壱分町
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河川
歴史
室町時代には平群郡生馬荘に属する地名として「一分」が見える[5]。江戸時代の村名は壱分村だが、「一分村」「一部村」とも書いた[5]。江戸時代初めは幕府領、元和元年(1615年)からは郡山藩領となる[5]。
明治22年(1889年)に南生駒村の大字となり、昭和元年(1926年)には信貴生駒電鉄が壱分を通った[6]。壱分の東部では、昭和38年(1963年)に生駒高校が開設され、水道の便にあやかりその周辺に住宅が増えた[7]。また東生駒からの延長となる形で、近鉄不動産によってさつき台住宅地が造成された[7]。壱分西部では、往馬大社の神域の一部が解放されるとその地に南風台が開発され、その西南には晴光台が開発された[7]。
地名の由来
以下の由来が考えられる。
- くまかし(いちいがし)が生えた里として「櫟生」(いちふ)と呼ばれたという説[8]。
- 『日本書紀』に有間皇子が「市経」(いちぶ[9])に居を構えたとあり、その市経をこの地とする説[10][注釈 1]。
- 平安時代の下級官吏「一分官」が住んでいたことによるという説[10]。
- 中世末期、興福寺一乗院領の生馬庄が一分と二分に分かれており、この地が一分に属していたことによるという説[10]。
沿革
世帯数と人口
2020年(令和2年)10月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
| 町丁 | 世帯数 | 人口 |
|---|---|---|
| 壱分町 | 3,040世帯 | 7,487人 |
人口の変遷
国勢調査による人口の推移。
| 1995年(平成7年) | 4,911人 | [13] | |
| 2000年(平成12年) | 6,244人 | [14] | |
| 2005年(平成17年) | 6,832人 | [15] | |
| 2010年(平成22年) | 7,196人 | [16] | |
| 2015年(平成27年) | 7,707人 | [17] |
世帯数の変遷
国勢調査による世帯数の推移。
| 1995年(平成7年) | 1,571世帯 | [13] | |
| 2000年(平成12年) | 2,059世帯 | [14] | |
| 2005年(平成17年) | 2,307世帯 | [15] | |
| 2010年(平成22年) | 2,504世帯 | [16] | |
| 2015年(平成27年) | 2,743世帯 | [17] |