御府内沿革図書
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文化4年(1807年)、普請奉行小長谷政良、岩瀬氏紀が老中牧野忠精に府内の道路、橋梁、河梁、空閑地、馬場その他の沿革の調査を命じられたことに始まる[1]。事業は文化5年(1808年)に開始したが、文化7年(1810年)第7集までで中断し、文化8年(1811年)12月倹約令のため中止となった[1]。しかし天保元年(1830)12月、老中水野忠成の命により再開し、安政5年(1858年)全22集が完了し、浄書本2部が完成した[1]。万延元年(1860年)8月21日、普請奉行松平上野介、中村石見守が1部を紅葉山文庫に納めたが、現存していない[1]。
文久元年(1861年)再調査が開始し、変化があった地域には文久2年(1862年)の図が付け加えられている他、隅田川以東の調査も着手されたが、東京都公文書館に本所方面3冊が残るのみである[1]。文久2年(1862年)には普請奉行が作事奉行に統合されているため、この際に事業も中断し、そのまま明治を迎えたものと見られる[2]。
特徴
幕府による大掛かりな調査の下、当時一般向けの切絵図で省略されている微細な町丁の境界まで漏らさず記入されており、江戸の土地利用の変遷を知る上では絶好の史料である。しかし、測量面での正確性は江戸前期の実測図に及ばず、各図をそのまま繋げると齟齬が生じる[3]。また、明暦期の古川一ノ橋付近の流路は同時代の『明暦実測図』と全く異なっているなど、時代を経た地形の変化には必ずしも対応しておらず、編纂時から隔たった時代について参照するには問題もある[3]。同職の下級武士が集住する所謂大縄地では、軍事上の理由から各屋敷が図示されていないため、実際にどの武士がどの屋敷に住んでいたか知るには当時の切絵図を参照する必要がある[3]。
寺社地は赤色、道路は黄色、空き地は蒲色、堀・川は青色、土手は草色、町屋は薄墨色で塗り分けられている[4]。