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大宮・村山口登山道

富士山登山道の1つ From Wikipedia, the free encyclopedia

大宮・村山口登山道(おおみや・むらやまぐちとざんどう)は、富士山登山道の1つである。大宮口および村山口は静岡県富士宮市に所在し、同市および富士市を経路に含む登山道である。

種類登山道
登録日平成24年(2012年)1月24日指定(大宮・村山口登拝道として[1])
概要 大宮・村山口登山道, 種類 ...
大宮・村山口登山道
中宮八幡堂跡(静岡県富士宮市)
種類登山道
所在地静岡県富士宮市・富士市
登録日平成24年(2012年)1月24日指定(大宮・村山口登拝道として[1])
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うち6合目から富士山頂の区間は富士山世界文化遺産における構成資産「富士山域」の構成要素となっており[2]、現代の通常登山でも用いられている区間である。また「大宮・村山口登拝道」として史跡にも指定されている。

現在、学術調査を基としたルートが公表されている[3]。

概要

大宮・村山口登山道(以下、大宮・村山口)は富士山本宮浅間大社(以下、浅間大社)が鎮座する「大宮」(大宮口)[注釈 1]を起点とし、村山浅間神社(富士山興法寺[注釈 2])が鎮座する「村山」(村山口)[注釈 3]を経て、富士山頂を終点とする登山道である[4]。大宮口の120mから浅間大社奥宮の3,710mという、標高差3,590mの登山道である[5]。

大宮口と村山口は共に史料に現れる用語であり、歴史的にも一体として扱われてきた[4]。しかし両者性質は異なり、大宮は富士氏および浅間大社の社人衆の影響下からなり、村山は村山修験(村山三坊)の影響下であった。また頼賀[注釈 4]の妻が富士信忠[注釈 5]の娘であったように中世より両地域深い関係にあったが、大宮と村山が登拝上連続性を持つことにも特別な意味があった[6]。その他富士登山に関わる取り決めにおいて、連携を有していた[7]。

大宮・村山口を利用する道者は西国方面からの者が多かったとされる[8][9]。例えば村山三坊は中世には駿河国より西に活動拠点である檀那場を設けていた[10]。一例として、大鏡坊の頼賀は富士先達である者の檀那場を保証する文書を発給しているが、それも三河国であった。

開削時期は不明であるが、大宮・村山口は日沢・不動沢溶岩流の分布域に沿う形で位置しており、溶岩の流出以降の12世紀頃の成立が目されている[11]。万延元年(1860年)に英国特命全権公使のラザフォード・オールコックが外国人初の富士登山を行った際に使用されたことでも知られる[12]。

大宮口と村山口

大宮・村山口登山道の位置(富士山内)
大宮口
大宮口
「右富士山道」の道標
「右富士山道」の道標
村山口
村山口
中宮八幡堂
中宮八幡堂
笹垢離
笹垢離
御室大日堂
御室大日堂
大宮・村山口登山道
大宮口(座標:富士山本宮浅間大社)
「右富士山道」の道標
村山口(座標:村山浅間神社)
中宮八幡堂(SX1)
笹垢離(SX5)
御室大日堂(SX9)

各登山口を比較した記述によると、正徳2年(1712年)『和漢三才図会』に「自駿州登、曰大宮口」[注釈 6]や寛延2年(1749年)『和歌駿河草』に「登山するに、駿河口大宮」[注釈 7]、安永8年(1779年)の越谷吾山『雅言俗語翌檜』に「吉田口甲州大宮口駿州素走口相州是三ケ所の登口なり」、曲亭馬琴『三国一夜物語』に「駿河より登るを大宮口といひ」[注釈 8]等とある。また長谷川雪旦『百富士之図』[注釈 9]や小泉斐『富岳写真』[注釈 10]には大宮・村山口頂上部分を指して大宮口とある。

このように村山口に言及せず大宮口にのみ言及する例もあれば、『甲斐国志』のように「登山路ハ北ハ吉田口、南ハ須走口、村山口、大宮口ノ四道ナリ[原 1]」と大宮口と村山口を併記する場合もある。また『隔掻録』には「村山口ハ大宮口ト合ス」「村山口大宮口ヨリ登ル者、此所[注釈 11]ニ出ヅ」とある。

