菅又薫
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栃木県[3]塩谷郡、のちの花岡村(北高根沢村を経て現高根沢町)で、農家・菅又吉松、とき の息子として生まれた[4]。
東京医学専門学校(現東京医科大学)に学び、医師免許を取得後、1907年故郷で病院を開業する(菅又病院)[3]。その後、北高根沢村長、塩谷郡会議員、栃木県会議員などを務める[3]。この間、1932年に北高根沢村の隣の阿久津村(現・高根沢町)で起きた栃木県最大の小作争議(阿久津村事件)の調停に立った。
1942年の第21回衆議院議員総選挙で非推薦で立候補して当選する。戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙では日本進歩党から立候補して再選される。日本進歩党では総務委員となった[3]。翌年の第23回衆議院議員総選挙には出馬せず政界を引退した。1950年死去。