第57回東京優駿

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東京優駿 > 第57回東京優駿
開催国 日本の旗 日本
主催者 日本中央競馬会(JRA)
競馬場 東京競馬場
施行年 1990年
第57回東京優駿(日本ダービー)
開催国 日本の旗 日本
主催者 日本中央競馬会(JRA)
競馬場 東京競馬場
施行年 1990年
施行日 5月27日
距離 芝2400m
格付け GI
出走条件 サラブレッド系4歳牡・牝(指定)
負担重量 定量
天候
馬場状態
優勝馬 アイネスフウジン
優勝騎手 中野栄治
優勝調教師 加藤修甫美浦
優勝馬主 小林正明
優勝生産者 中村幸蔵(浦河町
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映像外部リンク
1990 日本ダービー
レース映像 jraofficial(JRA公式YouTubeチャンネル)による動画

第57回東京優駿は、1990年5月27日東京競馬場で行われた競馬競走である。アイネスフウジンが逃げ切り、優勝した。

1988年公営笠松競馬から中央競馬に移籍したオグリキャップの登場以来、折からの好景気もあって、日本競馬界はハイセイコー以来の一大ブームに湧いており、その只中で行われた本競走は入場人員19万6517人[1]、売上金は前年を100億円超上回る397億円と、いずれもダービー史上最高の数値を記録していた。

こうした中で1番人気に支持されたのはメジロライアンであった。同馬は前走皐月賞のレースで進路を失うという、不完全燃焼とも取れる形で3着に惜敗しており、コースが広く直線も長い東京競馬場ならばその全能力を発揮できると見られていた[2]。また、生産者兼オーナーのメジロ牧場は、1961年メジロオー以来、東京優駿で3度の2着と後一歩で優勝を逃しており、「メジロ悲願のダービー制覇」への期待も掛けられていた。

2番人気は皐月賞に優勝したハクタイセイ。騎手は南井克巳から武豊へと乗り替わっていた[3]。3番人気は皐月賞2着で前年の最優秀3歳牡馬アイネスフウジン、4番人気にはトライアル競走NHK杯を制してここに臨んだユートジョージが入り、ここまでが一桁台の単勝オッズであった。

出走馬と枠順

芝2400メートル 天候・晴れ 馬場状態・良
枠番馬番競走馬名騎手オッズ人気調教師馬主
11ロングアーチ牡4南井克巳15.36人宇田明彦中井商事(株)
2シンボリデーバ牡4田原成貴17.97人境直行シンボリ牧場
23ビッグマウス牡4柴田政人20.89人高松邦男古岡秀人
4ホワイトストーン牡4田面木博公37.212人高松邦男安藤博
35サハリンベレー牡4菅原泰夫113.017人藤原敏文所俊雄
6メジロライアン牡4横山典弘3.51人奥平真治(有)メジロ牧場
7ストロングクラウン牡4増沢末夫41.313人元石孝昭村木篤
48ユートジョージ牡4岡潤一郎7.64人安藤正敏曽田正雄
9ロンサムボーイ牡4的場均133.119人飯塚好次近藤俊典
10ワイルドファイアー牡4中舘英二186.821人加藤修甫竹崎満
511ダイイチオイシ牡4猿橋重利119.918人沖芳夫辻本春雄
12アイネスフウジン牡4中野栄治5.33人加藤修甫小林正明
13ニホンピロエイブル牡4丸山勝秀60.914人田中耕太郎小林百太郎
614メルシーアトラ牡4河内洋13.75人小野幸治永井康郎
15コガネタイフウ牡4柴田善臣19.18人中村好夫瀬古孝雄
16ツルマルミマタオー牡4田島信行29.910人橋口弘次郎鶴田任男
717インターボイジャー牡4松永幹夫215.622人武邦彦松岡正雄
18キーミノブ牡4村本善之37.111人日迫良一北前正美
19ハクタイセイ牡4武豊3.92人布施正渡辺重夫
820カムイフジ牡4郷原洋行79.015人宮沢今朝太郎藤代由太郎
21ノーモアスピーディ牡4安田富男85.911人松山康久吉田照哉
22ハシノケンシロウ牡4大塚栄三郎146.620人八木沢勝美橋本中

レース展開

スタートが切られるとアイネスフウジンが先手を取って先頭に立ち、さらに前走では中団から差すレースを見せたハクタイセイも果敢に先行策を見せて続いた。1番人気のメジロライアンは10番手前後に控え、先頭から最後尾までが50メートルほどの差で隊列が固まった。