大宮・村山口は「表口」とも呼ばれ、百井塘雨『笈埃隨筆』には「西南駿州大宮口を表として」とあり[注釈 12]、平田篤胤『古史伝』には「玄道云勝隆が説に大宮町より村山村を経て登るを表口と稱ひ」[原 2]とある。

大宮・村山口は各富士登山道の中でも急峻であったようであり、『富士筆記』(1733年の富士登山の紀行)には「大宮よりハ道峻にして」とあり、また寛政12年(1800年)の紀行文にも「余がことき老足は表大宮口は至て嶮岨なり、須山・須走の両の口、道は遠けれど攀やすき所有り」とある[13]。

大宮・村山口の登山記として慶長13年(1608年)の『寺辺明鏡集』が[14]、絵図としては延宝8年(1680年)の『富士名所盡』が[15]古例として知られる。また宝暦2年(1752年)『東海道五十三次図』[原 3]の吉原宿の説明として「宿の内右に富士参詣大宮口への道あり」とあるように[注釈 13]、大宮は富士参詣の起点として知られていた[16][17]。

登山道の主な施設・遺構

大宮・村山口の学術的な調査は各登山道の中では早い段階から行われており[18]、平成5年(1993年)の報告(『富士山村山口登山道跡調査報告書』)を嚆矢として[19]以後数度にわたり行われ、富士山の世界文化遺産登録以後もルートの特定が進められてきた[20]。

以下に大宮・村山口の道程における主な経由地を一覧化する[21]。また『富士山巡礼路調査報告書 大宮・村山口登山道』の地点名(SX◯)[22]を付す。

さらに見る 施設とその別称, 内容 ...
施設とその別称 内容 所在地
標高
気温
画像
富士山本宮浅間大社
(湧玉池)
大宮口の所在地。登山道の起点。 富士宮市宮町
120m[5]
15℃[23]
「右富士山道」の道標 寛政元年(1789年)造立[24]。
神幸道との分岐点。
同市舞々木町
賽の河原 経由地の1つで[25]、計17基の石造物がある[26][27]。 同市大岩
富士山興法寺
(村山浅間神社)
村山口の所在地。村山道の終点[28]。 同市村山
13℃[23]
中宮八幡堂(SX1) 馬返し地点で、歴史的には金剛杖を入手する地点。
かぐや姫説話舞台の地[29]。
同市粟倉
1,260m[30]
10℃[23]
笹垢離(SX5)
瀧本
四体の石造物が所在。 富士市
1,865m[31]
御室大日堂(SX9)
一ノ木戸
往生寺
歴史的には村山の役人が登山手形を改める場所。 富士宮市粟倉[注釈 14]
2,170m[33]
砂振(SX11)
第一層
等覚門
森林限界 同市粟倉
2,750m[34]
山頂
(浅間大社奥宮)
江戸時代までは大日堂(表大日)[35][10]。 富士宮市
3,710m
-5℃[23]
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ルート

大宮・村山口登山道で富士山頂へ向かう様子が描かれている(絹本着色富士曼荼羅図)

登拝ルートの特定として、現地調査を基とした学術調査の他[20]、登山記といった紀行文や富士山登山絵図・富士参詣曼荼羅図といった絵図から読み取る試みも広くなされてきた。

「絹本著色富士曼荼羅図」には東海道を経て登拝する道者や海路を用いる道者が描かれている。同図は道者のルートを意識した絵図となっており、道者が浅間大社に至り湧玉池で禊を行う様子が図示されている。そこから東北に至ると富士山興法寺が位置し、更に北上し中宮八幡宮・御室大日堂等が図示されている[36]。

また派生路として村山道を経由した登拝形式が存在するが、登山記から村山道の利用が確認される例は嘉永5年(1853年)の『不二覚書』のみであり[37]、またこの例においても下山は大宮・村山口を用いている。

大宮から「右富士山道」の道標を経て村山

湧玉池

大宮から村山へ至るルートは、史料の分析から少なくとも3本存在していた[注釈 15]と推定されている[38]。しかしこの3本はいずれも「右富士山道」の道標を経る[24]。道標の右筋が登拝道であり、左筋は山宮御神幸道となる[39]。

