南部利祥
From Wikipedia, the free encyclopedia
1890年(明治23年)、学習院初等科3年生のとき、皇太子(大正天皇)の学友に選抜される。
教育係の東條英教(東條英機の父)の勧めにより陸軍に仕官し、1902年(明治35年)11月、陸軍士官学校(14期)を卒業、1903年(明治36年)6月に陸軍騎兵少尉に任じられる。同年10月9日、父・利恭の死去により南部家第42代当主となる。1904年(明治37年)2月に日露戦争が勃発し、利祥は近衛師団の一員として従軍。定州でロシア軍騎兵隊と交戦して初陣を迎え、4月に連隊旗手に任命、5月には鴨緑江会戦に参加した[1]。翌1905年(明治38年)2月に中尉に進級し[1]、近衛騎兵第一中隊第三小隊の小隊長を命じられ、最前線で指揮を執った。3月4日の井口嶺の戦いにおいては、中隊長が戦死する激戦の中、自身も左手に被弾したにもかかわらず先頭に立って中隊を指揮していたが、銃弾を浴び戦死した[1]。その際、同じく従軍していた竹田宮恒久王の盾になるかたちで戦死したという逸話が伝わった。享年23。