平野町 (名古屋市)
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歴史
いにしえより押切村に属す[3]。かつて村内に3人の穢多が住んでいたが、慶長、元和の頃に清洲より3人、小幡村より1人移住し、その後戸口が増えた[5]。穢多ヶ小路、穢多輪中、細工人町の名称をもつ[5]。屠児の首領を平野小市といい、家の棟に御太鼓所と書いた看板をかかげた[3]。明治初年、平野鉄五郎は零落し、一家を挙げて京都に移住した[6]。
平野町について、1927年に刊行された日本大学教授井上貞蔵の著書『一経済学徒の断草』によれば、
此所は名古屋城の西、枇杷島に近い方だ。平野町と南押切、上十二島の一部から成ってをる。四一五戸、一六五〇人、女の方が稍多く八五〇人を占めてゐる。少数同胞部落丈に一寸異ってをる。風習として団結心が強く、祭礼やおひまちや盆踊に騒ぐ、掠奪婚に近い早婚の風があり、以前では賭博が盛んで、犬殺しを何とも思わなかった。宗教は全部真宗高田派で、副食物を盛んに食う。現に私の見て歩ゐている時、数名の饂飩屋が瞬く間に、売切って又取りに行く所だった。トラホーム患者が多い。非衛生的だ。職業としては下駄歯入、靴製造、雪駄造、洋傘直し、製皮職、竹の皮、草履作り、鼻緒職、肉に関する仕事等である。平家の落人で織田氏に仕えて太鼓武具の御用を仰せつかった者の子孫だというが、保証の限りでない。 — 『一経済学徒の断草』[7]
町名の由来
当地に住んだ平野小市に由来する[1]。