大宮には室町時代末期には道者坊[注釈 16]が存在しており、宿坊として用いられていた。この「大宮道者坊」は浅間大社の社人衆により運営されており、『大宮道者坊記聞』には「大宮道者坊ノ事、古ヘ享禄・天文年間ハ、凡三十ヶ余坊有之由伝フ」とある。これらは徐々に統合されていったと考えられており[40]、江戸時代初期には7坊まで統廃合されている[41]。

また今川氏輝判物[原 4]に見える「西坊屋敷」や今川義元判物[原 5]に見える「大宮西坊屋敷」が大宮道者坊の1つではないかとする指摘もある[42]。

近世初頭における大宮・村山口の様相を示す史料として、慶長13年(1608年)の興福寺僧侶による『寺辺明鏡集』がある[43][44]。以下、同史料を引用して解説する。

同六月九日ヨリ、駿河ヲ立テ、フヂ山上スルナリ。ふ中ゟフシ川[注釈 17]迄七里程有、大宮ト言処ニトマルナリ。先ソコニテコリ[注釈 18]ヲトル。コリノ代六文出シテ大宮殿[注釈 19]ヘ参也 — 慶長13年(1608年)『寺辺明鏡集』

このように駿府から富士川を渡り大宮へ入った僧侶は、湧玉池で垢離を取り浅間大社に参拝している。

村山

村山浅間神社
「矢立」跡に比定される箇所(SX4)[45]
後日、村山ト言所ヘ大雨二着也。扨、大光坊[注釈 20]ト言所二宿ス。 — 慶長13年(1608年)『寺辺明鏡集』

僧侶は村山の大鏡坊に宿泊し[46][47]、大宮口と同様垢離を行っている。

村山から登拝する場合はご来光に合わせ夜行登山となるため[48][49]、その前に村山三坊にて宿泊するのが一般的であった。その際は大鏡坊であることが多かった。

例えば近世の登山記である羽倉簡堂『東游日歴』や原得斎『富嶽行記』においても、大鏡坊に宿泊したことが示されている[50][51]。また西国の道者も大鏡坊を用いている記録が多い。

村山口に入ると「発心門」が位置し、ここで道者は自らの名を札打ちするという風習があった。慶長7年(1602年)の史料[原 6]によると、この発心門および「札打」は村山三坊のうち大鏡坊直轄であった[52]。

「冨士嶺行所納札書様」という史料には、村山口から頂上に至るまでの重要地点が記されている。当史料では「発心門」「中宮」「瀧本岩屋」等の施設が記され、数々の行場がありそれに即した行法が存在していたことが知られる[53]。

中宮八幡堂・御室大日堂

中宮ト言所二而シデ杖六文ヅゝ二カウ也。(中略)ソレヨリ上二而サイノ川ラ有(中略)ソレヨリ御室ヘ着ク。 — 慶長13年(1608年)『寺辺明鏡集』

僧侶は中宮八幡堂および御室大日堂へ到着。途中「西の河原」を経ている[54]。原得斎は御室大日堂より下は樹木が生い茂っているがそれより上は禿山であるとし、御室大日堂がその境であるとしている[55]。

普浄(不浄)

「普浄」跡に比定される箇所(SX10)[56]
ソレヨリハラクリ大日ト言タケ有。ソレヨリ不上カタケ[注釈 21]ト言ヘカゝル。ハエバヤハナルゝ。 — 慶長13年(1608年)『寺辺明鏡集』

僧侶は普浄[56]に至る。登山記の一種である延宝4年(1676年)『三禅定之通』には「大日堂」(御室大日堂)の次の地点として「ふちようがたけの堂」が記される[57]。

砂振(砂払)

