毛利輝元の四国・九州出兵

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毛利輝元の四国・九州出兵(もうりてるもとのしこく・きゅうしゅうしゅっぺい)は、関ヶ原の戦いと並行して、西軍総大将の毛利輝元が東軍諸将の領国である四国九州の諸国に行った一連の軍事侵攻[1]

秀吉の死と輝元の帰国

毛利輝元

慶長3年(1598年)8月9日、毛利輝元豊臣秀吉によって、徳川家康前田利家宇喜多秀家らとともに伏見城に招かれた[2]。その際、秀吉は自分の死後の国内体制について指示し、東国は家康、西国は輝元、北国は前田利家、五畿内は五奉行と割り振った[2]

8月18日、秀吉が伏見城で死去した[3]。輝元ら五大老五奉行は誓紙の交換を重ね、秀吉の遺児・豊臣秀頼への忠誠を誓った[4]。だが、秀吉の死後、諸大名の間で政治的抗争が激化し、秀吉没後に決められていた集団指導体制は否定され、多数派工作が展開されていった[3]

慶長5年(1600年)5月、家康は上杉景勝が上洛を拒否したことを理由に、これを秀頼に対する謀反として、会津へ出兵した(会津征伐[5]。家康が前年9月に大坂城に入城して以降、豊臣政権は家康が運営しており、輝元も景勝討伐に対して賛同せざるを得なかった[5]

6月16日、家康は諸将を引き連れて会津へと出陣したが、輝元はその直前に広島へと向けて帰国した[5]

7月、輝元は吉川広家安国寺恵瓊を会津に出陣させた[5]。だが、恵瓊は近江佐和山城において、石田三成大谷吉継と会談し、家康に対する決起を決めた[6][7]。そして、恵瓊は大坂に戻り、輝元の意向と称して会津への出兵を差し止めた[7]

輝元の大坂城入城

7月12日、輝元は五奉行のうち前田玄以増田長盛長束正家から上坂を求められた[8][9]。このとき、三奉行は輝元に対し、公儀の仕置に参加すべく急ぎ上坂するように伝え、その背景事情については安国寺恵瓊から説明させるという形をとっている[10][注釈 1]

7月15日、輝元は三奉行からの書状を受け取るとすぐ広島を出発し、7月19日には大坂城西の丸に入城した[12]醍醐寺三宝院門跡の義演が記した日記『義演准后日記』7月19日条よると、その兵力は6万であったという[12]。それより2日前の17日、毛利秀元は大坂城西の丸(家康が居を置き政務を執っていた)を占拠しており、城内から家康の留守居役を追い出していた[12]。大坂の徳川方勢力の動きを封じ、秀頼を手中に収めることは西軍決起の計画の最重要行動の一つであったが、これは輝元の判断なしで秀元が行える行為ではなく、輝元は17日の時点で在坂していたか、あるいは事前に秀元に対して指示を出していたことになる[12]

輝元は上坂すると、諸将より西軍の総大将に推挙され、盟主として全軍の指揮を執ることとなった[9][13]。だが、輝元は秀頼を擁して全軍の指揮を取ったものの、関ヶ原の戦いの終結まで、大坂城から出陣することはなかった[14]

そして、輝元は関ヶ原の本戦に至るまで、四国から九州にかけての侵略を広範囲にわたり計画・実行し、軍勢を展開した[15]

四国

阿波

蜂須賀家政

阿波蜂須賀氏は、当主の蜂須賀家政が在国し、嫡子の蜂須賀至鎮が家康の会津征伐に従軍していた[16]。至鎮は家康の養女と縁組が整っていたことからその娘婿とされており、七将襲撃事件の動向からも、蜂須賀氏は親徳川であった[16]。他方、家政は大坂にいたが、これは反徳川の動きを牽制したものとみられる[16]

7月16日、家政は石田三成や大谷吉継、安国寺恵瓊らの謀議を知ると、輝元の側近(輝元の大坂城留守居役)・堅田元慶に対して、三成や吉継らの謀議に輝元が加わっているのは本当かどうか問いただしている[16]

やがて、輝元が大坂に入ると、大坂にいた徳川派は一掃されるとともに、家政も親徳川的な態度を譴責され、逼塞処分を受けた[17]。その後、蜂須賀氏の家臣団は豊臣家馬廻衆に編入され、家政は剃髪の上、高野山に追放された[17]