アイネスフウジンは向こう正面で後続をやや引き離し、2番手以下に4馬身ほどの差を付ける単騎逃げとなる。第3コーナー手前付近でハクタイセイとカムイフジの2頭がペースを上げて1馬身ほどまで差を詰めるが、最終コーナーを回りながらアイネスフウジンがラストスパートを掛けると2頭は再び引き離され、最後の直線に入りアイネスフウジンは2馬身ほどのリードを維持。残り200メートルで後方に控えていたメジロライアンが追い込んできたが既に大勢は決しており、アイネスフウジンがメジロライアンに1馬身1/4の差を付けて1着、優勝タイム2分25秒3という、従来のタイムを1秒更新するレースレコードでの優勝を果たした。逃げ切りでの優勝は1975年のカブラヤオー以来、15年ぶりの出来事であった。また、前年ウィナーズサークルに続き、シーホーク産駒の連覇ともなった。

なお、最後の直線入り口でダイイチオイシが故障を発生して競走を中止し、同馬は予後不良と診断され安楽死の措置が執られている。

ナカノ・コール

入線後、そのままウイニングランに入ったアイネスフウジンと中野栄治は、向こう正面でしばし立ち止まった後に引き返し、駈歩で正面スタンド前に帰ってきた。

するとこの瞬間、スタンドの観衆から「ナカノ、ナカノ」という合唱が湧き上がった。優勝者を称えるために観客がその名前を唱和するという方法は史上前例を見ないものであり、これは競馬ファンの主体、ひいては日本競馬の在り方が、それまでのギャンブル性重視の楽しみ方から、よりスポーツ的な楽しみ方に移り変わりつつあることの象徴とされ、日本競馬史におけるひとつのエポックとされた。

特に古くから競馬に携わっていた層からの反響が大きく、民間初の競馬実況アナウンサーであった小坂巖は、「自分たちの時代は終わったと感じた。ぼくらの知っている競馬とは違った時代になったんだと、強く感じた[4]」と回想し、40年に渡り新聞記者を務めた遠山彰は自著の中で「涙が出てきた。競馬が本当に一般の人に認められるスポーツになった、と感激した[5]」と述懐している。また、海外競馬評論家の合田直弘はこの日の夜、イギリスに住む友人に電話を掛け「日本の競馬が大変なことになっているよ」と伝えたといい、「まさに歴史的な出来事だった」と述べている[6]。東京競馬場で解説していた大川慶次郎も自身の本命であり最も思い入れの強かったメジロライアンが負けたにもかかわらず、コールを耳にし感極まって落涙している。騎手・調教師としてダービーを制覇した経験を持つ大久保房松(当時92歳)は中野騎手を羨ましがり、「こんな風に出迎えられるなら、もう1度ダービーに乗りたい」と発言している。当の中野は勝利騎手インタビューでコールの感想を問われ、「感激です」と答えている。

その後「コール」は応援形態のひとつとして定着し、1990年代には、大競走の後には決まって馬ないし騎手の名前が唱和された[7]

競走結果

勝利騎手・中野栄治
(2011年4月23日 東京競馬場)
着順枠番馬番競走馬名タイム上がり3F着差
1512アイネスフウジン2.25.336.6
236メジロライアン2.25.535.61 1/4馬身
324ホワイトストーン2.25.735.61 1/2馬身
4616ツルマルミマタオー2.25.735.4クビ
5719ハクタイセイ2.25.937.11 1/2馬身
611ロングアーチ2.25.936.1アタマ
7820カムイフジ2.25.937.0アタマ
8718キーミノブ2.26.136.11 1/2馬身
948ユートジョージ2.26.136.4ハナ
10615コガネタイフウ2.26.435.91 3/4馬身
11614メルシーアトラ2.27.337.05馬身
1223ビッグマウス2.27.337.6アタマ
13821ノーモアスピーディ2.27.336.1クビ
14513ニホンピロエイブル2.27.437.01/2馬身
1512シンボリデーバ2.27.536.91/2馬身
16717インターボイジャー2.27.636.63/4馬身
1749ロンサムボーイ2.27.837.91 1/2馬身
18822ハシノケンシロウ2.28.137.01 3/4馬身
19410ワイルドファイアー2.28.237.61/2馬身
2037ストロングクラウン2.29.338.47馬身
2135サハリンベレー2.31.440.4大差
中止511ダイイチオイシ

この競走で記録されたレースレコードは、1999年にアドマイヤベガがタイレコードを記録したのみで、2002年に東京競馬場が全面改装されるまで終に破られなかった。しかしアイネスフウジンはこの走りで体力を使い果たしており、ウイニングラン途中で立ち止まったのも、故障を恐れて様子を見ていたためというほどに疲労困憊していた[8]。同馬は競走後、脚部不安を生じて休養に入り、そのまま復帰することなく引退している。

データ・配当金

1000m通過タイム59.8秒(アイネスフウジン)
上がり4ハロン48.4秒
上がり3ハロン36.6秒
優勝馬上がり3ハロン36.6秒
単勝式12530円
複勝式12200円
6150円
4730円
連勝複式3-5770円

レースにまつわるエピソード

テレビ・ラジオ中継

出典

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