「砂振」跡に比定される箇所(SX11)[58]
ソレヨリスナハライバ[注釈 22]ト言所ヘ上ル。 — 慶長13年(1608年)『寺辺明鏡集』

僧侶は砂払(砂振とも)へと至る。元禄5年(1692年)成立の貝原益軒『壬申紀行』に、砂振についての詳細な記述がある。

大宮は富士山へのぼる道すぢなり(中略)富士のいたゞきにのぼる道、大宮より村山に二里(中略)中宮も室も、しげれり山の内なり。室よりすなぶるひへ二十町。是、しげ山の上のおはりなり。是より上は草木なし。皆細石なり。道筋あり。すなぶるひより黒岩まで二里、黒岩より高峯[注釈 23]まで一里あり。(中略)およそ高峯にのぼる人、吉原より行には丑の時に宿りを出て其あけの日ひねもすゆけば、其日の暮つかたには、すなぶるひまでいたる。(中略)すなぶるひより上は草木なく、ざれの上をふみてのぼる。

「しげ山の上のおはり」「すなぶるひより上は草木なく」とあり、砂振が森林限界であることが分かる[59]。また石は細石(ざれ石)であるとしている。『和歌駿河草』には以下のようにある。

登山するに、駿河口、大宮。相州道須走。甲州口、吉田。と三所あり。(中略)大宮より一里程をのぼりて、村山といふあり。それより二里ばかりのぼりて、八幡、中宮、龍か馬場、砂振、といへるには、砂石ばかりにて、草木もなし。風烈しければ砂石を飛ばし登り得る事なし。
—寛延2年(1749年)『和歌駿河草』本巻 富士篇

砂振が砂石ばかりであるとし、草木もないとしている。このように『壬申紀行』と類似した報告をしている。また嘉永4年(1851年)「富士山表口南面路次社堂室有来次第絵図」において「第一層」とされる箇所でもある[56]。

胸突

「二層」跡に比定される箇所(SX12)[60]
「三層」跡に比定される箇所(SX13)[60]

七合目ないし八合目より上はより急峻となるため「胸突」と呼ばれた。『富嶽行記』に「七合目の上に胸突坂と云うなり」とあり[61]、七合目より上を指して「胸突坂」とある[62]。明治時代になると「胸突八丁」という言葉が確認されるようになる[63]。

富士山頂

ソレヨリ八葉ヘ上り着□阿陀ノタケ[注釈 24]・大日ノタケ[注釈 25]・ケンガミネ[注釈 26]ナト言テ八葉ノミ子有、中ハ□イ□□、マワリ五十町ノ池有。 — 慶長13年(1608年)『寺辺明鏡集』

僧侶は富士山頂到着後、お鉢めぐりを行っている。また富士山の区分を「茅原」「深山」「ハゲ山」と三段階に分け説明している[64]。また「マワリ五十町ノ池」は、コノシロ池であると目される。

コノシロ池の西側が大日堂跡とされ、堂の礎石の存在を指摘する報告もある[65]。また羽倉簡堂は山頂の大日堂(表大日)[注釈 27][66][67]に宿泊し、雷岩や金明水を巡り下山している。

砂石の間三里計りも登れば絶頂なり。盛夏の時も渓谷に雪残り、寒気肌骨に徹り此地の厳寒の時より猶まされりとなり。
—寛延2年(1749年)『和歌駿河草』本巻 富士篇

また『和歌駿河草』には夏でも残る雪(いわゆる万年雪)についても記される。表大日に隣接して「三島ヶ嶽」(別名: 文珠ヶ岳)が所在するが[68]、この三島ヶ嶽からは鎌倉時代の経典の他多くの出土物があり、現在浅間大社が所蔵している[69]。これらは昭和5年(1930年)に砂礫採収とその追加調査の際に発見されたもので、経典の他木槨や銅器・陶器等が同時に発見された[65][70]。また経巻の中に「末代聖人」と記されたものがあり、末代を拝する者による埋経が想定されている[71][72]。

各登山記の山頂に至るまでの道程は「富士参詣曼荼羅図」諸本の様相と一致しており、当時の大宮・村山口における一般的な登山風習であったことが指摘される[47]。

表大日(現在の富士山本宮浅間大社奥宮)

下山

上落ノ道スガラ、不中[注釈 28]ヲ立テ藤数[注釈 29]ト言宿ニツク。 — 慶長13年(1608年)『寺辺明鏡集』

僧侶は同じ道を下ったものと目される[64]。歴史の中で復路が往路と同様でない「下向道」[注釈 30]も成立したが、登山記から利用が知られる例は山名政胤『富士山行記』(1709年)のみである[74]。

