杉本正 (野球)

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国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1959-05-03) 1959年5月3日(66歳)
身長
体重
172 cm
80 kg
杉本 正
福岡トヨタ硬式野球クラブFTサンダース 投手コーチ
西武ライオンズのコーチ時代(2012年)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 静岡県駿東郡小山町中島[1]
生年月日 (1959-05-03) 1959年5月3日(66歳)
身長
体重
172 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1980年 ドラフト3位
初出場 1981年4月7日
最終出場 1992年10月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

杉本 正(すぎもと ただし、1959年5月3日 - )は、静岡県駿東郡小山町出身の元プロ野球選手投手)・コーチ解説者評論家

実娘はアイドルグループ・LinQの元1期メンバーで、現マネージャーの杉本ゆさ[2]

プロ入り前

小学6年時に野球を始め、中学3年時に一塁手から投手へ転向した[1]

御殿場西高校では甲子園こそ出場できなかったが、県内有数の左腕として知られ、1977年夏の甲子園県予選3回戦で袋井高を相手にノーヒットノーランを記録。

高校卒業後は地元の大昭和製紙へ入社し、1979年都市対抗では、後にプロで同僚となる大石友好河合楽器から補強)とバッテリーを組み、1回戦の引き分け再試合で日本通運を完封。準々決勝でも先発し、日産自動車名取和彦と投げ合うが惜敗[3]。同年の第4回インターコンチネンタルカップ日本代表に選出され、日本の準優勝に貢献した。

1980年都市対抗では準々決勝で日本鋼管を完封、準決勝に進出し兄弟チームの大昭和製紙北海道との対戦を実現する。この試合では日本代表のエース竹本由紀夫新日本製鐵室蘭から補強)と投げ合い3-2で競り勝つと、決勝でも札幌トヨペットに大勝[3]、この大会で4勝を挙げチームの優勝に貢献し、最優秀選手の橋戸賞を受賞している[1]。この時のチームメートに上川誠二佐々木正行らがいた。

同年のドラフト会議西武ライオンズから3位指名を受け[1]、12月13日に契約金4000万円・年俸360万円(金額は推定)という条件で入団した[4]。背番号は20[5]

西武時代

1年目の1981年は4月7日の日本ハムファイターズ戦(後楽園球場)でプロ初登板し、初勝利を完封で飾る[6][7]と、以降は先発ローテーションの一角として活躍。5月29日の対日本ハム戦(後楽園球場)では3点リードで迎えた9回裏からの救援登板で1回無失点でプロ初セーブを記録した[8][9]。8月22日の南海ホークス戦(上越高田)では4回1/3で降板したものの試合が6回で降雨コールドとなり西武が勝利し、公認野球規則10.17b項(勝利投手の規定)の適用外となり5回を投げ切らないままで勝利投手となった[10]。同年7月31日の南海戦では門田博光に当時の月間最多本塁打記録となる同月16本目の満塁本塁打を打たれた。

2年目の1982年にはオールスター前に全パの監督大沢啓二に懇願し、監督推薦でオールスターゲーム初出場を果たす[11]中日ドラゴンズとの日本シリーズでは、第2戦と第5戦に先発するが、いずれも途中降板し勝敗はつかなかった。

1983年は3年目にしてシーズン12勝を挙げ、読売ジャイアンツとの日本シリーズでも第3戦と第6戦に先発するなどの活躍が認められ、寮を出て姉と2人暮らしを始めた[12]

中日時代

1985年キャンプイン直前に田尾安志との交換トレードで大石と共に中日ドラゴンズに移籍[13][14]

移籍初年度はなかなか勝てず、初勝利は4試合目となる5月3日の横浜大洋ホエールズ戦(ナゴヤ球場)であった[15]オールスター前の最後の試合となる7月18日のヤクルトスワローズ戦(ナゴヤ球場)で130球以上を投げ、2-1で完投勝利[15]。そのままオールスター休みとなり、翌日には平野謙の実家がある愛知県岩倉市に何人かで食事に行った際に平野から「お、救世主」と冷やかされる。杉本はなぜかカチンと来て帰ると何も持たずに店を飛び出したが、皆に引き留められた事を機に平野と仲良くなり、同年は5勝に終わったがチームにはすぐに溶け込んだ[15]

1986年にはチーム最多の12勝を挙げるも13敗を喫し、8月7日の巨人戦(後楽園球場)で両者無得点で迎えた9回裏一死の場面で中畑清の場面で捕手の大石が出したサインはカーブであったが、打ってこないだろうとストライクを取りに行きスローカーブを投げたところサヨナラ本塁打を打たれる。中畑には1983年の日本シリーズ第6戦でも打たれており、相性の良くない打者に安易な入り方、指導者になってから「絶対にそんな球を投げるな」と教訓にしている[15]。7月26日の広島東洋カープ戦(ナゴヤ球場)では山本浩二から通算500本塁打目[16]、9月11日の広島戦(広島市民球場)では2-2の同点で迎えた延長11回無死無走者の打席で、山本から球団最年長記録でもある39歳10か月[17]サヨナラ本塁打を打たれる[18]

