取鎧はその時のものと伝わる。 嫡男の長経が幼少であったため、家督は弟の政光が継承した。没年は天授2年(1376年)1月23日[3]とされるが、南北朝合一後は八戸に住み、更に子の政慶のいる七戸に隠遁したとも言われる[4]。ただし子孫の八戸氏の家伝では政慶は信光の子ではなく政光の子としている[5]。 『余目旧記』は信光が留守家冬の遺児家任を後援し、留守氏の復興に尽力したことを伝えている。 脚注 ↑ 近世こもんじょ館「南部を名乗る諸家 10 家臣諸家 1八戸家 1南北朝期 南朝の忠臣の系譜」には、「1335年(建武2年)12月12日顕家奉勅上洛す、国中以未静謐師行 従す、其孫三郎信光をして上洛に従ハシム」とある。 ↑ 小井田幸哉『八戸根城と南部家文書』では北畠顕信が南部薩摩守宛てに与えた御教書について、同地は信光宛てに分封したとしている。しかし顕信が南部薩摩守宛てに与えた御教書について『南部史談会誌』や、『南部史要』第12世政行公事績(注)南部四世事跡考に於いては、正平15年に同地を南部信行をして安堵したとある。 ↑ 『国史大辞典』 ↑ 奥富敬之 著「南部信光」、安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』新人物往来社、1985年。 ↑ 星川正甫原編 編『南部藩参考諸家系図』前沢隆重他編、国書刊行会。 関連項目 南部神社 (遠野市) – 信光が祭神の一柱として祀られている。 白糸威褄取鎧(櫛引八幡宮蔵) - 国宝、伝・南部信光奉納 表話編歴根城南部氏7代当主(1360年 - 1376年)三戸南部氏→盛岡南部家 光行 実光 時実 政光 宗経 宗行 祐行 政連 祐政 茂時 信長 政行 守行 義政 政盛 助政 光政 時政 通継 信時 信義 政康 安信 晴政 晴継 信直 利直 重直 重信 行信 信恩 利幹 利視 利雄 利正 利敬 利用(1)/利用(2) 利済 利義 利剛 利恭 利祥 利淳 利英 利昭 利文 分家・支流 根城南部氏→遠野南部家 実長 実継 長継 師行 政長 信政 信光 政光 長経 光経 長安 守清 政経 信長 治義 義継 勝義 政栄 直栄 直政 清心尼 直義 義長 義倫 利戡 信有 信彦 義顔 怡顔 義堯 義茂 済賢 義敦 行義 義信 日実 光徹 八戸南部家 直房 直政 通信 広信 信興 信依 信房 信真 信順 栄信 麻子 利克 信克 直敬 匡慶 光隆 七戸南部家 政信 信弥 信伝 信喜 信鄰 信誉 信民 信方 信孝 信俊 治 Related Articles