また通常登山とは異なり、吉田口から登拝し大宮・村山口を用いて下山した例がある[75]。

派生経路

水神の森にかつて位置した宝歴8年(1758年)の道標(現在は水神社に移設)[76]

駿河国富士郡の有力者は、交通の要衝である大宮口に道者を集中させる政策を取ってきた[77]。例えば寛文2年(1662年)には井出藤右衛門・古郡孫大夫により道者が大宮を経ずに村山に行くことを禁止する制札が出されている。

東海道から大宮口に至るには、吉原宿から中道往還を用いる方法や、富士本道(水神→東海道から分かれる→岩本→山本→浅間大社[78])を用いる方法がある。

元禄2年(1689年)の松栄寺(愛知県常滑市)から密蔵院宛の文書には、以下のようにある。

殊山城・大和・三州・遠州等数ケ国者大宮村山通り登山仕筈ニ公義御定ニ御座候故 — 「盛田家文書」[79]

松栄寺は山城・大和・三州・遠州等の諸国は大宮・村山口を通ることが公儀によって定められていると述べている[80][81]。松栄寺がこのような文言を用いたのは、本来大宮・村山口を用いるべき高讃寺が須走口を用いたこと対して異議を唱えたことによる。そして「大宮村山通り」とあるように、大宮口と村山口は一体として認識されている。

一方で、寛政8年(1796年)に村山が発行したと目される引き札には、大宮を経ていない村山までの道中が記される。

富士道中入口
ふじ川ゟ村山へ三りよ、ふじ川舟バより左りいわもと[注釈 31]より右ふんぶ川[注釈 32]をむかふへこし、左へ入、ふんぶ川ゟてんまさわ村[注釈 33]ゟいしわら村[注釈 34]ゟ村山へ、

つまり富士川→岩本→凡夫川→天満沢村→石原村→村山という道程を示したものであり[82]、大宮を経ないものとなっている。これは富士本道の一部と、登山案内図において「下向道」と記される道(岩本←凡夫川←天間←杉田←石原←村山)[83]を用いた登拝道である。

このように、実際は在地勢力が大宮口を経ない登山様式を推奨するといった動向も確認される。しかしながら、このような下向道(復路専用)を登山(往路)として用いる登山様式は公儀で定められたものではなかったため、寛政10年(1798年)には富士能廣が韮山代官所に取締りを要望している[84]。これは引き札発行の2年後のことであり、翌11年(1799年)には実際に取り締まる制札が代官所から出されている[85][86]。

歴史の中で繰り返し制札が出された背景として、大宮を経ない登山様式が横行し歯止めがかかっていなかったことが指摘される[84]。大宮を経ない登山様式としては、上記のように本来「下向道」とされる道を用いて大宮を経ずに北上するものもあれば[86]、吉原宿から村山へ直接北上するケース(村山道)も存在した。

近代以降の動向と村山の衰退

前史としてまず18世紀から19世紀の村山口[10]について解説する。山名政胤『富士山行記』(1709年)に村山について「人家などもおほく」とあるように、村山口は賑いを見せていた[87]。

しかし徐々に村山口を用いる人々は減少していたと見え、寛政元年(1789年)の大鏡坊による寺社奉行所宛の文書には以下のようにある。

(前欠)当年義、富士導者十か八、九裏廻り仕候、…

「裏廻り」とあるように、従来村山口を用いていた導者が別の登山口から登山を行う事例があり、大鏡坊が問題視していたことが分かる[88]。

『駿河国新風土記』によると、編者が文政9年(1826年)における村山の様子として「文政九年にいたりては、山伏社人のほかには民戸二煙なれり」と記しているように、この時点で数える程しか人家が無かったことが窺える[16]。また羽倉簡堂『東游日歴』(1827年)には村山について「至村山邑、邑三四戸」とあるように[89]、戸数は3・4戸のみまで減少していた[37]。

これら共通する内容から、19世紀前半には既に村山には数戸のみが現存する状況となっていたことが分かる[90]。また時代は下り明治時代初期の廃仏毀釈によって、様相も一変した[85]。