だが、阿波には蜂須賀氏の兵力がまだ温存されていたため、輝元は阿波を自身の支配下に置くことを急いだ[17]。また、阿波にいる蜂須賀氏の家臣団が西軍に敵対行動をとる恐れもあった[17]。阿波占領の役目は、毛利勢に任された[17]

7月29日、輝元と三成、長束正家、前田玄以が輝元配下の佐波広忠に宛てられた書状から、この日以前に蜂須賀氏の居城である徳島城が毛利方に占拠されていることがわかる[17]

9月19日、輝元が関ヶ原の敗北を受けて、阿波を占領する毛利勢に大坂に引き上げるよう命じた[18]。その命を受けて、同月25日に毛利勢は蜂須賀氏の家臣・益田彦四郎に徳島城とその城下町を引き渡した[19]。結局、阿波は関ヶ原の戦いが終結するまで、毛利勢の占領下にあった[17]

讃岐

讃岐は、生駒親正が一国を支配していた[20]。親正は讃岐高松城を拠点としていたが、関ヶ原の戦い以前は完成しておらず、丸亀城を拠点としていたとする記録もある[20]

輝元らが決起した際、親正は大坂にいたため西軍に参加し、田辺城の戦いにも参加した[21]。他方、親正の嫡子・生駒一正は会津征伐に従軍しており、西軍の決起に際しては東軍に参加し、他の東軍諸将ともに美濃の岐阜城攻撃に参加している[20]。父子で対応が分かれたのは、家の存続を図ったためとみられる[20]

親正が西軍に属したため、輝元は阿波を占領したように、毛利勢を進駐させなかったとみられる[22]生駒氏の多くの兵力は讃岐に在国しておらず、毛利勢の進駐の必要がなかったようである[22]

合戦後、親正は西軍に参加した責任を取り、高野山に入って剃髪したとされる[20]。だが、一正が東軍に属していたこともあり、親正の行動が咎められることはなく、生駒氏は存続を許されている[22]

伊予

加藤嘉明

伊予には、南予に藤堂高虎喜多郡の一部は池田秀氏)、中予に加藤嘉明、東予に小川祐忠がおり、野間郡風早郡来島康親に与えられていた[19]。このうち、池田秀氏と小川祐忠、来島康親は西軍に与したが、藤堂高虎と加藤嘉明は家康の会津征伐に従っており、両者とも会津には相当の兵力を連れて向かったとみられるが、領国にもそれなりの兵を残していたようであった[19]

そのため、輝元は藤堂領・加藤領に対して、かつての国人領主に調略の手を伸ばした[19]。東予では毛利氏に敵対した金子氏など領主の一部が四国征伐に伴って断絶していたが、藤堂領・加藤領における南予の領主らは輝元の叔父・小早川隆景が伊予一国を与えられた際、多くがその家臣団に編入されたとみられる[19]。なお、河野氏の奉行人であった出淵氏垣生氏は河野氏の除封に伴い、隆景の家臣団に加えられている[19]

その後、隆景の国替え時、村上水軍を中心とした勢力が伊予を離れたが、平岡氏などの中予の領主や喜多郡の曽根氏などは伊予に残った[19]。輝元は藤堂領・加藤領を調略するにあたり、曽根景房を起用したが、この景房は喜多郡や宇和郡の国人領主に広範な人脈を持つ人物であった[23]。輝元と共に大坂にいたと思われる毛利元康と堅田元慶が久枝又左衛門(藤堂領の国人領主)に8月18日付けで宛てた手紙から、輝元が景房を通じて、藤堂領の村落に基盤を持つかつての国人領主に対し、毛利氏への協力や武装蜂起を要請している[23]

また、上記の手紙に宛先である久枝又左衛門宛ての手紙には、「先年公広・中国(毛利氏)御入魂の好み」とあるが、これは又左衛門の旧主である西園寺公広を指している[23]久枝氏は宇和郡の国人領主として、大名の伊予西園寺氏に仕えていたが、藤堂氏家臣団に久枝氏の名が確認されないことからもこの頃には没落し、宇和郡久枝村に逼塞していたようである[23]。このことから、輝元は伊予西園寺氏の旧臣らにも味方になるよう呼びかけたとみられ、かつての支配者への愛着心、伝統的な支配構造を破壊した豊臣系大名への反感を利用したようである[23]

