山縣悌三郎
日本の教育者、実業家(1859-1940)
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経歴
幼少・青年期
1859年1月(安政5年12月)、水口藩士の山縣順と徳の三男として近江国に生まれる[4]。山縣家は出羽の出身で、水口藩に仕えた家系であった[5]。幼少の頃は身体が貧弱であった[6]。山縣家には儒学の典籍が多く所蔵されていたことや[4]、兄の虎五郎が授読であったことも影響し、山縣は6歳の時点で『大学』を素読していた[7]。1864年(元治元年)、池田省吾の寺子屋に入った後、翌年に水口藩の藩校であった翼輪堂に入校し、中村栗園と叔父の中村確堂の元で学ぶ[4][8][9][注釈 1]。1869年(明治2年)、父が師事していた江馬天江のもとに遊学[10]。
1870年(明治3年)、授読副員を1年経験。その後、京都在住の叔父の原田好の元に寄宿し佐藤政養の私塾に通う[11]。1871年(明治4年)、原田が東京の駅逓司に転勤することになり、10月には原田の書生として上京する[4]。この際、山縣は池田菊苗と意気投合、互いに京都に新聞社を作ろうと盛り上がった。原田の東京行に伴い池田から東京遊学への誘いを受け、池田、ほか原田寿一郎、堀江洸太郎の2名もともに上京している[12][13]。
11月1日、育英義塾に入学[注釈 2][14]。同塾では英学を修める傍ら嘉納治五郎と親交を深める[4]。翌年、原田が再び京都に転勤になったことに伴い、山縣は原田から池田ら3名の世話、及び原田好の次男であった原田次郎を加えた4人を率いることを託される[15]。当初は新富町に暮らしていたものの、育英義塾の移転に伴い一行は市谷田町の借家に移り住む。この際原田好の養母、実母らもともに移り住んだ[16]。このころ山縣は東京外国語学校の英語科生徒募集の広告を見たことで応募し合格、最下級のクラスに編入することになった[16]。この際原田家の好意で山縣は神保町に転居することになったが、堀江は電信学校の官費生になり原田家を抜け、池田は京都に帰った[16]。原田家も大阪に向かうこととなったこと、中村確堂が廃藩置県で藩校が廃止されたため正院修史局に任用され上京し山縣と合流したことが重なり、以降山縣は中村確堂の書生となった[17][4]。
1875年(明治8年)12月、学費滞納で東京外国語学校を退学にされる[4][18]。1876年(明治9年)、東京師範学校中学師範学科に入学、博物学を専攻する[4]。「将来学者として身を立てんと欲し」と勉強に集中、帝国図書館や浅草文庫を渉猟した[19]。1878年(明治11年)、『内外教育新報』に寄稿をする[20]。1879年(明治12年)6月、東京師範学校を卒業[4]。

教職時代
1879年(明治12年)9月に埼玉中学師範学校に英学部理科教諭として赴任[4]。同年、家塾を開く[21]。福沢諭吉の交詢社と西村茂樹の修身学社[注釈 3]に入社。交詢社では浦和支部の幹事になる[22]。1881年(明治14年)3月3日、松原操子と結婚[23]。同年には宮城中学校に転任する。その際に浦和師範学校の生徒らから「先生才優志大、識博学瞻、最精於理化及動植物之学」の詩を贈られている[19]。宮城中学校では学校改革を起こそうとするも騒擾を起こし失敗[24]、1882年(明治15年)、東京に戻る[1]。 東京に戻った後、3月に愛媛県師範学校に桧垣直右からの要請で赴任[1]。この直前に西村茂樹 、伊沢修二の推薦で文部省から博物学教科書編纂の委嘱を受けた[1][25]。後に桧垣の石川県学務課長への転任を受けて1883年(明治16年)、愛媛県師範学校校長に昇任[1]。1884年(明治17年)4月、西村茂樹の推薦によって文部省御用掛編輯局勤務になる[1][26]。