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唐津藩

肥前国にあった藩 From Wikipedia, the free encyclopedia

唐津藩(からつはん)とは、肥前国に1593年(文禄2年)ころから1871年(明治4年)まで存在した譜代大名(寺沢家のみ外様大名)による藩。豊臣秀吉の側近であった寺沢広高が初代藩主をつとめ、以降は寺沢家、大久保家、大給松平家、土井家、水野家、小笠原家の6家が藩主を務めた。藩庁は唐津城(現在の佐賀県唐津市)に置いた。江戸幕府公認の石高は、幕末の時点で6万石である。

立藩年 文禄2年(1593年)?
初代藩主 寺沢広高
廃藩年 明治4年(1871年)
最終藩主 小笠原長国
概要 唐津藩, 立藩年 ...
唐津藩
唐津藩(慶応年間ごろ)
立藩年 文禄2年(1593年)?
初代藩主 寺沢広高
廃藩年 明治4年(1871年)
最終藩主 小笠原長国
国 肥前国
居城 唐津城

寺沢家
石高 8万3000石→12万3000石→8万3000石
種類 外様大名[1]
格式 城持大名[1]
藩主 寺沢堅高

大久保家
石高 8万3000石
種類 譜代大名[1]
格式 城持大名[1]

大給松平家
石高 7万石
種類 譜代大名[1]
格式 城持大名[1]

土井家
石高 7万石
種類 譜代大名[1]
格式 城持大名[1]

水野家
石高 6万石
種類 譜代大名[1]
格式 城持大名[1]
江戸城控間 雁間(文化年間)[2]
藩主 水野忠邦

小笠原家
石高 6万石
種類 譜代大名[1]
格式 城持大名[1]
江戸城控間 帝鑑間(文政年間)[2]
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唐津藩の歴史は、文禄2年(1593年)の波多氏改易後に寺沢広高が唐津を領したことに始まる。関ヶ原の戦い以前は、8万3000石、戦後は天草4万石を加増されて12万3000石となっている。しかし、広高の息子の寺沢堅高の苛政(諸説あり)のために、天草で島原・天草の乱が起こり、天草領を没収、のちに堅高は自死して無嗣改易となった。その後、大久保家が8万3000石、大給松平家が7万石、土井家が7万石、水野家が6万石で入封している。水野家の治世では、財政が悪化し、藩史上最大の一揆・虹の松原一揆が発生している。水野家4代目の水野忠邦は、幕閣での出世のために浜松藩への転封をもくろみ、三方領地替えを成功させ、浜松藩主・老中として天保の改革を主導している。水野家の代わりに6万石で入部した小笠原家は、最後の藩主・小笠原長国の世継ぎ・小笠原長行が老中として生麦事件の後始末を担当している。維新に際しては、長国は新政府側についたが、長行は立場上旧幕府側についており、藩としては複雑な立ち位置であった。明治4年(1871年)の廃藩置県により廃藩となり、唐津県ついで伊万里県となった。現在は、佐賀県の一部である。

唐津藩は、九州にあるという地理的条件から、長崎見廻役/長崎監務をつとめている[3]。寛文12年(1672年)には、有事の際には長崎奉行と唐津藩主、同じく九州の譜代大名である島原藩主の合議で対応する体制が確立しており[4]、「徳川実紀」によれば、唐津藩主就任時は将軍から「長崎の事怠るまじ」と命じられていたという[5]。他の九州の藩に比べ、幕府の要職につく家系が特に多い藩でもあった[6]。同時に、江戸から離れており、長崎での業務を抱えているため幕閣の要職にはつきにくい藩でもあった[7]。一時的な左遷地的な意味あいがあったともいう[7]。

転封が多く、そのたびに大名に多大な負担がかかり、その負担は領民にかかったため、転封後の負担増に対する一揆や転封そのものを防ぐ一揆がたびたび発生している[8]。

藩史

前史

肥前名護屋城図屏風

唐津は「唐土船出入の津」という伝承があるように、中華や朝鮮に面した窓口の一つであった[9]。その例の一つとして、豊臣秀吉による朝鮮出兵の際には、唐津の名護屋城に拠点を置いている[9]。戦国時代当時の上松浦地方には、波多氏を中心とする松浦党と呼ばれる党派が存在していた[10]。当時の当主・波多親は、豊臣秀吉の九州平定に際し、秀吉に味方することはなかったが、750町の所領を安堵されている[11]。

