陶鋳
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| 陶鋳 | |
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| 生年月日 | 1908年1月16日 |
| 出生地 |
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| 没年月日 | 1969年11月30日(61歳没) |
| 死没地 |
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| 所属政党 |
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| 配偶者 | 曾志 |
| 内閣 | 周恩来内閣 |
| 在任期間 | 1965年1月4日 - 1967年1月10日 |
| 国家主席 | 劉少奇 |
| 陶鋳 | |
|---|---|
| 職業: | 政治家・軍人 |
| 各種表記 | |
| 繁体字: | 陶鑄 |
| 簡体字: | 陶铸 |
| 拼音: | Táo Zhù |
| 和名表記: | とう ちゅう |
| 発音転記: | タオ・ヂュー |
陶 鋳(とう ちゅう、タオ・ヂュー、1908年1月16日 - 1969年11月30日)は中華人民共和国の政治家、軍人。号は剣寒。中華人民共和国の建国以前は政治宣伝の分野で活動し、建国後は広東省を中心に地方の要職を歴任。中央に抜擢後、国務院副総理、中国共産党中央政治局常務委員、党中央宣伝部長などを歴任したが、文化大革命で失脚。
湖南省祁陽県石洞源榔樹村に生まれる。父・鉄錚は辛亥革命に参加したが、1918年に軍閥の呉佩孚の部下によって殺害された。
陶鋳は1926年に黄埔軍官学校(第5期)へ入学し、同年、中国共産党に入党した。1927年、南昌起義と広州起義に参加。同年末に帰郷し、劉東軒と共に中国共産党祁陽県委員会を組織し、軍事委員兼青年委員に任じられ、「年関暴動」を組織した。1929年、福建省に移り、中国共産党福建省委員会秘書長、書記となる。その後、福建省党委組織部長、漳州党特別委員会書記、福州中心市党委書記などを歴任し、閩南工農紅軍遊撃隊を創設した。
1933年5月、上海で逮捕、無期徒刑(無期懲役刑)に処せられ、南京中央監獄に収監された。1937年、第二次国共合作が成立すると、周恩来・葉剣英により救出された。
出獄後、湖北省党委常務委員兼宣伝部長、鄂豫挺進支隊政治委員代理を務めた。1940年、延安に移り、党中央軍事委員会秘書長兼政治部秘書長となる。後に政治宣伝部長も兼任した。1945年、第7回党大会に出席。
国共内戦時は、遼寧省、遼吉省、遼北省などの党委書記を経て、東北野戦軍(のちの第4野戦軍)政治部副主任を務めた。
1949年からは党中南局常務委員、中南軍区政治部副主任、主任を歴任し、中華人民共和国建国後の1950年、広西省党委員会書記代理となる。1951年11月には広州に移り、1952年1月、広東省人民政府委員となる。1953年、党華南分局書記代理兼広東省人民政府主席代理に就任。1955年1月8日、広東省省長に任命され、同年7月1日、広東省党委第一書記となる(1965年まで在任)。また、広州軍区第一政治委員、軍区党委第一書記を兼任した。1956年9月の第8回党大会において中央委員に選出される。1960年12月1日からは党中央中南局第一書記も兼任した(1965年まで)。1964年2月、陶鋳が執筆した「人民公社は前進する」と題する論文が『人民日報』に掲載されると、毛沢東の目に留まり、中央に抜擢された[1]。1965年1月4日、国務院副総理に就任。1966年6月4日、党中央書記処常務書記兼中央宣伝部長に任命される。同年8月の第8期11中全会において党中央政治局常務委員に選出された。政治局常務委員会内での序列は毛沢東、林彪、周恩来に次ぐ第4位となった。