当初編輯局にはおよそ70人が勤務していたが、1885年(明治18年)になると経費削減で10名程度に減員され、編輯局任としてとどまったのは山縣、佐藤誠実、今泉雄作、湯本武比古の4人になる[1]。また、甲申事変以降は朝鮮留学生の学費援助に携わるようになる[27]。1885年(明治18年)、嘉納治五郎の推薦で学習院の講師として鉱物学と地質学を教授する[28]。同時期に学習院の講師であった大槻文彦の『言海』における博物学の知識は山縣から得たものである[29]。同年には通信大学の広告をきっかけにして辻敬之に提案したことで通信講学会が設立される[30]。これは全国初の試みであるとして評判を呼び、大日本教育会評議員として全国各地を回った[29]。 1886年(明治19年)、教科用図書検定条例の発布に伴い教科書検定に従事、その後米国留学運動の失敗、及び自身の望んでいたヨーロッパ留学が当局からの許可を得られなかったことが起因して文部省、及び学習院講師を辞職した[31][1][29]。
雑誌創刊と教科書編集
1886年(明治19年)10月、愛媛県師範学校時代の経験を基に『教授之得失』を出版。12月にはアラベラ・バックレーの"The fairy-land of science"より[32]『理科仙郷』第1巻、第2巻を翻訳、出版する[33]。『理科仙郷』は端麗な文章と奇異な内容によって山縣の名声を高めさせ、当時としては破格のベストセラーとなった[34][35]。これを機に山縣は仙郷学人と号するようになる[34]。 1887年(明治20年)7月、集英堂の出資で学海指針社を設立し、学術雑誌『学海之指針』を創刊する[36]。 1888年(明治21年)、『小学校用日本歴史』を学海指針社から出版。『国民之友』や大日本教育会初等部門会などで優等の評価を与えられる[37]。少年教育に適切な雑誌がないことを憂いた山縣は、11月3日の天長節に高橋太華、中川重麗らと共に『少年園』を創刊[38]。この際発行人は父親の山縣順の名義であった[39]。1889年(明治22年)には学海指針社を辞職する[40]。4月20日に戸城伝七郎の『東京教育新報』を買収して『教育週報』を発行する[41]。8月には少年園より『少年文庫』第1集を発行[42]。これは『少年園』の投稿欄を独立させたもので、1895年(明治28年)に『文庫』と改題された[43]。1890年(明治23年)に第三回内国勧業博覧会審査員を拝命[44]。3月には『こども』を創刊、地方青年に向けた『東京遊学案内』も創刊した[44]。 1891年(明治24年)、文学社の委嘱で『帝国小史』、『小学国文読本』の編纂、及び文学社編輯所長になる[45]。6月25日、雑誌『高等小学』を発行[45]。同年、木戸孝正の邸宅を借り入れて少年園の事務所及び上京した学生の無料宿泊所として整備した[45]。1892年(明治25年)、『帝国小史』は刊行され、山縣は自伝で「非常に好評を得て大いに世に行われた」と回顧している[46]。また、文部大臣河野敏鎌に修身書と読本を国定にする提言を行う[47]。1894年(明治27年)8月からは米国に1カ月間外遊を行い、東部視察中に父の病を理由にして帰国[46]。 1895年(明治28年)、文学社編輯所長を辞職するとともに、教科書編纂からも一線を退くことになった[48]。また少年園営業部の後身で、出版・販売事業を行っていた内外出版協会の事務所を本郷区駒込西片町から神田区南甲賀町に移転し、事業拡大を図った[48]。同年4月、『少年園』が廃刊となる。内務省から学術雑誌の許可を取り消されたこと[46]や、政府への批判、岩崎弥之助、渋沢栄一を批判したことも一因とされる[49][50][注釈 4]。
東京独立雑誌創刊