初代の唐津藩主となる寺沢広高は、豊臣秀吉に側近として仕えていた[12]。長崎奉行をつとめたり、1592年の文禄の役では肥前名護屋城の普請役、後方兵站の責任者を務めるなどの功績を挙げている[13]。文禄2年(1593年)5月に、朝鮮への出兵を拒否したために波多氏がお取り潰しになると[注釈 1]、詳しい年代は不明だが(1593年とする文献が多い[14])、名護屋(現・佐賀県唐津市および東松浦郡玄海町)に駐在していた寺沢広高がその後の唐津を領したとされる[注釈 2][12]。その石高変遷は文献によって異なるが、慶長3年までには6万3000石となっているようである[注釈 3][16][14]。

江戸時代の唐津藩

特別名勝虹の松原(鏡山より眺望)。防風林、防砂林として寺沢広高は植林を行った。

慶長6年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与して功績を挙げたことから、翌7年(1601年)3月に肥後国天草郡4万石を加増された[17][16][18][13]。そののちの石高は資料によって多少の違いがみられるが、11万6000石から7000石、もしくは12万3000石であった[17]。慶長19年(1614年)に、唐津藩の薩摩国出水郡2万石の領地と交換して、筑前国怡土郡2万石を支配したとされている[1][19]。元和2年(1616年)になされた「元和の検地」は、唐津藩内で行われた最初の大規模な検地で[注釈 4]、これによると当時の唐津藩の実高は15万石であった[16][21][22]。このうちの、8万2000石余りが藩の直轄地、6万8500石余りが家臣の知行地として割り当てられている[注釈 5][22][24]。元和3年(1617年)の朱印状では、表高12万3000石余りとなされた[17]。

満島山と唐津城本丸

藩政としては、松浦川の補修や防風・防砂林として虹の松原の植林・育成、新田開発を行ったという[25][26]。慶長7年(1601年)から、満島山で唐津城の本丸建設に着手し、慶長13年(1607年)に完成させている[27]。城下町の整備も同時に進み、12町、さらに追加で8町が設けられている[27]。慶長8年(1602年)には、飛び地の天草郡支配の拠点として富岡城を完成させている[28]。広高は寛永2年(1625年)に隠居し、唐津藩主は次男の寺沢堅高が引き継いだ[29][30]。

島原・天草の乱と寺沢家改易

原城包囲の図

関ヶ原の戦いで加増された天草は、志岐の富岡城に城代を置いて支配を行っていた[18]。天草五人衆が競い合っていた永禄9年(1566年)にキリスト教が伝来して以来、小西行長などの領主がキリスト教徒であった事もあり、キリスト教が波及していた土地であった[31][32]。全盛期には3万人のキリスト教徒(キリシタン)がいたともされる[33]。寺沢広高もキリスト教徒の影響力を無視できなかったためか、比較的穏健に接してたという[34]。しかし、慶長17年(1612年)、翌慶長18年12月(1614年1月)江戸幕府が全国的にキリスト教禁教令を発令したり[35]、元和7年(1621年)に三宅重利が志岐の番代になったりと、天草へのキリスト教徒の迫害が増していった[36][37]。

寛永14年10月25日(1637年12月11日)、島原藩にて領民が代官を殺害したことを契機に島原の乱が勃発した[38][39]。その後、唐津藩領天草の領民も蜂起した[38][39]。この一揆は、幕府や諸藩たちは「キリスト教徒の蜂起」ととらえていたようだが、当時の外国人の記録などでは「(島原)藩主松倉重政の苛政に対する領民の蜂起」であったとある[注釈 6][42]。当時の天草では、水増しした検地やさまざまな税、寛永14年の飢饉が重なったことで、終末預言(キリスト教徒のみが救われるというもの)が流布し、領主への抵抗とキリスト教徒の再結集が叫ばれていたという[43][44]。

対して、唐津藩の天草統治責任者であった三宅重利は10月29日(12月15日)に本渡へ軍を派遣、11月1日(12月17日)に自ら出陣した[45]。三宅の軍のみでは、蜂起した民衆を鎮圧するには不足で、唐津藩から援軍を待ちつつ、熊本藩にも援軍を求めている[46]。島原の一揆勢は島原城こそ落とせなかったものの、島原半島の南半分を掌握した[43]。天草四郎ら天草の一揆勢と合流すると、唐津本藩からの援軍を得た三宅重利の軍を、11月14日(12月30日)に破り重利や寺沢家の家臣を多数戦死させた[43][47]。一説では、この戦闘を天草四郎が指揮したという[48]。落ち延びた唐津藩軍は、富岡城に籠城し、ここを死守している[49]。

