松本聡香
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1989年、富士宮市にあるオウム真理教教団施設、「富士山総本部道場」にて生まれる。オウム真理教では、麻原の子供の中で、長男・次男に次いで高い正報師という宗教的な位階を与えられた。著書によると、正報師とされたように自分の霊性が高いと感じた一時期もあったことを述べている[1]。
出産の際に教団幹部の遠藤誠一が立ち会った。その際に遠藤は恋心のようなものを抱いたと言う[2][1]。
1995年、6歳の時に地下鉄サリン事件が起きた。事件当日、父は「今日はいいことが起きているんだよ。」と冷たく笑ったという。その後、麻原は複数の幹部らと共にサティアン奥へ歩いていった。
同年5月16日までにオウム真理教教祖、麻原彰晃を初めとする教団幹部らが次々に逮捕されていき、母も逮捕され家族らは親不在となった。
15歳の時にオウム真理教事件を知る。それまでは宗教問題で拘束されていると思っていたと手記には書かれている[1]。「私が事件のことを知ったのは母の元を離れていた中学2年の時でした」とインタビューに答えている[3]。
事件について知ることになったきっかけについて、中学時代、社会科の先生が「オウムはヒトラーよりましだ」という発言を行い、それをきっかけとして麻原の弁護団長だった渡辺脩弁護士の著書『麻原を死刑にして、それで済むのか?』を家の中で見つけ出し読んだと述べている[4]。しかし、別の機会には、渡辺脩弁護士から『麻原を死刑にして、それで済むのか?』という著書が送られてきたことがきっかけだった、と食い違うことを述べている[3]。
2006年に、教団や側近信者の多額の資金援助を受けながらオウム事件への被害者賠償をせずにぜいたくな暮らしをしている三女や母たちを批判して家出をした。その後、江川紹子が四女の「家族や教団の束縛から逃れたい」という依頼を受けて未成年後見人となる。しかし、四女は江川紹子に隠れて独自の麻原崇拝のグループを形成する動きをしたことが、四女が働きかけたアレフを脱会した元信者達などから発覚し、それを伝え聞いた江川紹子は後見人を辞退するに至った(後述)。
しかし、2010年には、『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』と題する手記[1]を出版し、あらためて麻原やその事件、さらに母・三女らをはじめとする他の家族を批判した。手記には、「私には神が見えるし、霊も見えます。予知夢も見たことがあるし、前世のように思える夢も見たことがあるのです」「『見える父』と会話することもありました」「中学二年生のとき私の意思とは関係なく再び父の声が聞こえるようになる」、「次の日に何が起こるかが事前に予知できてしまう」などの幻聴、幻覚があった。このため、精神科で診察してもらい、統合失調症や解離性障害の幻覚や幻聴をなくす薬を処方されたが、見えているものは消えなかった。本を執筆した2010年3月20日時点でも、心の病と闘っている等と記している[1]。
なお、自分の後見人を降りた江川紹子に対して「殺したいとまで思いました」と述べているが[1]、江川は、四女のことを「彼女は語り尽くしたり、語り疲れることはなく、むしろ語れば語るほど、『物語』を膨らませ、その中の『健気に美しく生きる主人公』と現実の自分とを混同していったようだ」と述べている。
さらに、2015年には、テレビのインタビューで、父である麻原をあらためて強く否定し、「被害者の方々、ご遺族の方々に、申し訳ないっていう気持ちで、謝罪させて頂きたいという気持ちです」と被害者への謝罪の気持ちを表明している[5]。加えて、テレビカメラの前で、教団復帰を図る次男に直談判して、復帰をやめさせようとしたり[6]、同年に発刊された三女の著作の記載に対しては、社会を欺く多くの虚偽があるとして厳しく批判した[5]。
2017年には、上記の通り、両親との縁を切りたいとして、父母に対する推定相続人の廃除(相続廃除)を横浜家裁に申し立て、認められている[7]。Alephに対しては「教団の言うことを丸呑みにするのではなく、自分自身で行動してほしい。」と投げかけた。父である麻原について「父親のことを、私は今も昔も父親とは思えません。私が生まれた時、父は既に教祖であり、『グル』でした。私は一度も直接、『お父さん』と呼んだことはありません。最初から尊師でした」と述べ、母に対しては「産んでもらった恩はあるが、育ててもらった恩はない」と断言した。その上で、「著しく問題がある親との縁を切れる制度があった方がいいと私は思います」と家族と縁を切るために推定相続人廃除の申立をした理由を述べた[7]。
2018年には、三女らと異なって、麻原の死刑について「罪の重さを考えると死刑の執行以外に責任を取る方法はないと思うので、当然だと思いますし、執行されるべき」と述べた[8]。2018年7月、麻原の執行後、執行があった場合の遺骨を自分に引き渡すように、麻原存命中から法務省などに対して計5回にわたる申し入れをし[9]、麻原は執行時に自分のことを詐病だと言っていた四女を遺体引受人に指名した[10]。
その後、麻原の遺骨を巡って三女や母と対立していた。四女と弁護士滝本太郎側は「埋葬地の聖地化を防ぐため海に散骨する」との姿勢を示した[11]。そして、次女や、妻・次男との間で、遺骨の引き渡し先を決める裁判を争い、自分に引き渡すようにと東京家庭裁判所に求めたが、認められなかった。裁判所は次女を引き渡し先にとした[12]。
これら四女の行動に関して、次女は、「社会から同情と称賛」を得るためのパフォーマンスに過ぎないと批判している[13]。