1896年(明治29年)、トラベリング・ライブラリーを元に山縣貸出図書館を開設し、会社の法人としての設立を図るものの失敗し程なくして閉鎖する[51]。9月25日、雑誌『小文庫』を創刊。1897年(明治30年)、相馬永胤、杉浦重剛ら近江出身者らとともに郷友会を設立[52]。1898年(明治31年)、内村鑑三を主筆として『東京独立雑誌』を創刊。12月に発行権などを内村に譲渡する。山縣はこの際五十雄より内村鑑三の窮状を聞いて同情したことから毎月金銭を内村に贈与していた[53]。1899年(明治32年)、『教師之友』を創刊。同年にはフィリピン独立革命に際して、マリアノ・ポンセからの要請に応え、フィリピン独立を支援している[54][27]。この際、山縣は近衛篤麿を会長、戸水寛人と自身を委員とする東洋青年会を結成、一種の社交会であったものの、社会主義者の参画によって警察からの監視を受けることとなった[55]。1901年(明治34年)には黒岩周六の理想団に参加。この際弟の五十雄も参加していた[56]。社会運動に関わる中で、堺利彦や山田美妙などとも交流を行い、内外出版協会から堺の『家庭の新風味』、山田の『言文一致文例』を刊行している[57]。1902年(明治35年)には広井辰太郎の動物虐待防止会に参加、機関雑誌の『あはれみ』を創刊[58]。1903年(明治36年)、羽仁もと子を編集に『家庭之友』を創刊[59]。『家庭之友』の規模が漸次大きくなるとともに羽仁は山縣との関係を絶って『婦人之友』を創刊した[60]。 1910年(明治43年)10月15日、『青年之友』を創刊[61]。1913年(大正2年)、茅原華山と共に『第三帝国』を創刊[62]。1914年(大正3年)、内外出版協会が破綻し消滅[63]。同年、植村正久より受洗[64]。
晩年
1916年(大正5年)、五十雄の紹介によって朝鮮に渡る。開城の好寿敦女塾に赴任[65]。開城に2年間滞在し、その後京城の延禧専門学校に講師として赴任する[66]。またこの時期朝鮮総督府が編纂した世界歴史教科書の校訂を依頼されている[67]。1921年(大正10年)、総督府の教科書調査会委員になる[68]。1924年(大正13年)、梨花女子専門学校の教授に就任[69]。1925年(大正14年)、朝鮮動物虐待防止協会を設立[70]。 1929年(昭和4年)、老齢により専門学校教授を辞職して東京に戻り[71]、1940年(昭和15年)1月18日午後3時、東京市芝区白金台1-45の自宅にて腎臓病のため死去[72][73]。享年満83歳(81歳)。麴町区富士見町の日本基督教会館で執り行われた葬儀には河井酔茗、小島烏水が参列した[74][73]。没後、武夫によって遺稿『児孫の為めに余の生涯を語る』が清書ののち、出版された[3]。
思想
家族
祖父・正陽(生年不明 – 元治元年8月3日〈1864年9月3日〉[78])
彦五郎と通称し、14歳にして江戸で勤番を務めていた。山縣の物心が付いたころには既に離れ屋で隠居し、脳溢血で介護を受けている状態であった[79]。
父・順(文政元年〈1818年〉- 明治26年〈1893年〉11月21日)
水口藩士。中村栗園に学ぶ。買蓑老人、小范子と号し[80]、藩では御金奉行、御倉奉行、御勘定奉行を務めていた[5]。明治初年には藩庁の少属に任命されるも、1872年(明治5年)、藩債の金額虚偽の嫌疑を掛けられ県庁に召喚される事態に到った[81]。翌年に無罪判決が下る[15]。1878年(明治11年)に滋賀県庁に就職し判任官に昇進[82]。後年には正雄の独逸語学校の事務を補助する[33]。1893年(明治26年)11月21日、病死[83]。 遺稿に『老のくりこと』[84]。
母・徳(生年不明 – 明治39年〈1906年〉12月29日)
膳所藩士で御殿医の平田太中の娘であり、原田好とは異母兄であった[85]。仏教を篤く信じており、晩年は肝臓癌で山縣眼科病院から提供された別室で安静にしていた[85]。
叔父・原田好