1966年に毛沢東が文化大革命を発動したとき、陶鋳は中央文革小組の宣伝担当顧問に任命され、文革の推進役としての役割を毛沢東から期待されていた。陶鋳は毛沢東の指示に従い、文革を積極的に推進しようとしたが、文革の目的が「劉少奇・鄧小平の打倒」であることについては理解しかねていた[2]。その後まもなく、陶鋳は毛沢東の寵愛を失った[3]。一方、陶鋳もまた紅衛兵に疑問を感じていたし、江青をあまりよく思っていなかった[4]。

林彪は陶鋳が、第4野戦軍以来の部下(中国語で「自己人」)[5]だったので、何度も陶鋳に「あなたは今から受身の立場にならねばならない」と警告した。また、毛沢東が陶鋳を批判する必要があると決心したとき、周恩来は晩節をまっとうする心理状態だったこともあり[6]、毛の意志にさからうこともできなかった[7]。
1967年1月4日、江青は陶鋳を「ブルジョア反動路線の新たな代表」と断じ、中央文革小組の組長である陳伯達は「陶鋳は中国最大の保皇派である」と宣言して「打倒陶鋳」を呼びかけた[8]。紅衛兵らによって吊るし上げられた陶鋳は自由を奪われ、1月10日、全職務を解任されて失脚した。
1967年9月、姚文元は『人民日報』で、「陶鋳の2冊の本を評す」(「评陶铸的两本书」)を発表し、陶鋳を「フルシチョフ式的野心家」、「叛徒」、「逮捕を免れている右派」、「修正主義者」、「反革命の裏切り者」とし、陶鋳著の『理想・情操・精神生活』、『思想・感情・文采』の二冊は「資産階級の反革命派的『理想』であり、裏切り者の『精神生活』であり、無産階級に対して恨み骨髄に徹した感情が充満している」と宣言した。
失脚後、安徽省合肥市に移された陶鋳は、1969年11月30日、胆道癌により死去した。
1978年12月、第11期3中全会で陶鋳の名誉は回復され[9][10]、同年12月24日に人民大会堂西大庁で彭徳懐と陶鋳の追悼会が挙行された。
妻・曽志との間に娘の陶斯亮がある。
最期の日々
1968年8月、天安門広場で100万人規模の「劉少奇、鄧小平、陶鋳」批判集会が開かれた。これに呼応するように、中南海にもそれぞれ劉少奇、鄧小平、陶鋳を批判する会場が3つ設けられた。3万人以上が陶鋳批判に参加し、妻の曽志もその場に引きずり込まれた。そこで曽志は、数人が陶鋳の頭を無理やり押さえつけ、両手を後ろで縛っているのを目撃した。陶鋳は必死に頭を上げようと抵抗したため、数人が彼を取り囲み、殴ったり蹴ったりした。するとすぐに陶鋳の額には大きな腫れ物がいくつも現れた。この残酷行為は3時間以上続いた。[11]
この批判大会以降、陶鋳は自由を完全に失い文書の配達が停止され、自宅に4人の警備員が配置された。警備員たちは陶鋳に対する態度が悪く、しばしば陶鋳を睨みつけ、罵詈雑言を浴びせていた。毎日食事の時間になると、彼らは陶鋳の部屋の前を行進し、「反革命分子の陶鋳を叩き潰せ、陶鋳を打倒せよ!」などと、陶鋳を侮辱する歌を部屋の目の前でわざと大声で歌っていた。時にはベッドサイドに立つ警備員たちが夜通しおしゃべりしたり冗談を言ったりして、陶鋳をわざと眠らせないようにすることもあったという。陶鋳はひどく動揺し、耐えきれなくなると、警備員らと口論になった。彼らは陶鋳をろくでなし、毒蛇、国民党の裏切り者、スパイと罵った。陶鋳は軽蔑の意味を込めてこう答えた。 「何の権利があって私を叱るんだ?私が革命を起こした時、君たちはまだ生まれてもいなかったではないか?もし私が国民党員だったら、君たちは国民党の息子、孫じゃないのか?」
