山下賢章
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鹿児島県肝属郡串良町(2006年合併により鹿屋市)出身、早稲田大学第一文学部哲学科卒業[9]。1969年に東宝に入社[出典 5]。岡本喜八を筆頭に師事[出典 2]。1975年、本多猪四郎が監督を務めた『メカゴジラの逆襲』でチーフ助監督に就任[出典 2]。同作品への参加には、岡本からの後押しもあったという[5]。
1979年に映画『トラブルマン 笑うと殺すゾ』で監督デビュー[出典 6]。東宝映画では監督を3本務めたらフリー契約をするという暗黙のルールがあったため、監督作を3本は撮りたいと考えていたが、邦画斜陽の時代では実現が難しく、その後も東宝社員のまま助監督時代が長く続いた[4]。
2016年8月16日、急性心不全のため逝去。72歳没[8]。同年11月27日には、東宝スタジオで「山下賢章監督を送る会」が開催された[10]。
人物
映画業界を目指したきっかけは、学生時代に岡本喜八が監督を務めた映画『肉弾』(1968年)を観て感銘を受けたことであった[4]。助監督時代に岡本へ師事したのも本人のたっての希望であった[4]。東宝の富山省吾は、山下は岡本組の長男のような存在であったと述べており[11]、岡本の影響を受けカットを細かく積み重ねていく映像派であると評している[12]。
本編班と特撮班に分かれる怪獣映画においては、情報を早く正確に伝えてイメージを共有することが重要だとしており、『ゴジラvsスペースゴジラ』(1994年)では入念な準備を行っていたがまだ足りなかったと述懐している[1]。
山下について、『vsスペースゴジラ』に出演した橋爪淳は、俳優の自由に演じさせてくれたといい、話し合いでも自身の意見を押し付けてくることはなかったと証言している[13][14]。また、橋爪は山下がサインを求められたときに自身の名前を書くときよりも「GODZILLA」と書いている時の方が楽しそうであったと述懐している[14]。同作品に出演した小高恵美は、山下からは抽象的なニュアンスで伝えられたといい[15]、また山下を「すごくねばる監督」であったと述懐している[16]。同じく出演者の吉川十和子は、山下を落ち着いていて穏やかな監督という印象であったといい[17]、登場人物の心を大事にしており、心理的な描写が緻密であったと評している[18][19]。監督助手の島田充は、山下は温和な人物であったが、撮影ではエネルギッシュにのめり込んでいたと証言している[20]。撮影監督の岸本正広は、山下はあまり喋らないため誤解されることもあったが、頭の中ではいつも演出的に面白いことを考えていたと語っている[21]。音楽を担当した服部隆之も、山下から要望を出すことはなかったが、キャラクターを深掘りする要素を教えられ、作曲がやりやすかったと述べている[22]。