母方の叔父にあたり、膳所藩士であった[4]。通称会輔、号は磧水。平田家から原田家に嗣ぎ、黒田麴盧に師事[86]。藩の茶の輸出のために横浜で貿易業に従事していたため、山縣は原田を「海外情勢に詳らかであった」と回顧している[87]。京都府庁の少属として勤務し、明治4年には徳に対して京都での職の斡旋ができると悌三郎の京都入りを誘っている[88]。同年には鉄道寮に就職し権中属となり、西京出張所の勤務を命令された[89]。京都在住当初は上京区に在住したのち、出張所への転任後は下京区に移住、その際には下僕を解雇し養母、妻、息子3人を招き入れている[89]。山縣は後年この際家族同様に扱って貰えたことや、原田が佐藤政養のもとでの勤務に満足していたことを回顧している[89]。 後年は平田に改姓し奈良で郡長[36]、大阪府衛生課長を務めた[83]。
長兄・昇太郎
次兄・虎五郎(生年不明 – 慶応4年1月10日〈1868年2月3日〉)
漢学者、儒学者であり授読であった。山縣は自著にて「羸弱の質であったものの、勉学に励み気概に溢れ、常に国家を憂いていた人物」と回想している[91]。翼輪堂の中村栗堂は虎五郎を深く愛し、父親に頼んで中村確堂の養子とした。腸閉塞、もしくは腸結核に罹り、幕府の御殿医の戸塚文海、京都の医者であった新宮涼民に診断を頼み、治療に専念するも没した[91]。
長弟・正雄(文久3年12月15日〈1864年1月23日〉 – 昭和34年〈1959年〉)
医学者。幼名は四郎吉。8歳で翼輪堂に入校し[5]、中村確堂の義子であった中村和光が校長を務めていた水口の知周小学校に学び、成績優秀として籠手田安定の給仕に選ばれていた[92]。山縣が東京師範学校に入学した年の夏に上京、兄に代わり中村確堂方に寄宿し東京師範学校附属小学校に入学した[92]。1886年(明治19年)には東京大学医学部入学生を養成する独逸語学校を創設する[33]。1890年(明治23年)には帝国大学医科大学を卒業し、内科助手となる[93]。その後、大学院にて眼科を研修[93]。1893年(明治26年)には大阪市東区北浜に山縣眼科病院を開業し、市内各所に分院を設置した[83][94]。1901年(明治34年)には大阪医学会の幹事に選出される[94]。 1923年(大正12年)から数年に渡って医療過誤訴訟を起こされたことが新聞や学会で反響を呼んだものの、後年和解でおさまっている[94]。 羽原熊次郎は「眼科医中の富豪は有沢潤、実業家は山縣である」と評している[94]。 大阪大空襲によって病院を焼失し、兵庫県篠山町に疎開[94]。 息子の春雄は果樹園を経営し、孫の康哉は大阪医科大学を卒業後、西宮市上甲子園1丁目で山縣眼科医院を再建した[95]。 著書に『満血療法及其治験100例 : リヨーマチスに対する新療法』がある。
末弟・五十雄(明治2年3月16日〈1869年4月27日〉 – 昭和34年〈1959年〉3月15日)
英文学者、ジャーナリスト[96]。大津の小学校を卒業したのち、山縣の愛媛県師範学校在職の折に愛媛に向かう[97]。第一高等中学校を卒業し、帝国大学文科大学英文学科に入学するも講義を履修することなく除名になった後、万朝報社に入社、社長兼主筆になる[98]。1959年(昭和34年)3月15日、代々木の自宅で死去[99]。長女のユリは杉村欣次郎の妻[100]。
妻・操子(文久3年〈1863年〉- 大正3年〈1914年〉3月12日)
旧姓松原。尾張藩士で埼玉県三等属であった松原栄隆と鶴の次女として生まれる[23]。家塾で知り合ったことを機縁にして結婚した[23]。晩年は肋膜炎と慢性腸カタルに罹患し死去[101]。
長男・文夫(明治15年〈1882年〉3月4日 – 明治44年〈1911年〉5月22日)