1969年9月下旬、陶鋳は度重なる批判大会によるストレスにより持病であった胆道癌が悪化した。その際の様子を妻の曽志はこう回想している。[11]
今でも彼の苦しそうな姿を思い出すと胸が痛みます。それは言葉では言い表せず、ほとんどの人が想像もできない精神的にも肉体的にも大きな苦痛でした。彼はしばしば激しい痛みに苦しみ、ベッドの上でうつぶせになり、汗だくで顔を下にして身もだえし、食事もままならず、毎日水分しか摂れませんでした。彼は衰弱し、排便する力さえなく、私が手で排泄させなければなりませんでした。
1969年11月30日、陶鋳の身体はついに限界に達した。妻の曽志が見舞いに行くと陶鋳は昏睡状態に陥っていた。何度も呼びかけるとようやく目を開け妻の曽志だと分かると陶鋳は「曽志、私はもう助からないようだ。娘を、娘を大事にしてくれよ…」と呟いた。陶鋳の死を悟った曽志は最期に何か言い残すことはありますか?と尋ねた。すると陶鋳はこう言った。[12]
もう二度と娘に会えないのが残念です。もし会ったら、父である私と一緒に苦しませたことを申し訳なく思っていると伝えてください。でも、父は政治に関しては清廉潔白で、娘のために正しいことをしてきたと信じています。娘が強く、毛主席に従い、良い人間になり、良い人生を送って、孫を育ててくれることを心から願っています。
陶鋳はこの遺言を残した数時間後に胆道癌により死去した。没年61歳
1978年12月、陶鋳の娘、陶斯亮が1万字を超える手紙「ついに届いた手紙――父・陶鋳へ」が人民日報に掲載され、大きな話題を呼んだ。不当に亡くなった父を慕う娘の尽きることのない思いは、激動の文化大革命時代を経験した多くの人々の心に響き、陶斯亮は全国に名を馳せた。中国共産党は同月、陶鋳の追悼会を開きその無実の罪をそそいで名誉回復を行った。
エピソード
もともと陶鋳の序列は低かったが、毛沢東は自ら赤ペンで陶鋳の名前を周恩来の後、陳伯達の前に記した。これにより序列が一気に跳ね上がり序列4位となった。その際、あまりの昇進に驚き陶鋳は毛沢東に言った。「私は新人なので、あまり高い地位に座るのは良くありません。私はもっと低い序列に座るべきだと思います。毛主席、私は陳伯達同志を四位に上げることを望みます。伯達同志は長年主席のそばで働いており、私よりも主席の考えを理解していると思います。」しかし毛沢東は既に決定しており、変更はできないと言った。
陶鋳は劉少奇や鄧小平と歴史的にも個人的な関係にも深いものはなかったものの、思想的には近しく、良好な関係を築いていた。これが、毛沢東や中央文革小組の意向に従わず、反劉少奇・鄧小平の立場を取ることができなかった理由の一つであった。むしろ、「中央文革小組」顧問としては、陶鋳は組と対立したため、「劉・鄧」は最終的に「劉・鄧・陶」へと変化した。10年近くにわたり、中国では老若男女を問わず、ほぼ全員が「打倒劉・鄧・陶」のスローガンを叫んでいた。
陶鋳は文化大革命の悲惨な状況に対して精神の限界だった。ある日、中央文革小組の会議中に江青と文化大革命の方針に対し口論になった。すると陶鋳は突然立ち上がり、江青をまっすぐに見つめ、厳しい口調で言った。「私は落ち込んでいる人を蹴飛ばしたり殴ったりするような人間じゃない。できるなら助けてあげるべき。それがまともな人間としての最低限のことだ!あなたは干渉しすぎだ!何事にも干渉しすぎだ!」と大声で言うと江青は泣き出し、人生でこれほど屈辱を受けたことはなく、陶鋳にいじめられ、抑圧されていると大騒ぎした。
陶鋳は妻の曽志に涙ながらにこう話した。「曽志… 私が江青と口論して以来、私の人生がどれほど困難になったか、あなたにはよく分からないでしょう。中央文革小組の会議に行くたびに、四人組とその一味は私に皮肉を言い、わざと私の欠点を見つけ、問題を起こし、私を困らせようとしてくるのです…」