東墨田
東京都墨田区の町名
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地理
産業
歴史
この地は中世には「木毛河(きげがわ)」と呼ばれ[8]、江戸時代に入ると「木下川(きねがわ)」と呼ばれるようになった[9]。江戸時代には「葛飾野」とも呼ばれ、将軍の狩場であった。『新編武蔵風土記稿』によると、行政区分は下木下川と上木下川に分かれ、下木下川には中川や中居堀に囲まれた低湿地に75戸の農村があり、萬久里・大荒田・二段田・葛西川・汐入・郷中耕地の6つの小字があった[10]。1889年5月1日、町村制の施行に伴い吾嬬村の一部となる。吾嬬村は1912年9月1日に町制施行して吾嬬町となる。1930年、旧来の大字を廃止し、東一~八丁目、西一~九丁目の17大字を設置。現在の東墨田に当たる区域は吾嬬町東六~八丁目となる。1932年10月1日、吾嬬町が東京市に編入され、向島区吾嬬町東六~八丁目となる。1947年3月15日、向島区が本所区と合併し、墨田区の一部となる。
1800年に賤民頭の浅草弾左衛門について記した「弾左衛門書上」によると、江戸時代には斃死した牛馬の解体や刑吏、勧進等の芸能などの職に携わる者が暮らしていた[11]。徳川後期の記録には「木下川の非人頭久兵衛、手下七人」とある[12]。明治6年(1873年)には当時鞣し業が集中していた浅草亀岡町(現在の今戸付近)や新谷町(現在の千束付近)の部落が臭気問題で当地に移転[12]。弾左衛門や、ニッピ(日本皮革)の前身となる桜組の創設者である西村勝三により近代皮革産業が創られた[13]。1881年には神田橋本町の非人系部落が火災により当地に移転、鞣し業が栄える[12]。
1892年、「魚獣化製場取締規則」による強制移転で、木下川と三河島に皮革業者が集められた[14]。1925年、関東大震災後の都市再整備のため木下川と三河島の皮革業者を砂町・葛西村・小松川町に移転する計画が立てられたが、木下川の皮革業者は「東京製革業組合」を結成し、陳情により移転計画は撤回された[15]。東京製革業組合は1936年、「江東皮革工業組合」に改められた。1942年、企業整備令に基づき、木下川に91軒あった皮革工場の約半数が転廃業し、残った組合員は共同出資で「江東製革株式会社」を設立した。江東製革は陸軍・海軍向けの革靴や航空隊向け防寒具などを製造したが、1945年3月の東京大空襲で焼失した[16]。戦後の高度経済成長期には、合成皮革と競争しつつ、紳士・婦人靴や衣料品、レジャー用品などに向けた豚革の生産を行っている。
1970年に部落解放同盟の支部が成立[12]。1984年のデータで1000世帯弱、2500人が住む[12]。
地名の由来
世帯数と人口
学区
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2022年9月時点)[23]。
| 丁目 | 番地 | 小学校 | 中学校 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 東墨田一丁目 | 1〜2番 3番1~3号 4~9番 | 墨田区立中川小学校 | 墨田区立吾嬬立花中学校 | 調整区域により以下への変更が可能 ・墨田区立第三吾嬬小学校 ・墨田区立八広小学校 |
| その他 | 墨田区立八広小学校 | 墨田区立吾嬬第二中学校 | 調整区域により以下への変更が可能 ・墨田区立第三吾嬬小学校 ・墨田区立中川小学校 | |
| 東墨田二丁目 | 全域 | |||
| 東墨田三丁目 | 全域 |
交通
事業所
施設
人物
- 横山智佐 - 墨田区東墨田で生まれ育った。