浦和松原で生まれる[102]。山縣が動物虐待防止会に参加した際には少年動物愛護会を起こしている[56]。1907年(明治40年)、東京女子学院の遠藤雪子と婚約[103]。1909年(明治42年)に腎臓結核に罹患、1910年(明治43年)に植村正久から洗礼を受ける[104]。1911年(明治44年)5月22日死去。30歳没[105]。
次男・武夫(明治17年〈1884年〉2月26日 – 没年不明)
1908年(明治41年)、海軍大佐矢代由徳の長女安喜子と結婚[103]。1909年(明治42年)、山縣家から分家、悠紀夫、誠、永、実の4男を儲けた[106]。1915年(大正4年)、海軍少佐に任命[107]。山縣の死去時点では宮内省式部次長であり[74]、高松宮宣仁親王の欧州訪問にも同行した[106]。
評価
- 荻野富士夫は山縣を「紛れのない『明治人』であり『近代主義者』である」と評価している[108]。また、荻野は日清戦争前後から山縣の言動が教育に関するものから社会活動に関するものに移っていることに関し、既存の明治国家体制への違和感の現れであると指摘している[49]。山縣の自伝については、自伝として珍しい編年体を採用しながら、前半生については細かく後半生が簡略であること[109]を「山縣自身の社会的活動の様相をある程度反映している」とするとともに「『唯覚束なき記憶』のみに依拠して叙述したとするが、その記憶は驚嘆すべき鮮明さで復元される」と評している[109]。
- 大庭柯公は山縣の性格を「鑑三の冷酷にして自我的たる悌三郎頗る相似て稍その寛なるもの」と評している[110]。
- 河井酔茗は少年園の内容を垢ぬけて正確なものと評した他、寄稿した坪内逍遥、森鷗外、幸田露伴らを友人として交際していたと回顧している[111]。
編纂した教科書
以下は木全(2022)に則って記載する。
帝国小史
- 集英堂『小学校用日本歴史』上・中・下(1888年7月)
- 『帝国小史』甲号1・2(1892年6月、8月)
- 『帝国小史』乙号1・2(1893年12月)
- 『帝国小史』刪定乙号1・2(1894年6月)
- 『帝国小史』第三学年用(1894年)
- 『帝国小史補』甲・乙号(1895年)
- 『増補帝国小史』甲号1・2(1896年)
- 『増補帝国小史』刪定乙号1・2(1896年)
- 『新撰帝国小史』1・2学年用、1・2(1896年)
- 『新撰帝国小史』3・4学年用、1・2(1897年)
- 『修正新撰帝国小史』1・2・3・4(1901年)
- 『修正新撰帝国小史』2年課程学校用、1・2(1901年)
ほか
(特記なき限り文学社からの出版)
- 『高等読本』1-8(1893年)
- 『小学国文読本』1-8(1893年)
- 『補習読本』前編1・2、後編1・2(1893年)
著書
単著
- 『教育叢書 教授之得失』 普及舎、1886年。
- 『男女淘汰論』 普及舎、1887年。
- 『教育学』 文学社、1892年。
- 『小学国文読本批評』 文学社、1894年。
- 『児孫の為めに余の生涯を語る:山縣悌三郎自伝』 弘隆社、1987年(死後出版)。
翻訳
- 『理科仙郷』1-10、バックレー著、普及舎、1886-1887年。
- 『進化要論』 ヘッケル著、普及舎、1887年。
- 『理科通志』1-6、バックレー著、普及舎、1888-1889年。
- 『教育叢書 ペスタロッチ氏ノ主義及ビ応用』 ジョセフ・ペーン著、普及舎、1887年。
- 『教育叢書 教育哲学史』 ベンネット著、普及舎、1887年。
- 『教育叢書 フレーブェル氏小伝及幼稚園』 ジョセフ・ペーン著、普及舎、1887年。
- 『学校家庭 遊戯全書』 霞城山人、太華山人合訳、少年園出版部、1889年。
- 『リンコンの人物及び其の事業』 ジョーセフ・エッチ・チョート著、内外出版協会、1907年。
- 『自助論』 サミュエル・スマイルズ著、内外出版協会、1912年。