帝国大辞典
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斎藤精輔によれば、辞典刊行の起こりは、漢和辞典編纂の計画があった三省堂において、斎藤が漢和辞典を出す以上は国語辞典も編纂すべきとの提案を、三省堂主人亀井忠一に提案したことから始まったとされる[1]。提案を受け亀井は、当時山田美妙が編纂し1892年(明治25年)に発刊された『日本大辞書』の版権を所有していた明法堂から版権を買い取った[1]。境田稔信によれば、実際にこの時買い取ったものは、『日本大辞書』の改訂原稿であったとされる[2]。
辞典編纂の監督は斎藤精輔が行った[1]。辞典に収録された日本語文法の説明をした「語法摘要」は杉敏介が執筆した[3]。その他に本居豊穎・黒川真頼による序文、西園寺公望による題字「詞源万解」が付けられた[4]。校閲に藤井乙男・草野清民が参加し、名前が掲げられている[3][5]。
内容
1896年(明治26年)10月刊[6]。菊判、1440頁[6][注釈 1]。
辞書冒頭の例言に、「就中山田氏の辞書をば(該書版権所有者明法堂鈴木敬親氏の承諾を得て)参照したる所尠なからず」とあるように、『日本大辞書』の影響を強く受けているとされる[4][8]。河瀬真弥によれば、語釈に付された用例において、出典や引用範囲が『日本大辞書』と共通している[9]。
前身となった『日本大辞書』は、大槻文彦が編纂した日本初の近代的国語辞典『言海』をライバル視して誕生し、辞典の特徴として掲載語に「音調」(アクセント)を付したことや、語釈を口語体で書いたことなどが挙げられる[4]。しかし、『帝国大辞典』では、『日本大辞書』ではカナ口語文で書かれた語釈をひらがな文語文に改め[4]、アクセントの表記も取り除いた[10]。辞典内にある山田美妙による語句の補説なども削除された[10]。また、『日本大辞書』には収録されていない語句を、別の国語辞典から引っ張ってきたことも指摘されている[11]。三省堂の社史によれば、『帝国大辞典』は『言海』とは異なる編纂方針がとられ、「雅言・俗語、すべてにわたって語彙を豊富にし、学術語を取り入れ、説明を平易明解に、挿図を多数掲げ、実用向きにするように期した」としている[12]。
また、同辞典は『日本大辞書』の不体裁な組版を整え、文字の大きさをオール8ポイントにした[10]。一方で、辞典の収録語全体の構成は、サ行までで全体の70%を占めた『日本大辞書』の影響が残り、収録語が首部に偏重していたとされる[13]。
影響・評価
小林一博によれば、『帝国大辞典』は1907年(明治40年)までにかなりの版数を重ねたとされる[14]。山田忠雄は、1906年までに9版まで出されたとする[7]。山田によれば、『帝国大辞典』は造本・活版も良く、『日本大辞書』の不体裁や「泥臭さ」が改められたことが、読者に受け入れられ版を重ねた要因だと指摘している[7]。また、「その内容は後来三省堂の国語辞書群を叢出せしめ、その体例は長く以降の国語辞書に踏襲された」と述べている[7]。一方で、前身となった山田美妙の『日本大辞書』は、その特徴や辞書史上の貢献を『帝国大辞典』に削除、または奪われる形となった[7]。
三省堂は『帝国大辞典』の刊行後、同辞典を訂正、内容の取捨整理をした「帝国小辞典」の刊行も計画した[14]。これは実際には『日本新辞林』として1897年10月に刊行された[14]。同書は『帝国大辞典』よりも実用的とされ、語彙や内容も豊富になったとされる[11][14]。