中村清

日本の中距離走選手、長距離走指導者 (1913-1985) From Wikipedia, the free encyclopedia

中村 清(なかむら きよし、1913年6月1日 - 1985年5月25日)は、日本陸上競技選手、指導者。現役時代の専門は中距離走だったが、指導者としては長距離走マラソンに著名な選手を輩出したことで知られる。

ラテン文字 Kiyoshi Nakamura
国籍 日本の旗 日本
概要 中村 清なかむら きよし, 選手情報 ...
中村 清
なかむら きよし
選手情報
ラテン文字 Kiyoshi Nakamura
国籍 日本の旗 日本
競技 陸上競技
種目 中距離走
大学 早稲田大学
生年月日 (1913-06-01) 1913年6月1日
出身地 日本の旗京城府
(現:大韓民国の旗ソウル
没年月日 (1985-05-25) 1985年5月25日(71歳没)
成績
オリンピック 1500m:予選敗退(1936年
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生涯

1913年6月1日日本統治時代の朝鮮京城府(現・ソウル)の出身。中学生のとき、父が病に倒れて生活が苦しくなりそのつらさを走ることで忘れた。

1938年早稲田大学卒業。在学中は1935年箱根駅伝1区でトップ、1936年に1000メートルと1500メートルで当時の日本記録を樹立するなどの実績を残し、1936年ベルリンオリンピック代表に選ばれて1500メートルに出場。だがオリンピック本番では外国選手にまったく歯が立たず、一方、マラソンでは朝鮮半島出身の孫基禎が金メダルを獲得したことから、「日本人がランニングで世界に勝てるのはマラソンだけ」という信念を抱くに至ったといわれる。ソウル出身であることから孫とも親しかった。

25歳で軍隊に召集され、輜重兵第16連隊に入営。間もなく甲種幹部候補生に合格して久留米予備士官学校に入学し、1939年12月の卒業後は原隊復帰して初年兵教育に当たったが、1940年末に憲兵学校に入学。成績は56名中最下位であったが、憲兵となったことで南方送りを免れた。満州国境の羅南憲兵隊訓戒分隊長を経て、44年4月の中尉昇進後に中山県江門分隊長として大陸戦線に従軍[1](このことから、のちに、取材に対して、「わしは何人も人を殺しているんだ」と相手を恫喝することさえあったという)。この間、予備士在学中に父を、訓戒分隊長時代に妻を相次いで亡くしている[2]。1945年7月、内地の陸軍戸山学校に射撃教官として発令されたが、帰国中に終戦を迎え、着任したのは8月16日のことであった[3]

戦後は石鹸ブローカーで貯めた金で1946年7月より荻窪駅南口で闇市を構えていたところ、同年11月、母校である早稲田大学競走部のマネージャーに請われて監督に就任した[4]。その収入の多くを選手育成につぎ込み、食糧難の時代にも選手達にはカレーライス、すき焼きハムといった潤沢な食事を与えた。闇市の店舗は選手たちの食堂となり、「中村学校」の原点となる[5]

後に映画監督になった篠田正浩を指導し、箱根駅伝では2区に起用したこともある。また、1964年東京オリンピックの最終聖火ランナーである坂井義則にランニングの指導を行ったのも中村である。

しかし、指導方法に対してOBなど(特に早大競走部OBの重鎮である河野一郎とは犬猿の仲だったと言われる)から批判が出たため、早大競走部監督を辞任した。早大を離れてからは実業団の東急の監督などを務めた。その後、箱根駅伝をはじめとする長距離種目で早大が弱体化したことから、懇願されて1976年に復帰。「世界に通用するマラソン選手を育てる」ことをめざし、瀬古利彦を育て上げた。

1980年、瀬古の就職に合わせ早大と兼務する形でヱスビー食品陸上部の監督に就任し、瀬古の成功に刺激されたランナーが中村の門を叩くこととなり、「中村学校」の異名を取った。その門下生には、インターハイチャンピオンで早大に進んだ金井豊坂口泰遠藤司のほか、外部からヱスビー食品入りした中村孝生新宅雅也佐々木七恵ダグラス・ワキウリらがいる。

その指導方法は独特で、選手を長時間戸外に立たせたまま、陸上とは直接関係のない仏教やキリスト教などを引用した講話を人間教育の一環として行うことも珍しくなかった。また、ヱスビー食品所属の選手は中村の自宅に同居させて選手寮代わりとし、生活の細かな点まで管理を行った。

