オウム真理教女性信者殺害事件
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1991年頃、27歳の女性信者が麻原彰晃らに殺害された[1]。
この事件を初めて告白した新実智光と事件の目撃者である上祐史浩との間で主張が食い違っている。新実の証言によると、1990年か1991年の冬頃、山梨県西八代郡上九一色村(現在の南都留郡富士河口湖町)の教団施設で女性信者が金銭の横領を疑われ麻原の部屋に呼び出された。そこには麻原のほかに、新実、中川智正、村井秀夫、上祐、麻原側近の女性幹部がいた。本当に横領があったかどうかは定かではないが、麻原はポアとの判断を下し、新実と中川が女性信者の手足を抑え、麻原が首を絞めて殺害した。遺体は護摩壇で焼き、本栖湖に流した[1][2]。
一方、上祐の証言は次の通りである。1991年の初め頃、女性信者が金銭トラブルによりスパイ容疑をかけられた。彼女が呼び出されたのは、富士山総本部道場の第1サティアンの音楽室であった。同席していたのは新実の証言と同じ面々で、麻原は女性信者に「白状しろ!」と迫った。女性は身に覚えがないようだったが、麻原への帰依心のためか真っ向から否定せず、泣きながら「思い出せない」などと発言した。その中で麻原は「白状しないならばポアする」という趣旨のことを発言。最後に麻原は「私は嘘は吐かない男だよ」と言って、新実や中川に女性を取り押さえるように誘導した。注射液と思われる物質の名を出した中川に対して麻原が頷くと、中川は一旦退室。戻ってきた中川が女性の左腕に注射し、それと同時に新実が鼻や口を手で押さえるなどすると、女性はすぐに動かなくなった。女性の死亡は、医師である中川が確認した。麻原はその間、ずっとソファーに座っていた[3]。遺体は村井らが運び出し、同じ教団施設の中で焼却された。その後麻原は、この女性信者は「魔女だった」と語った[1]。
上祐によると新実の証言は記者が直接聞いたり、書面を得るなどしたものではなく、新実の接見者を通した伝聞情報である。また、新実は当局には供述していない(接見者にのみ述べている)。新実は事件の発生時期が1990年の可能性があり、場所は上九一色村の松本の部屋と証言しているが、上祐によれば当時まだ上九一色村に麻原の部屋はなかった。また、目撃した女性幹部が同年に別事件で拘留されていることから1990年である可能性はないという[1]。
被害者
被害者の女性信者は、1963年生まれ、大阪市出身。1988年に入信し、翌1989年に出家。ホーリーネームはタントラインドラーニ[2]。事件発生当時「師」の称号を持っていた出家信者の幹部で、富士山総本部道場の経理部のトップだった[1]。事件を報じた週刊新潮の取材に応じたオウム真理教被害対策弁護団の滝本太郎弁護士によると、当時、信者の親族や脱会信者、警察当局などと連絡を取り合い、信者のうち、生死が判明しない「行方不明者」についても情報を集めてきたが、その中にこの女性信者の情報もあった。本部職員となった1991年に音信不通となり、両親が教団に問い合わせたが「トラブルを起こして出て行った」と説明された。しかし、その後も家に帰らなかったため、1994年、母親が大阪府警に家出人捜索願を出した[2]。その後、母親は被害対策弁護団の加納雄二弁護士のもとを訪れ、1991年に母親の元を現役の信者が訪れ、女性信者がまだ帰宅していないことに驚き、「彼女は、麻原から、自分に出来ないことを命じられて苦しんでいた」「91年に麻原と話し合いをし、その翌日から姿を消した」と言い残していったと加納に相談した。加納は彼女の安否をオウムに照会したが、回答を拒否された。そこで、人身保護請求に訴え出る準備を始めたが、結局母親はそれを選択をしなかった。その7年後の2002年、母親は家庭裁判所に娘の失踪宣告を申し立て、翌2003年に認定された。その数年後、両親は相次いで亡くなった[2]。