一方で、11月9日(12月26日)に一揆の報を受けた幕府は板倉重昌らを派遣し、肥前国の佐賀藩主・鍋島勝茂と堅高に場合によっては加勢するように命じている[50][51]。さらに老中松平信綱の派遣が決まると、焦った重昌は原城にこもる一揆勢に無謀な総攻撃を仕掛け大敗、重昌は戦死した[50]。松平信綱が着陣すると、兵糧攻めを行い、翌年2月27日、28日(1638年4月11日、12日)に鍋島勝茂の抜け駆けから総攻撃が始まり、原城を落とし乱を鎮圧した[52]。原城包囲では、唐津藩は4900余の兵を出している[30]。

寺沢堅高は、一揆が起こったのを「不届」だ、「守護政道情弱」だからとして天草領を没収となった[注釈 7][54]。正保4年(1647年)、寺沢堅高は嗣子ないまま自殺し、改易となった[55]。『徳川実紀』の記述では、「天草4万石を収公せられたるを、この年頃口おしき事に思ひけるよし、遂にこころ狂ひけるよし聞こえたり」とある[55]。寺沢家が改易されると、一時期唐津藩の旧領は天領(幕府領)となっている[16][55]。

大久保家時代

一時期天領となった唐津藩は、九州の外様大名(佐賀藩・鍋島氏や福岡藩・黒田氏)の監視という意味合いで、譜代大名が入るようになった[56]。慶安2年(1649年)、播磨国明石藩から譜代大名の大久保忠職が8万3000石で入部した[55]。寺沢家時代とは異なり、藩領をすべて直轄し、知行を米または貨幣で支給する「蔵米知行」制度をとっている[57]。

忠職は寛文10年(1670年)に死去し、末期養子として大久保教隆(忠職の叔父)の子大久保忠朝が後を継いだ[58]。延宝2年(1674年)、庄屋の怠惰を是正するという名目で、庄屋が領内を転勤する「転村制度」を創設している[注釈 8][59][57]。延宝6年(1678年)正月、忠朝は佐倉藩へ転封となった[61]。

大給松平家時代

大久保家の佐倉藩転封に伴い、入れ替わりで佐倉藩主・松平乗久が唐津藩に入っている[61]。この際、筑前国怡土郡1万石が上知、怡土郡3000石は乗久の弟・松平好乗に分知され[62]、唐津藩は松浦郡203村、怡土郡3村の7万石となっている[63][64][65]。乗久は貞享3年(1686年)7月17日に死去し、その子・松平乗春が継ぐも、元禄3年(1690年)9月5日に死去した[64][66]。乗春は兄弟に2000石を分知し、6万8000石になったともいわれている[66]。さらに、松平乗邑が継承したが、唐津に入部する間もなく、元禄4年(1691年)2月に鳥羽藩へと転封となった[64][67]。この乗邑も弟たちに8000石を分知して、6万石を治めたという[67]。大給松平家の支配は3代13年と短く、特に目立った変革はない[68][57]。

土井家時代

大給松平家に代わって、鳥羽藩主・土井利益が7万石で唐津藩主となった[67]。正徳3年(1713年)に土井利益が死去すると、嫡子の土井利実が唐津藩主となった[69]。土井利実の嗣子・土井利武は早逝したため、利実は享保20年(1735年)に旗本土井利清の子・土井利延を養子とし、元文元年(1736年)に利延を唐津藩主とした[70][71]。しかし、利延は病弱で嗣子無く、延享元年(1744年)に死去する直前に弟の土井利里を養子としている[70]。延享3年(1746年)には、唐津藩創設以来の大洪水が起こっている[72][73]。

宝暦9年(1759年)、利里は奏者番に任命された[70]。唐津藩領民は、負担が増加する転封(さらなる昇進のためには事実上転封が必要)を拒み、土井家の転封反対運動を行ったという[74]。しかし、宝暦12年(1762年)9月、唐津藩主・土井利里が下総国古河藩へ、岡崎藩主・水野忠任が唐津藩へ、古河藩主・松平康福が三河国岡崎藩へ移封される、三方領地替えが発令された[75]。その後、松平康福は老中、元唐津藩主の土井利里は寺社奉行、さらに京都所司代と幕府の要職に就く一方で、水野忠任は唐津藩主となったことで幕閣の役職への道が閉ざされてしまった[75][70]。