20世紀に入り明治39年(1906年)になるとカケスバタ口が開削され、富士山へのアクセスが容易となった。これは富士身延鉄道の開通を見据え、先行して開削されたことによる[91]。ルートは「大宮 - 万野原新田 - 山宮 - 大宮・村山口登山道四合目合流(以降同登山道)」であった。この結果、村山を経由しない登山が徐々に一般化した[注釈 35]。

また昭和45年(1970年)には富士山スカイラインが完成したことにより、大宮・村山口登山道が用いられることは無くなった[92]。

民俗

『富嶽行記』には大宮・村山口における習俗も記される。

小室大日と登り(中略)是にて日は暮れ一宿す(中略)夜中若し両便の催しある時分家外にて空地に出たる 懐中紙を地に敷きたる 其の上に用をなす 直に地上を汚すことを忌む 此等皆強力の差図なり 且つ亦時として 怪しきこともましなるとぞ 所謂鼻高様の多き場なりとも彼の者云う。[93]

御室大日堂にて一泊した際の強力の話として、催しがあっても直に地上を汚してはならないという指示があったとある。このように、登山道中は神聖な場と認識されていた。また「鼻高様」、つまり天狗が多く居る場所であったとも考えられていた[94]。

『駿河国新風土記』には以下のようにある。

こゝより半里ばかり行て岩屋不動といふあり(中略)夫より半里ばかり行ば冠木の門の朽たるあり、此々にて人々古き草鞋をすてゝ新をかゆる所なり。

このように古い草鞋を捨て、新しい草鞋に変えるという習俗があった[95]。またエドワード・ウォーレン・クラークは自著「The Ascent of Fuji-Yama」[注釈 36]にて社の像の前に草鞋が大量に積み上げられていたことを記している[94]。また断食をする老人が居たことも記している。

富士山とかぐや姫

かぐや姫伝説を含む富士山縁起を伝える安養寺

大宮・村山口が位置する富士山南西麓にはかぐや姫にまつわる伝承地がある。また富士宮市・富士市の各寺社にはかぐや姫(赫夜姫)伝説を含む「富士山縁起」が多く伝わっている[96]。また富士山の祭神(垂迹神)は浅間大菩薩とされ、女性の姿をした神であると認識されており、中世においては赫夜姫もここに結びつけられていた[97]。

一方で、寛政11年 (1799年)の狂歌集『東遊』には以下のようにある。

みくらいに のほるや不二の 山さくら 大宮口の 花さくやひめ — 末広菴長清
『東遊』(浅草庵市人撰・葛飾北斎画・蔦屋重三郎刊)

この狂歌はコノハナノサクヤビメを祭神とする認識下で生まれたものであるが、このような認識は近世以降のことになる。

成立が古い「富士山縁起」には村山の往生寺や末代上人が登場しており、これら古例の「富士山縁起」は村山修験(富士山興法寺)の中で伝えられたものであるとされることが多い[98][99][100]。

「富士山縁起」中のかぐや姫の表記には「赫夜妃」[注釈 37]「赫夜姫」[注釈 38]「爀夜姫」[注釈 39]等が認められる。これら「富士山縁起」は浅間大社・村山三坊(富士山興法寺)や杉田安養寺(共に静岡県富士宮市)、東泉院(同県富士市、廃寺)といった寺院に伝来し、富士山南西麓に有意に多い。

また各「富士山禅定図」に「中宮」が記されているが、この中宮は「富士山縁起」の諸本[注釈 40]におけるかぐや姫伝説の舞台であり[108][109]、富士山の洞窟へと向かうかぐや姫と、養父である翁が最後の別れを行う場所として記される所である[110]。また当図に「冠石」(富士宮市域)の記載があり、富士山縁起ではかぐや姫の後を追い富士山に登った帝が落とした冠が石になったものだと伝えている[111]。

このように富士宮市および富士市はかぐや姫伝説の残る地域であり、「五社記」[注釈 41]では滝川神社(富士市)を「愛鷹 赫夜妃誕生之処」としている[112][113][114][115][116]。他に憂涙河の説話等が知られる[117]。

このような、赫夜姫が浅間大菩薩(浅間大明神)の示現として現れる筋書きを持つ「富士山縁起」諸本が富士山南麓に点在しており、富士宮市や富士市はその舞台の地であった[118]。

脚注

参考文献

外部リンク

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