1987年にはオープン戦で好調であったこともあり、新監督の星野仙一に開幕投手に指名され、巨人戦(後楽園)に先発する[15]。杉本自身は小松辰雄が開幕投手だと思っていたが[15]吉村禎章駒田徳広に本塁打を打たれ、打線も西本聖に完封され、敗戦投手となった[15]。4月26日の対大洋戦(横浜スタジアム)で6回途中まで投げ、2失点でシーズン初勝利を挙げた[19]。5月に入ると2日の対広島戦(広島市民球場)で9回1失点でシーズン初完投勝利[20]。8日の対阪神タイガース戦(阪神甲子園球場[21]、30日の対広島戦(ナゴヤ球場)で計2度の完封勝利を挙げる[22]など、5試合に登板し、5勝0敗、月間防御率0.66の成績で自身初の月間MVPを受賞した[23]。最終的に13勝を挙げた[15]。同年は父を亡くし結婚した年でもあり[15]オールスターにも出場したが、石毛宏典に3点本塁打を打たれ敗戦投手となっている[24]

1988年は優勝したが故障に苦しみ6勝6敗止まり[15]、優勝決定試合の10月7日のヤクルト戦(ナゴヤ球場)では5イニング無失点で勝ち投手[15]。西武との日本シリーズでは古巣相手に第4戦で先発するが4回途中3失点で敗戦投手となった。杉本は日本シリーズに先発で5回登板して成績は0勝1敗に終わり、5回以上先発して一度も勝ち投手になれなかったのは高橋直樹北別府学に次いで3人目となっている。

1989年は肘の故障もあり3勝4敗に終わる。同年8月14日の広島戦では高橋慶彦からサヨナラ本塁打を打たれている。10月15日の広島戦(広島市民球場)では山﨑武司とバッテリーを組むが、5回に正田耕三に二盗、三盗決められ、焦った杉本は暴投で正田に生還された[25]

1990年には故障癖もあって登板機会が減っていったが、後に中日にいた5年間が一番楽しかったと振り返っている[15]

ダイエー時代

1990年途中に山内和宏との交換トレードで高島覚と共に西武時代の先輩田淵幸一が監督を務める福岡ダイエーホークスへ移籍[1]

移籍後3年程は先発・リリーフとして一定の登板機会があったが、一軍登板無しに終わった1993年オフに戦力外通告を受け、同年限りで現役を引退[1]

引退後

引退後はRKB毎日放送解説者(1994年)を経て、ダイエーの二軍監督有本義明の招聘で1995年から2軍投手コーチに就任し1997年まで務めた[26]

1998年からは西武時代の同僚であった監督の東尾修に呼ばれ[27]、前年優勝した西武一軍投手コーチに就任。杉本がダイエーの2軍コーチになる1週間後に東尾の西武監督が決まり東尾から「1週間早かったらお前を呼んだのに」と言われるなど毎年のようにコーチの要請を打診されていた[26]。前年の西武は一軍投手コーチが森繁和だけであったが、1998年からは森・杉本の二人体制になり、試合中はブルペン担当だったがベンチ担当に。開幕10試合で2勝8敗と低迷[28]、前年はチーム防御率2位の3.63であったが、6月15日の時点でチーム防御率4.26と低迷しシーズン途中、投手陣の低迷の責任を取らされて森が二軍へ配置転換となり、加藤初が一軍に昇格した[29]故意のボーク疑惑では芝﨑和広にボークでも構わないと指示した[30]。1998年はチームは巻き返しリーグ優勝を果たすが[26](コーチ時代唯一の優勝)、横浜との日本シリーズでは第5戦の7回途中から5点ビハインドの場面で新谷博が登板したが、8回に3点、さらに9回に7点を失った、杉本は「先発も早々に降板しており、他の投手への負担を避けるため仕方なかった」[31]と述べているが、森祇晶からは日本シリーズにふさわしい采配と言えるか疑問を投げかけられて[32]、守備走塁コーチの伊原春樹は「さらし者にような形で投げ続けた新谷は見ていて本当にかわいそうだった。試合後、新谷は意気消沈。他に投手がいたのに、なぜ、代えなかったのか。」[33]と述べている。日本シリーズは横浜に2勝4敗に敗れた。1999年に入団した松坂大輔を加藤と共に指導したが杉本の後に投手コーチに就任した松沼博久は松坂について「特別な存在なだけ厄介でした。ちょっと厳しい練習をすると足の張りなどを訴えます。前の首脳陣が松坂に対して甘かったのでは。」[26][34]と述べている。2001年東尾退団に伴いコーチを退任、2002年から2003年まで西武編成担当を務めた[35]