水野家入封・虹の松原一揆と藩政改革

宝暦13年5月15日(1763年6月25日)、水野忠任が唐津城を受け取り、明和2年(1765年)10月に、朱印状と領地目録を受け取っている[76]。その領地目録によると、水野家時代の唐津藩は、松浦郡224村と、新田2038石9斗8升1合を領していた[76]。土井家時代の唐津藩領のうち、表高1万石分の領地が上知されており、水野家時代の唐津藩の実高は6万石であった[77][78]。

唐津藩への転封に伴い、さらなる財政負担を強いられた水野忠任は、藩士に減給、領民にさらなる収奪を強いた[79][80]。明和8年(1771年)には、年貢を免除してきた土地にも課税し[81]、楮を強制栽培させ藩が独占して安値で買い上げた[72][78]。度重なる災害や不作も相まって[78][80]、我慢の限界に達した領民は、7月20日(8月30日)の午前6時ごろに虹の松原で集合して、一揆をおこした[82]。その参加人数は資料によって異なるが、2万3000人だったとも[83]、7000人や1万3000人、約5万人などと記されている[84]。代官や庄屋は一揆と交渉を試みるも、一揆勢は幕府領内の虹の松原[注釈 9]に退避し、黙秘を貫いた[85][86]。これに焦った藩は、7月24日に大庄屋が藩との交渉役となることで一揆を解散させ[87]、藩が一揆側の要求をほとんど呑むという結果になった[88]。くまない追及の結果一揆の首謀者は死刑となるも、藩の財政健在化はここで頓挫することとなった[89][90]。

安永4年(1775年)に、忠任は隠居し、広島藩主・浅野宗恒の次男で、養子の水野忠鼎が唐津藩主を継いだ[91]。天明3年(1783年)の天明大噴火などを原因とする、天明の大飢饉では食糧不足や物価高騰により餓死者が現れた[92]。天明3年に藩は貯蓄を解放するとともに、4年には貯蓄を停止している[93]。それに加え、安永8年(1779年)の忠鼎の奏者番就任や河川の普請により、さらなる出費が強いられている[93][94]。

幕府で進行中の寛政の改革や、寛政4年(1792年)の影響を受け、二本松義廉に全権をゆだねて改革に着手した[93][94]。しかし、これらの改革も寛政7年(1795年)の凶作や農民の反発を受けて、想定ほどの成果をあげることはできず[95]、「朝三暮四の改革」であったと評されている[96]。続いて、寛政9年(1797年)に新田の開発の促進に目を付けている[97]。享和2年(1802年)には、藩校・経誼館が設置された[97]。

文化2年(1805年)、忠鼎が隠居し、その子水野忠光が藩主となった[98]。忠光は、藩政を自ら執り行っており、二本松義廉は左遷されている[98]。倹約令を発布するも、蝦夷地でのロシアとの紛争による馬渡島・加唐島への出兵、消失した江戸上屋敷の再建などで財政は傾いた[99]。

水野忠邦の野心

老中として天保の改革を主導した水野忠邦。若かりし頃は唐津藩主であった。

文化9年(1812年)8月、忠光は隠居し、その子・水野忠邦が唐津藩主となった[99]。忠邦も藩主につくと、藩政改革に着手し、再び二本松を登用するとともに、藩士の減給、藩主自らの倹約や経費の削減を行った[100]。文化12年(1815年)、忠邦は要職への前座とされていた奏者番についている[101]。一方で、奏者番の仕事のために負担は増し、藩政は好転することがなく、むしろ幕閣の要職を求めるようになった[101]。

しかし、長崎見廻役を担う唐津藩主では、要職につくことはできなかった[102]。そこで、忠邦は昇進と転封を行うために、幕府に工作を行った[102]。文化14年8月(1817年)に、沼津藩主で、同じ水野家の水野忠成が老中(格)につき、当時幅を利かせていた老中首座の松平信明が死去すると、9月10日(10月20日)に寺社奉行に任命され、すぐに浜松藩への転封が命じられた[102]。水野忠邦が唐津藩から浜松藩へ、井上正甫が浜松藩から棚倉藩へ、小笠原長昌が棚倉藩から唐津藩へ転封する、三方領地替えであった[102]。水野忠邦は、老中まで昇りつめ、天保の改革を主導することとなっている[103]。