このように、精神主義的と言われる反面、マラソンに関するデータ収集には人一倍手間をかけ、ライバル選手の家系まで調べたとも言われる。それらのデータから選手に最高のコンディショニングを施し、勝てるレース運びを伝授するのが中村の手法であった。

口癖は、「マラソンは芸術です」、「若くして流さぬ汗は、年老いて涙となる」、「朝に新しく生まれ、夜は明日の復活を信じて床に就く、一日一日が命のやり取りだ。」、「一日一生(いちじついっしょう)」、「天才は有限、努力は無限(素質のある選手に対して)」、「真鍮は真鍮、磨いても金にはなりません(素質のない選手を指して)」。また、「年に一度選手に大輪の花を咲かせるのが私の使命」とも語っていた。

しかし、悲願であったオリンピックのマラソン金メダルにはついに手が届かなかった。チャンスだった1980年モスクワオリンピックは日本がボイコット、1984年ロサンゼルスオリンピックでは調整の失敗により瀬古が14位と惨敗した。中村はロスの暑さを警戒し、レース3日前まで瀬古の現地入りを遅らせる奇策を選んだが、猛暑の東京で無理な練習をしたことが裏目に出た。瀬古はのちに「やっぱり、中村清といえどオリンピックだけは舞い上がって、追い込みすぎたんですよね。僕自身もそうでしたけど」と振り返っている[6]。中村は女子マラソンに出場した佐々木七恵の付き添いのため先に渡米し、レースを終えた佐々木を連れて帰国した直後に、瀬古と共にロスに戻るという強行軍をとった。高血圧狭心症の持病のためニトログリセリンが手離せず、胃には至急手術が必要なポリープが見つかっていたが[7]、愛弟子たちの世話に心血を注いだ。

4年後の1988年ソウルオリンピックに向けて瀬古の再起を図ろうとした矢先、1985年5月25日、趣味の渓流釣りに出かけた新潟県魚野川で岩から足を滑らせて川に転落死した。71歳没

主な弟子

人物

1954年の箱根駅伝で早稲田が総合優勝を飾った際、最終10区を走った昼田哲士が意識朦朧状態のまま走っていた。そこへ伴走車から中村が降り、早稲田の校歌『都の西北』を歌いながら昼田を励まし、一緒に走った。昼田は気力を振り絞ってゴールに飛び込み、早稲田の優勝を決めた。以後、中村は箱根駅伝の指揮を執る際に『都の西北』を歌うようになった。

  • ただし、中村が伴走車上から『都の西北』を歌うのは大学卒業後に競技から離れる4年生に対してのみで、中村からのねぎらいと餞別の意味合いもあった。故に卒業後は実業団(ヱスビー食品)で競技を続けることになっていた瀬古利彦は、伴走車の中村から『都の西北』を歌ってもらっていない。

1976年に中村が早稲田大学競走部監督に復帰したときには、名門・早稲田復活への並々ならぬ意欲を物語る以下のような話が伝えられている。

  • 再就任した際、中村は部員達に対し、「こんなに弱い早稲田にしてしまってOBの一人として申し訳ない。俺が謝る」といい、自分の顔を何発も殴ったという[8]。これで部員たちに熱意が本物であることを感じ取らせようとした。
  • 選手全員に強制的にスポーツ刈りを命じたが、その意を部員たちに汲み取ってもらえず[8]、苛立ちから地団駄を踏んで、足を骨折してしまったことさえあった。
  • 「諸君はこの土を食べれば世界一になれるというなら、食べるか。私は食べる」と、やおら足下の野草の付いた土をつかんで口に含んだこともあった[8]

選手の勧誘は、インターハイチャンピオン、国体チャンピオン、高校記録保持者、スピードのある選手、ラストの利く選手を好んだ。本人と直接話をするなかで、意志の強さを問い、面倒をみると決めた選手は必ず親に会いにいった。そのような選手は、中村清、瀬古利彦新宅雅也中村孝生同席のもと、勧誘された。

戦績

オリンピック

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大会種目記録備考
1936年ベルリンオリンピック1500m4分04秒08予選敗退
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箱根駅伝

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大会区間区間順位記録総合順位
1935年第16回箱根駅伝1区区間賞1時間13分35秒2位
1936年第17回箱根駅伝10区区間2位1時間13分19秒2位
1937年第18回箱根駅伝10区区間2位1時間15分03秒2位
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著書

https://dl.ndl.go.jp/pid/12172781/1/75?keyword=%E6%86%B2%E5%85%B5

  • 『心で走れ マラソン、わが人生』東京新聞出版局、1985年6月。ISBN 978-4808302252NDLJP:12172781

関連書籍

脚注

関連項目

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