2004年、ダイエー2軍監督の森脇浩司(ダイエー時代の同僚)の声掛けで[35]同球団の二軍投手コーチに就任、2006年から2008年まで一軍投手コーチを務めたが、2008年は特に故障者が多く投手陣が低迷。チーム防御率4.05(2004年以来の防御率4点台)、被本塁打128、失点641、自責点583はリーグ5位、四球420はリーグ4位と投手陣の成績悪化が12年ぶりの最下位の一因となり、この年限りで解任された。救援防御率も4.42と低迷し12球団最下位であり、当時東北楽天ゴールデンイーグルス野村克也監督は「杉本がマウンドに行くとホークスの投手はよくストレートを投げるからそれを狙えと指示している。彼はダメコーチ」と杉本を酷評していた[36]。また、2007年5月31日、巨人との交流戦で矢野謙次に代打逆転満塁本塁打を打たれた際、評論家の豊田泰光に「稚拙な継投」、「投手の起用法も酷いし、指導力があるとは思えない」と酷評された[37]。後に、所属した全ての球団で投手成績を悪化させたことから「デス杉本」などと揶揄されるようになってしまった。

2009年からは大昭和製紙の先輩村上忠則がチーム運営部門統括を務める[35]横浜ベイスターズ一軍投手コーチに就任したが、前年同様セ・リーグ唯一の4点台にチーム防御率が低迷し[38]、被安打1326・被本塁打164・失点685・自責点612もリーグ最下位と振るわず1年で解任された。

2010年からは知人の紹介で[35]前年優勝した韓国プロ野球起亜タイガース一軍投手コーチに就任したが[39]、チーム防御率は3.92から4.39と低迷し7月23日付で二軍投手コーチに降格となり、チームも6位と低迷、またも1年で解任された。

帰国後は2011年は元西武スカウトの編成部長楠城徹、中日時代の監督の星野の縁で[35]楽天編部成スカウト、2012年より、編成部長鈴木葉留彦の誘いで[35]西武の一軍投手コーチとして復帰[40]。同年はチーム防御率5位と低迷し[41]2013年は救援防御率リーグ最下位、勝負所の8月に投手陣が防御率5.23と崩れ[42]、リーグワーストの被本塁打数を記録している[43]2014年より二軍投手コーチに配置転換され[44]、同年10月2日に来季の契約をしないことを通知された[45]

西武退団後は文化放送解説者・スポーツニッポン評論家(2015年 - 2016年[46]を経て、2017年からは星野の側近の早川実福田功が推薦で[35]楽天一軍・二軍巡回投手コーチに就任するが、一軍が最下位に低迷した2018年、10月5日に来季の契約をしないことを通知された[47]

2019年からはスポーツニッポン評論家に復帰し、2020年は11月26日放送の宮崎フェニックスリーグ中継にて、スポーツライブ+のゲスト解説者として出演した。

2025年春、GM森脇の招きで福岡トヨタ硬式野球クラブFTサンダース投手コーチに就任した[15]。名誉監督は東尾が務めている[35]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1981 西武 3621710782--.467621145.1138165712612166563.471.34
1982 26226407120--.368560132.213065112601059543.661.36
1983 26224211260--.667571136.1133163920440056523.431.26
1984 2222531780--.467527124.2136123330570054533.831.36
1985 中日 2315400540--.55642698.2105143245601049474.291.39
1986 3125103212130--.480733182.21631644401062070613.011.13
1987 28285201390--.591698158.0180234586854083764.331.42
1988 2321111660--.500501118.2119133611920056523.941.31
1989 237000340--.42922549.26042411222027223.991.69
1990 ダイエー 1613310370--.30035978.110692932470047434.941.72
1991 1513100380--.27335282.288131902411046394.251.29
1992 297211350--.37527862.08161511290037344.941.55
通算:12年 2982164818681902--.47458511369.2143914842429227041316505893.871.36
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

記録

初記録
  • 初登板・初先発登板・初勝利・初先発勝利・初完投勝利・初完封勝利:1981年4月7日、対日本ハムファイターズ1回戦(後楽園球場[6][7]
  • 初セーブ:1981年5月29日、対日本ハムファイターズ10回戦(後楽園球場)、9回裏に4番手で救援登板・完了、1回無失点[8][9]
その他の記録

背番号

  • 20 (1981年 - 1984年)
  • 14 (1985年 - 1986年)
  • 21 (1987年 - 1990年途中)
  • 28 (1990年途中 - 1991年)
  • 31 (1992年 - 1993年)
  • 76 (1995年 - 1997年)
  • 70 (1998年 - 2001年)
  • 71 (2004年 - 2005年)
  • 85 (2006年 - 2008年)
  • 77 (2009年)
  • 78 (2010年)
  • 88 (2012年 - 2014年)
  • 73 (2017年 - 2018年)

脚注

関連項目

外部リンク

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