一方、この転封に対して水野家家臣からの反発は大きかったようである[104]。国替には多額の出費を要するうえ、表高6万石に対して実高20万石以上ともいわれた唐津藩を捨てて、表高6万石で実高もそのくらいの浜松藩へ移ることは大減収であり、さらに藩政が悪化することが明らかであったためである[104]。二本松義廉は転封に反対し、自決したという[105][106]。

小笠原家入封

唐津くんちの曳山。文政2年(1812年)に制作された赤獅子(写真中、一番右)がその始まりである。

水野忠邦に代わって、唐津藩には小笠原長昌が表高6万石で入封した[16]。表高は水野家時代と同じ6万石であるが、松浦郡44村[注釈 10]・1万石(実高・1万6925石2斗6升3合)分が上知され、幕府領となっていた[注釈 11][16][105]。実高が表高より高いという理由で、特に軍役の負担も変更がなされていない[107]。転封に伴う負担がのしかかるだけでなく、上知による物成収入1万石の減収も大きな影響を与えている[109]。長昌は「御国益方」を設置し、楮や藍などの殖産興業をはかったが、やはり財政が好転することはなかった[110]。

文政6年(1823年)小笠原長昌が死去するも[111]、その子・小笠原長行はまだ2歳と、幼少で長崎の軍役を負えないと判断される年齢であったため、再びの転封を恐れて長行の存在は幕府に届け出られることはなかった[112]。そこで、庄内藩主酒井忠徳の子・小笠原長泰を養子に迎えた[111]。天保4年(1833年)9月、長泰が隠居し、養子の小笠原長会が藩主となった[113]。この2代の治世では、不作が続いた[114]。財政が大きく傾く中、長泰は人頭税の課税に踏み切ったほか、歴代の小笠原家藩主は専売制の強化、年貢率の上昇、藩札の増刷を行うも、好転に傾くことはなかった[115]。特に人頭税は、文政10年(1827年)以降、10-60歳の男女に一日当たり2文が課され、天保4年(1834年)頃まで続いている[116]。天保4年には間引きや人口減少への対応策として、赤子方を設置し、赤子養育仕法を定めたり養育米を支給したりしている[117]。

さらに、天保7年(1837年)には小笠原長和が藩主を継いでいる[118]。天保11年(1841年)10月に、長和が死去し、松平光庸の子・小笠原長国が養子として唐津藩主を継いだ[118]。

幕末維新・二人の当主

安政4年(1857年)9月、小笠原長国が小笠原長行を養子に取っている[注釈 12][119]。安政5年(1858年)2月には、長国の代理として帰国し、実質的な藩政を執り行った[注釈 13][121][122]。不正摘発のための「目安箱」を設置したり、藩士の減給を廃止したり、長崎へも年1回で出向いたという[123]。

文久2年(1862年)、長国と入れ替わりで長行が江戸に赴き、7月21日(8月16日)に奏者番を拝命した[124]。続いて、8月19日(9月12日)に若年寄、9月11日(11月2日)に老中格、10月1日(11月22日)に外国御用掛へ登用されている[125]。これ以降の唐津藩は長国によって統治された[126]。

幕政に参与した長行は、黒船来航に際して開国論の立場を取った[127]。生麦事件では、長行の独断によってイギリスに対して賠償金を支払っている[128]。(当時徳川家茂が京都で実質的な人質状態にあったため)その後すぐに1600ほどの兵を引き連れ大阪へ向かい、家茂の救出には成功したが、自身は官位を剥奪された[129]。禁門の変により攘夷派が京都から一掃され、謹慎を解かれた[130]。

慶応元年9月4日(1865年10月23日)に再び老中格に登用されると、第二次長州征討では九州の諸大名が出兵した小倉口の総督となるも、諸藩をまとめ上げることができずに、徳川家茂の死去を受け戦線を離脱し、取り残された小倉藩は小倉城に火をつける始末となった[131]。この失敗の責任により長行は再び老中を罷免されるも、1か月後には再任している[132]。

