恵那文楽
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歴史
元禄年間(1688〜1704年)淡路島の傀儡師が美濃国へ巡業に来た折に人形浄瑠璃を演じ、川上(かおれ)地区の人々に伝授したのがこの地の人に伝授したのが始まりと伝えられているが確証は無い。
文献に書かれた記録に乏しく、1793年(寛政5年)の「宮地日記」に「川上ニ操有之」と書かれているのが、史料における初出である。
その後の経過については、三宅武夫の「川上文楽頭考」には、宝暦年間(1751年〜1764年)に、川上集落の名主の市岡銀蔵により基礎を樹立、
ついで天明年間(1781年〜1789年)に、中村伝十郎が人形の操り方を伝授し、原又四郎の弟の権三が「三番」の頭を入手、さらに寛政年間(1789~1801年)に安藤勝蔵が操りの技法を修得して、同志の指導に当たったと記してある。
さらに、大井金蔵が尾太夫について修業し、原秋蔵が大坂から太夫を招いて三味線を修得するなど、中山道中津川宿の「操り人形」として近郊にもてはやされた。
幕末に黄金期を迎えた恵那文楽は、明治時代に入り歌舞伎芝居がもてはやされ影が薄くなった。しかし、1902年(明治35年)、小木曽滝蔵・今井源二郎・佐藤友二郎らが、大坂文楽の名人を招いてその技を伝授されて命脈を保ち、大正の頃には青年団の関心が高まった。
昭和時代となり、中川とも・義太夫の鈴木迂一・三味線の芸者の、かよの3人により、大いに盛んとなった。
江戸時代末期から明治時代初期にかけては、人形遣いはむろん太夫、三味線弾きも地元にいて、多くの芸題を上演するほどの隆盛をきわめたが、明治後期から大正初期にかけて一時衰退した。その後、古老の指導と好事家の支援により、衣裳なども新調、修復して1921年(大正10年)に復興した。
1958年(昭和33年)に「首」23点が、岐阜県重要有形民俗文化財に指定されたのを機に、「川上人形浄瑠璃研究会」から「恵那文楽保存会」に改名した。
「寿式三番叟」の他、多くの芸題物を上演していたが、人員の減少から、1975年(昭和50年)頃には「三番叟」しか上演出来なくなった。その後、人員の増大をはかり、過去の芸題を復活する努力を重ね、現在では10芸題が上演出来るまでになっている。