橋本美純

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国籍 日本の旗 日本
出身地 滋賀県
生年月日 (1973-08-15) 1973年8月15日(52歳)
身長 168cm
橋本美純
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 滋賀県
生年月日 (1973-08-15) 1973年8月15日(52歳)
身長 168cm
体重 53kg
血液型 AB型
騎手情報
所属団体 日本中央競馬会(JRA)
初免許年 1992年3月1日
免許区分 平地
騎手引退日 2010年2月28日
2010年2月21日(最終騎乗)
重賞勝利 中央1勝[1]地方DG2勝、地方[注 1]2勝
通算勝利 中央4829戦338勝[1]、地方89戦11勝
経歴
所属 栗東松田博資(1992 - 1995)
栗東・騎手(フリー)(1995 - 2009)
栗東・作田誠二(2009 - 2010)
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橋本 美純(はしもと よしずみ、1973年8月15日 - )は、滋賀県出身の元騎手・現調教助手

新聞などでは美浦に所属していた橋本広喜と区別するために橋本美と表記されていたが、騎手引退時点では同姓がいないため姓のみの表記であった。

1989年競馬学校騎手課程第8期生として入学し、同期には菊沢隆仁後藤浩輝上村洋行小林淳一高橋康之横山義行吉永護がいる。1990年にはアイネスフウジンが逃げ切った第57回東京優駿を見学したが、競馬学校から電車で来ると、とにかく観客の数に驚かされた[2]。パドックではどの馬が格好いいなどファン目線での話をしながら、ダービーに乗る先輩騎手の一挙手一投足を見ていた[2]。レースはゴール前の厩舎関係者席で観戦し、ファンファーレと共に地鳴りのような歓声が響き、夢中で見ていたダービーはあっという間に終わった[2]。満員のスタンドから「ナカノコール」が沸きおこると、橋本ら8人は言葉を失い、ただ圧倒されていた[2]

1992年栗東松田博資厩舎からデビューし、同年3月1日阪神第12競走4歳以上900万下・ワイドアンサー(14頭中4着)で初騎乗を果たすと、同28日中京第1競走アラブ4歳未勝利・ブイゴゼンで初勝利を挙げた。28日は第12競走4歳以上500万下・ビッグライサンでも勝利し、共に逃げ切りで1日2勝をマークすると、翌29日には中京第9競走アラブスプリントステークス・デーエスホマレで2日連続勝利をマーク。1年目の同年から2桁の14勝を挙げ、2003年まで12年連続2桁勝利を記録。2年目の1993年には1月9日京都第7競走4歳新馬でベガに騎乗して2着となったが、2戦目を前にした調教に遅刻したことで橋本は降板させられ、松田は武豊に騎乗を依頼し、これを了承された[3]。同年は2月27日翌28日小倉で2日連続1日3勝を挙げ、6月5日阪神第7競走4歳500万下では18頭中16番人気のセンリョウコバンでクビ、クビの激戦を制して馬連万馬券を演出。7月17日の小倉第12競走4歳以上500万下では18頭中12番人気のカシワズルビーで勝利し、2着にブービー17番人気のウインドマラドーナが入って大波乱となる。12月18日の中京第8競走4歳以上500万下では16頭中12番人気のアカツキウィンで勝利し、1年に3度の馬連万馬券を演出。

1995年からは騎手(フリー)となり、1997年には自己最多の40勝を挙げ、中日新聞杯では16頭中16番人気のマヤノポセイドンで3着に入る。1998年にはミツルリュウホウでシンザン記念ダンツシリウスアグネスワールドに次ぐ3着とし、でダートに変更された共同通信杯4歳ステークスではエルコンドルパサーからは離されたものの、後に南関東で活躍するインテリパワーに先着の3着に入る。

1998年からはマイターンと共にダート戦線で活躍し、同年のダービーグランプリではウイングアローにハナ差迫る3着に入る。1999年平安ステークスオースミジェットエムアイブランに次ぐ3着、東海菊花賞でもマチカネワラウカドの3着とし、小倉で行われた東海ウインターステークスではウイングアローの追撃を抑えて逃げ切るが、これが自身唯一の中央での重賞勝利となった。2000年にはダイオライト記念オグリキャップ記念を逃げ切って連勝し、東海ステークスではスマートボーイにハナを譲って最後はファストフレンドの3着であった。

同馬以外では1999年にブゼンキャンドルを初勝利に導くと、続く条件戦も連勝したが、エルフィンSは7着に敗れて降板。2002年神戸新聞杯では16頭中11番人気のナムラサンクスに騎乗し、シンボリクリスエス皐月賞ノーリーズンに次ぐ3着に入った。

1999年の29勝、2001年の30勝を除くと10勝台で推移していたが、2004年には8勝と初めて2桁に届かなかった。2005年から2007年には3年連続10勝台の2桁勝利を記録するが、2008年は6勝、2009年には自己最低の1勝に終わる。

2009年5月10日の京都第11競走4歳以上1000万下でスリーサンビームを逃げ切らせたのが最後の勝利となり、9月11日付で作田誠二厩舎所属となる。2010年2月21日の京都第2競走3歳未勝利をマキハタビリケンで3着に逃げ粘ったのが最後の騎乗となり、同28日をもって騎手免許の更新を行わず引退[4]

引退後は作田厩舎の調教助手となった。

騎乗成績

関連人物

脚注

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