戊辰戦争・新政府につく藩主と旧幕府につく世子

大政奉還などにより江戸幕府が崩壊すると、跡継ぎの小笠原長行が、数度にわたって老中(老中格)をつとめていたため、唐津藩は佐幕派に立った[133]。しかし、唐津藩の周辺に位置する九州諸藩のほとんどは新政府側であり、藩論を朝廷側にまとめたうえで[134]、慶応4年(1868年)2月、小笠原長国は新政府に上京を願い出るものの、「長行の切腹ないし蟄居」を条件とされた[133]。そこで、長国は長行との養子縁組を解消し蟄居することで許しを得た[133]。しかし、江戸に駐在していた長行は3月に側近らとともに会津藩(佐幕派)に亡命したため、唐津藩は苦境に立たされることとなった[133]。閏4月に、唐津藩も征東軍への加入が認められたが、その後の唐津藩兵の動向はあまり分かっていない[133]。

長行は、少数の家臣を連れて白石ついで福島に赴き、小笠原胖之助(2代藩主・小笠原長泰の子で、長行の義理の弟)をはじめ会津藩に居残った家臣らは、その一部が戦争に参戦し戦死している[133]。さらに、唐津藩士は仙台で合流し、榎本武揚ら旧幕府海軍艦隊に乗り、蝦夷地へ渡海した[133]。この際、小笠原胖之助と唐津藩士23名は新選組に加入することで、乗船を許されている[133]。蝦夷地に到着した脱走軍は二手に分かれて箱館を目指すこととなるが、脱走の最中の新政府軍との交戦で小笠原胖之助は戦死した[135]。箱館を平定した脱走軍は、新政府軍との最後の戦い(箱館戦争)に挑み、唐津藩士らはそのうち弁天台場の警護をつとめた[135]。明治2年5月15日(1869年6月24日)に、最後まで抵抗した五稜郭に先立ち、新政府軍に降伏する[135]。

弁天台場の降伏に先立ち、長行は4月23日に板倉勝静(松山藩主)とともに箱館を脱出し、江戸に帰還している[136]。渡米を装い、江戸で3年間の潜伏生活を送ったのち、明治5年(1872年)に赦しを得た[136]。その後の長行は、生涯公の場に立つことはなかったという[136]。

長行の赦免よりも前、明治2年(1869年)に唐津藩は版籍奉還し、小笠原長国は知藩事に任命された[137]。明治4年(1871年)に廃藩置県に伴って、唐津藩は廃藩となった[138][139]。旧唐津藩は唐津県となり、伊万里県・佐賀県・三潴県・長崎県領となったのち、現在の佐賀県の一部となった[138]。

歴代藩主

寺沢家

外様大名、石高:8万3000石→12万3000石→8万3000石

さらに見る 代, 氏名 ...
代 氏名 受領名[140] 在職期間[140] 享年 出自[141]
1 寺沢広高
てらさわ ひろたか
志摩守 文禄2年[注釈 14] - 寛永4年
(1593年 - 1627年)
2 寺沢堅高
てらさわ かたたか
兵庫頭 寛永4年 - 正保4年11月18日
(1627年 - 1647年12月14日)
先代の子
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大久保家

譜代大名、石高:8万3000石

さらに見る 代, 氏名 ...
代 氏名 肖像 受領名[140] 在職期間[140] 享年 出自[141]
1 大久保忠職
おおくぼ ただもと
加賀守 慶安2年7月4日 - 寛文10年4月9日
(1649年8月11日 - 1670年5月27日)
明石藩より
2 大久保忠朝
おおくぼ ただとも
出羽守→加賀守 寛文10年6月13日 - 延宝6年1月23日
(1670年7月29日 - 1678年3月15日)
旗本・大久保教隆の子
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大給松平家

譜代大名、石高:7万石

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代 氏名 受領名[142] 在職期間[142] 享年 出自[141]
1 松平乗久
まつだいら のりひさ
和泉守 延宝6年1月23日 - 貞享3年7月17日
(1678年3月15日 - 1686年9月4日)
佐倉藩より
2 松平乗春
まつだいら のりはる
和泉守 貞享3年9月12日 - 元禄3年9月5日
(1686年10月28日 - 1690年10月6日)
先代の子
3 松平乗邑
まつだいら のりさと
和泉守 元禄3年11月10日 - 元禄4年2月9日
(1690年11月20日 - 1691年3月8日)
先代の子
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土井家