8月上旬、広島留守居役の佐世元嘉が差配する中、村上元吉が阿波から呼び戻され、その父の村上武吉、曽根景房を中心とした軍事侵攻の準備が進められていた[23]。また、喜多郡の兵頭正言が渡海用の警固船を用意するなど、伊予に関係の深い人物が軍勢に選ばれている[23]

8月27日、輝元は村上武吉・元吉父子、曽根景房に宛てて、藤堂領の留守居役を離反させる方策があるので、直接の軍事侵攻を今しばらく延期すると伝えている[24]。また、同日に輝元は藤堂領に関しては、準備が整い次第、すぐに軍事侵攻するように命じた[25]

9月5日、輝元は志道元幸と桂元武に対しても出陣を命じ、伊予攻略軍が増強された[25]

9月10日頃、伊予攻略軍が広島を出発し、14日には松山沖の興居島に達した[26]。なお、15日には指揮官の村上武吉・元吉父子と宍戸景世から伊予の豪商である武井宗意と宮内休意に対し、「豊臣秀頼が毛利勢の派遣を命じたこと」や「先鋒隊として、村上武吉・元吉父子、宍戸景世、村上吉祐、桂元綱が佐世元嘉の代理として渡海したこと」、「村々の百姓に対して、毛利勢に協力するように説得すること」、「万一、加藤嘉明に従う者がいれば、すぐに打ち破り、妻子も殺すとの輝元の厳しい命令が出ていること」を記した書状を発している[27]

なお、この毛利氏の伊予攻略軍は、河野氏の一族・河野通軌が旗頭になったとされる[27]。他方、上記の9月15日書状によると、宍戸景世がこの軍勢の総大将格となっている[27]。この景世は通軌と同一人物とも、宍戸景好と同一人物ともされるが、景世の家系に関する情報が詳しく残っておらず、詳細は不明である[28]

9月17日夜、毛利勢は三津浜で野営中、加藤氏の軍勢に奇襲を受け、村上武吉と曽根景房が討ち死にした(三津浜夜襲[29]。なお、従来はこの戦闘で毛利勢は壊滅状態に陥ったとされてきたが、実際は壊滅状態には陥っておらず、9月18日には宍戸政慶と木屋元公が援軍として伊予に派遣されており、加藤勢との戦闘は継続されている[30]

9月19日、毛利勢と加藤勢は如来院で戦闘を行い、加藤勢の指揮官の黒田九兵衛直次が戦死している。その後、23日の三津ノ木山での戦闘を最後に、翌日には関ヶ原の戦いの結果を受けて、毛利勢は撤退した[31]

他方、毛利勢は藤堂領には直接侵攻せず、また調略していた久枝氏や山田氏といった伊予西園寺氏の旧臣らの蜂起も確認できない[32]。だが、久枝村の隣村である松葉村(同じく宇和郡)において、郷士の三瀬六兵衛が毛利氏に内通し、一揆を起こしている[32]。従来、この一揆は酒蔵に立て籠もった極めて小規模なものとされてきたが、実際はかなりの兵力が廃城となっていた戦国期の山城に立て籠もる大規模なものであったことが明らかとなっている[33]

この一揆に対し、藤堂氏は鎮圧軍を派遣したが、足軽大将の力石治兵衛が戦死したため、板島に撤退を余儀なくされた[32]。結局、藤堂氏は伊予宇都宮氏の旧臣・栗田宮内の働きにより、郷村指導者層の協力を得て、この一揆を鎮圧している[32]

九州

豊前

黒田孝高(如水)

豊前では、黒田孝高(如水)中津城を本拠として豊前六郡を支配し、息子の黒田長政は会津征伐に参加するなど、東軍方として活動していた[34]。孝高も中津城において、徳川家康や輝元の従兄弟・吉川広家との折衝に関与していたが、東西両軍のどちらに付くかは明確ではなかった[34]。実際、孝高が広家に送った8月1日付の書状では、「天下のことは輝元様がご意見されるよう奉行衆が言って、輝元様が大坂城に移られたことはめでたいと存じます」と、輝元の行動を称賛する不思議な挙動をしている[35]

このことから、孝高は輝元に付くのか、家康に付くのか去就を決めることなく[36]、輝元や広家との関係を悪化させずに、畿内や東国の情勢を探ろうとしたとみられる[37]。だが、長政が九州における東軍の希少な勢力であったため、孝高は家康から大きな期待をかけられ、九州の西軍方大名の領地を「切り取り次第」とする条件を出されたとされる[37]。これを受け、孝高は積極的な攻勢に動くことになる[37]

