大谷治男
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酒々井町立酒々井小学校、酒々井町立酒々井中学校、成田高等学校、専修大学出身。
東京都墨田区向島で生まれたが、1945年3月10日に東京大空襲があり、父の実家のある千葉県酒々井町に移り住んだ。
中学卒業後はパン屋に就職することになっていたが印旛郡の中学生ロードレース大会で優勝し、成田高等学校に進学した。高校時代には全国高校駅伝に出場した[1]。
高校卒業後は佐倉郵便局に就職することになっていたが、長嶋茂雄の兄である長嶋武彦との縁もあり、専修大学の補欠試験を受けて合格した。
大学時代は箱根駅伝に出場した。4年連続で走り、その内3年時を除く3回が6区だった。4年時の第37回大会では6区で中央大学の横溝三郎を抑えて区間賞を獲得し[2]、区間記録も更新した。また、チームは総合3位で戦後の最高順位を更新した。
大学卒業後はリッカーミシンに就職することが決まっていたが、中村清からの勧誘を受け、東急に入社した。
同年に20000mの日本記録を樹立し、1963年の別府大分毎日マラソンでは当時世界歴代5位の2時間15分57秒を記録した。
1964年東京オリンピックの出場を目指し、練習の一環として出場した中日マラソンで中尾隆行に次ぐ2位に入ったがゴール後に新聞社の取材に囲まれ、冷たい雨と雹の中で走って体が濡れたままインタビューを受けたため風邪を引いてしまう。
約2週間後に東京オリンピックの最終選考会として行われた毎日マラソンでは風邪を引いた影響もあって本調子で挑むことはできず、オリンピックのマラソン日本代表に選ばれなかった。
代表落選後はマラソンを辞め、出向きで専修大学陸上競技部のコーチを務めた。社業では引退後も東急に残り、役員にまで上り詰めた。