譜代大名、石高:7万石

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代 氏名 肖像 受領名[142] 在職期間[142] 享年 出自[140]
1 土井利益
どい とします
周防守 元禄4年2月9日 - 正徳3年閏5月25日
(1691年3月8日 - 1713年7月17日)
鳥羽藩より
2 土井利実
どい としざね
大炊頭 正徳3年7月13日 - 元文元年11月26日
(1713年9月2日 - 1736年12月27日)
先代の子
3 土井利延
どい としのぶ
大炊頭 元文元年12月27日 - 延享元年7月17日
(1737年1月27日 - 1744年8月24日)
旗本・土井利清の子
4 土井利里
どい としさと
大炊頭 延享元年9月23日 - 宝暦12年9月30日
(1744年10月28日 - 1762年11月15日)
旗本・土井利清の子
(利延の弟)
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水野家

譜代大名、石高:6万石

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代 氏名 肖像 受領名[143] 在職期間[143] 享年 出自[140]
1 水野忠任
みずの ただとう
和泉守 宝暦12年9月30日 - 安永4年9月23日
(1762年11月15日 - 1775年10月17日)
岡崎藩より
2 水野忠鼎
みずの ただかね
左近将監 安永4年9月23日 - 文化2年9月5日
(1775年10月17日 - 1805年10月26日)
広島藩主・浅野宗恒の子
3 水野忠光
みずの ただみつ
和泉守 文化2年9月5日 - 文化9年8月
(1805年10月26日 - 1812年)
先代の子
4 水野忠邦
みずの ただくに
和泉守・左近将監 文化9年8月5日 - 文化14年9月14日
(1812年9月10日 - 1817年10月24日)
先代の子
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小笠原家

譜代大名、石高:6万石

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代 氏名 肖像 受領名[144] 在職期間[144] 享年 出自[140]
1 小笠原長昌
おがさわら ながまさ
主殿頭 文化14年9月14日 - 文政6年9月29日
(1817年10月24日 - 1823年11月1日)
棚倉藩より
2 小笠原長泰
おがさわら ながやす
壱岐守 文政6年6月 - 天保4年9月20日
(1823年 - 1833年11月1日)
庄内藩主・酒井忠徳の子
3 小笠原長会
おがさわら ながお
能登守 天保4年9月20日 - 天保7年2月26日
(1833年11月1日 - 1836年4月11日)
旗本・小笠原長保の子
4 小笠原長和
おがさわら ながかず/ながよし
佐渡守 天保7年5月17日 - 天保11年10月23日
(1836年6月30日 - 1840年11月16日)
郡山藩主・柳沢保泰の子
5 小笠原長国
おがさわら ながくに
佐渡守→忠務大輔 天保12年4月5日 - 明治4年7月14日
(1841年5月25日 - 1871年8月29日)
松本藩主・松平光庸の子
小笠原長行
おがさわら ながみち
初代藩主・小笠原長昌の子
資料によっては藩主[注釈 13]
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所領

石高と領地

唐津藩の石高変遷は以下の通り。

  • 慶長10年(1605年)頃の機会に作成された、「慶長年間肥前国絵図」の情報によると、肥前国松浦郡6万3032石4斗6升7合、筑前国怡土郡2万96石5斗7升5合6勺である[145]。
  • 元和2年(1616年)、検地により唐津藩の実高は、肥前国松浦郡・8万2416石4斗1升6合、筑前国怡土郡・2万8360石3斗4升3合、肥後国天草郡4万石の計約15万石となる[16][21]。
  • 元和3年(1617年)、この年に与えられた朱印状で、表高12万3000石余りとなされた[17]。
  • 島原の乱の責任により、天草郡4万石を没収される。
  • 正保4年(1647年)、唐津藩改易、天領(幕府領)に編入[16]。
  • 慶安2年(1649年)、大久保家が8万3000石で入封[16]。
  • 延宝6年(1678年)、佐倉藩大給松平家と大久保家が所領交換し、唐津藩は怡土郡1万石が上知、3千石は分知され[146]、松浦郡230村・6万6515石、怡土郡3村・3485石の計7万石となる[16]。
  • 宝暦12年(1762年)、水野家が松浦郡225村・6万石で入封[16]。
  • 文化14年(1817年)、小笠原家が表高6万石を維持して入封。ただし、松浦郡44村・1万石(実高・1万6000石)が幕府領となっている[16]。