他方、豊前には企救郡田川郡を領する毛利勝信(吉成とも。もとは森氏で、輝元の毛利氏とは別族)もおり、輝元らの決起に際しては西軍に参加し、伏見城の戦いにも参加していた[38]。だが、この戦いで毛利九左衛門や同勘左衛門など多くの家臣を失い、毛利家臣団が混乱するに至った[38]

8月中旬、輝元は肥後加藤清正を味方に引き入れるため、勝信を豊後小倉に下向させた[39][40][41]。だが、勝信は清正に西軍に与するように説得を試みるも、不首尾に終わった[40]。そのうえ、黒田孝高が攻めてくるという噂も流れたため、勝信は門司城の普請をしたが、それでも自身で守ることができそうにないので、輝元が城に軍勢を入城させることになった[38]

8月26日、輝元が宍戸元行・佐世元嘉・三沢為虎古志(和田)重信に宛てた書状によると、輝元は彼らに軍備や兵糧を整えると同時に、門司城を占領するだけではなく、都市としての門司全体を支配下に置くよう命じている[42]。このことから、輝元の命により、三沢為虎と古志重信が門司に在番していたことがわかる[15]。なお、10月14日に黒田孝高が吉川広家に宛てた書状によると、輝元の命令により、門司城以外にも勝信の居城である小倉城も毛利勢の占領・支配下にあったことが明らかになっている[15]

関ヶ原の本戦後、小倉や門司などは輝元の影響下にあったが[37]、孝高ら黒田方が毛利勝信の領地にも侵攻し、毛利方との戦いを優位に進めた[40]。そして、10月5日(6日とも[43])に黒田方が降伏を勧告したことを受けて、勝信は黒田方に降伏し、小倉城を明け渡した[40][43]

豊後

大友義統

豊後はかつて、大友氏の領国であったが、文禄2年(1593年)5月に当主の大友義統文禄の役で秀吉の怒りを買い、同国を没収されていた[44][45]。義統が大名の身分を失ったのち、輝元はその身柄を預かり、庇護下に置いていた[44][45][46]。そして、7月に輝元は決起すると、大坂にいた義統に西軍への参加を呼び掛けた[44]

8月中旬頃、義統は輝元に起請文を差し出すとともに、次男の正照を人質として差し出した[44]。義統が西軍に参加すると、輝元は義統に対し、大友氏の故国である豊後への侵攻を命じた[44][45]。義統は輝元に恩義を感じており、義統が黒田孝高(如水)に宛てた9月7日付の手紙には「拙者(義統)所配所において毛利(輝元)殿御懇意深重に候えば、今度一命を捨てその恩に報いるべくと存じ候」と記しており、この豊後攻めが輝元の意向が大きく反映されていたことがうかがえる[44]

8月中旬頃、義統は大坂から豊後に向けて出発し、25日には周防の上関(毛利氏の水軍基地があった)に至ったとされる[44]。このとき、義統は周防の大畠において、輝元から軍艦と砲卒100人を与えられており、上関に停泊していることからも、輝元が兵船の手配も含めて大きく援助したことが推測できる[44]

義統は8月下旬まで毛利領にいたが、やがて海路で豊後に進み、9月9日に豊後の浜脇に到着し、近隣の立石を拠点に活動を開始した[47][45]。義統が豊後に入国すると、大友氏の旧臣や領民はこれを喜び、大挙して馳せ参じた[45][46]

だが、豊後においては、細川氏の留守居役である松井康之有吉立行速見郡(細川氏の豊後における飛び地)の杵築城を守っていた[45]。そして、9月10日に義統は杵築城の攻略を目指して進軍したが、康之と立行はこれを豊前の黒田孝高に報告しており、前日の9日に孝高が救援のために豊後に入った[45][48]

9月13日、義統は石垣原において、黒田孝高や松井康之らに大敗を喫した(石垣原の戦い[49][50]。その後、15日に義統は黒田方からの降伏勧告を受け入れ、仏門に入った[45]。これにより、大友氏の再興運動は失敗するとともに、輝元が画策した九州から東軍勢力を駆逐する作戦も失敗に終わった[44]

筑後

筑後には、輝元の叔父・小早川秀包久留米13万石を領しており、同国の諸大名も西軍に味方していた[51]。だが、秀包は甥の毛利元康、筑後の諸大名と共に近江の大津城を攻めており、本拠の久留米城は守備隊に守らせていた[52]

