安川繁成
From Wikipedia, the free encyclopedia
旧暦天保10年3月(1839年4月)、上野国で生まれる[2]。陸奥棚倉藩士・岩崎八十吉の四男[3]。上野国新田郡綿打村大字上田中字六供(かみだなか あざ ろっく)(現・群馬県太田市新田上田中町)生まれ。
白河藩士・安川休翁の家督を継ぎ[3]、江戸に遊学し、大鳥圭介の塾に学ぶ[3]。開成所に転じて学校名が大学南校となるまで学んだ[4]。慶応3年(1867年)慶應義塾に転じ大村益次郎の知遇を得る。慶應義塾卒業後、『開明鑑記』の編集者となる。戊辰戦争では岩倉具視の知遇を得た[2]。
版籍奉還の際に森有礼に推されて行政官になる。その後岩倉具視に命じられて欧米を視察。工部省書記官、会計検査院部長、東京市参事会員[4]。日本鉄道会社監査役、愛国生命保険社長を歴任した。1898年(明治31年)には、第6回衆議院議員総選挙の東京府第1区で当選し憲政本党に所属した[2][5]。
その他
1884年(明治17年)には、麻布区笄町126番地(現・港区西麻布4-11-7)に自らの名前を取った浄土宗智明山攝取院繁成寺を開基している[8]。開山は、安川氏の遠祖の智明上人。青山善光寺の住職であった深山法運師が初代住職となった。本尊は阿弥陀如来、他に不動明王、地蔵尊、五百羅漢を祀る[9]。また、秋月子爵の室や毛利公爵の母親などの華族の婦人たちが集まって、念仏を唱えながら鉦を打っていたため、俗にカンカン寺と呼ばれた[10]。また、北白川宮能久親王や柳原愛子といった皇室の人々も参詣した[8]。
茨城県北相馬郡利根町には、旧棚倉藩主の阿部正功が篆額、安川繁成が書を記した「飯島君之墓銘」がある(撰文は中村正直)。飯島君とは飯島利兵衛のことで、下総国北相馬郡上曽根村→文村の豪農で、碑文によると、農作業の傍ら、算術や華道遠州を習うなどした。1871年(明治4年)には村役人に請われて、利根川の測量を行った。1877年(明治10年)9月23日病没。享年67[11]。