旧高旧領取調帳をもとにした旧高旧領取調帳データベースによれば、唐津藩(小笠原家時代)の領地は以下のとおりである[147]。

「藩制一覧」によれば、唐津藩の草高は6万4735石8斗6升3合、人口は6万3226人であったという[148]。

支配体制

唐津藩では、譜代大名の転封が相次ぎ、領主と領民の間のつながりが希薄となっていた[149]。郡奉行(郡代)を中心に、大庄屋(惣庄屋)が組(村を複数まとめて組として取り扱う)を支配し、小庄屋(脇庄屋)が村を支配するという体制が取られていた[150]。唐津藩における庄屋は、ほとんどが武士の出身、特に旧波多氏の家来が多かったという[13]。大久保家時代には、名頭という農民から選出される役職が創設され、百姓代とともに庄屋を補佐していた[150]。

土井家時代には、村組合を29組おき、その組は北方・中通・草野の3つの区域に大別され、手永としてそれぞれの区域ごとに代官が支配した[76]。水野家入封後は、28組に減少、および途中で中通が廃止されている[76]。

唐津城と城下町

唐津藩の藩庁が置かれた唐津城は、慶長7年(1801年)から慶長13年(1808年)にかけて建築された[151]。建設に際しては、名護屋城の石材を使ったほか、九州諸大名の助力を得ており、「肥後堀」などといった名前が残っている[151]。

産業・文化

唐津藩は、多種多様な特産品が存在し、それらを財源としていたため「内高は20万石以上、表高の3倍級」とも言われている[150]。唐津藩領では、米や雑穀のほかに、四木(特に専売品とされた楮)や麻・木綿・紅花・煙草・櫨(専売品)・菜種・甘藷・甘蔗などの商品作物が生産された[152]。また、鯨をはじめとする唐津湾で獲れる魚介は課税の対象となり、干鮑や煎海鼠(いりこ、干しナマコ)などは俵物として藩に独占され、干鰯は藩外にもさかんに流通していた[150]。さらに、唐津炭田から算出される石炭も藩の統制下におかれた[150]。

教育

土井利益に重用された吉武義質(法命)が、享保15年(1730年)以降に私塾を設けた[153]。大名が藩校を置くことはあったものの、大名の転封ごとに藩校も移転される唐津藩では[154]、吉武以来私塾が盛んとなっている[153]。

東京駅。唐津藩の藩校・耐恒寮で学んだ辰野金吾が設計した。

享保8年(1723年)に、土井利実によって藩校盈科堂が設立されたが、土井家の古河藩転封に伴い、藩校も移転されている[154]。続いて唐津に入封した水野家は、水野忠鼎時代の享和元年(1801年)に経誼館を創設したが、こちらも浜松藩への転封によって移転している[154]。小笠原家は、棚倉藩時代に創設されたとされる志道館を移設したという[154]。天保7年(1836年)には、橘葉医学館を創設した[154]。明治3年(1870年)には学制を改革し、志道館の流れをくむ漢学部、橘葉医学館の流れをくむ医学部、耐恒寮を中心とした洋学部の3学部が整備された[154]。耐恒寮では、高橋是清が英語を教え、辰野金吾や曽禰達蔵、天野為之などを輩出している。

捕鯨

「肥前国産物図考」(木崎攸々軒筆)より捕鯨の図。天明年間(1781年 - 1789年)の作品[155]。

唐津藩は、玄界灘の水産物が特産物とされ、その一つに小川島を中心とした捕鯨があった[156]。唐津藩時代に当たる17世紀中ごろから始まった捕鯨は、初期のうちは銛突によって小型の鯨を捕まえていた[156]。次第に、網を使って大型の鯨を追い込んで捕まえるようになった[156]。鯨肉や鯨油、それらによる運上(税金)は藩の大きな財源を占めていた[156]。

石炭

18世紀中ごろに、唐津炭田が発見された[156]。文政年間(1818年 - 1789年)には、唐津藩の保護・統制を受けたという[156]。その後、佐賀藩と同様に開港後にさらに盛んになる[157]。

唐津焼

同じ佐賀県を中心とする有田焼と比べると、素朴な作風で、茶人の間でつかわれた[158]。寺沢家時代は、椎ノ峯(現伊万里市)で、宝永4年(1707年)以降は坊主町、享保19年(1734年)以降は唐人町で、御用窯として焼かれていた[158]。

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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