だが、関ヶ原の本戦が終結すると、黒田孝高が筑後を押さえにかかり、10月18日に久留米城は開城した[53][54]。その結果、秀包は久留米の地に二度と戻ることなく、所領を失う形となった[53]

終戦後、失意の秀包は海路で中国地方に移動するも、途中で発病し、翌年(1601年)3月22日に死去した[53]

関ヶ原本戦の終結後

9月15日、西軍と東軍が関ヶ原で激突したが、吉川広家や小早川秀秋らの裏切りで西軍は敗北し、戦いは一日で終結した(関ヶ原の戦い[55]。なお、広家は家康に対し、毛利勢の本戦不参加を条件に毛利氏の所領安堵などの交渉を行っており、本戦前日の14日には所領安堵の起請文を得ていた[56][57]

他方、関ヶ原から戻った秀元らは大坂城で籠城して戦い、家康に一矢報いるべきだと主張した[58]。家康は輝元が秀頼を奉じて大坂城に籠城し、抵抗を続けることを恐れており、輝元を城から退去させる必要に迫られた[59]。そのため、家康は輝元に対して、9月17日に両者の良好な関係を望むとの書状を送り、大坂城からの退去を促した[55]

9月25日、輝元は所領安堵の起請文を受け取ると、秀元らの主戦論を押し切り、大坂城西の丸から退去し、木津の毛利屋敷に入った[60][58]

9月27日、輝元と入れ替わる形で、家康が大坂城西の丸に入城した[61]。だが、家康の大坂城入城後、輝元の花押が押された書状が多数押収されるなど、輝元が西軍と関わりないとの広家の弁解とは異なり、実際には輝元が総大将として西軍を指揮していたことが明らかとなった[58][59][62]

10月2日、家康は輝元と交わした所領安堵の約束を反故にし、「毛利氏は改易し、領地は全て没収する」とし、輝元を改易した上で、吉川広家に周防・長門の2ヶ国を与えようとした[62][58]。だが、広家は本家を見捨てることができず、10月3日に輝元が西軍の首謀者でないことを改めて弁解するとともに、周防・長門2ヶ国を輝元に与えるよう嘆願した[62][58]

10月10日、家康の命により、毛利氏の所領は山陽・山陰8ヶ国の120万5千石[注釈 2]から周防・長門2ヶ国の29万8千石[66][注釈 3]に減封され、輝元が保持していた祖父以来の領地も多くが失われた(防長減封[62][68][65]。なお、輝元が所領安堵を取り消されて減封となった理由は、家康の大坂城入城後に輝元の西軍への積極的関与、四国・九州への侵攻の事実が明らかになったからということであったが、家康はそれらの事実を関ヶ原の合戦前から知っていたと考えられており、減封は既定路線であった[59]

考察

西国の統治者として

毛利輝元公像(萩城

輝元が四国・九州北部の諸国において、広範囲かつ積極的に軍事活動を展開した理由は、西国の統括者たる自負心を持っていたことが挙げられる[15]。そのため、輝元は反徳川として決起するに際し、西国の大名らに自陣への参加を呼びかけ、従わない大名には懲罰権を発動する形で攻撃を企画したのであった[69]

実際、文禄4年(1595年)7月に関白豊臣秀次が失脚した際の起請文前書案では、「坂西の儀は輝元ならびに隆景に申し付くべく候」と記されており、豊臣秀吉が後継者の豊臣秀頼を補佐する体制として、西国を輝元と叔父の小早川隆景、東国を徳川家康が統治する構想が記されている[15]。秀吉は死の直前にも、「西国の儀任せ置かるの由候」「東西は家(康)・輝(元)両人、北国は前田(利家)」としており、西国を輝元の統治下にする政治体制を指示している[70]

輝元と奉行衆の連携

光成準治は、輝元が豊臣三奉行よりの要請を受け取った後、極めて迅速に大坂入りしていることから、西国における勢力拡大を目的として奉行衆と事前に協議したうえで、西軍決起に加わったとする[12][71]。実際、輝元は情勢を見極めることなく、7月15日に広島を出発したのち、17日には大坂に到着していた可能性があり、その場合はわずか2日という驚異的な速さで航行したことになる[12]瀬戸内海の航行は危険が伴い、昼夜を問わずハイスピードで航行するためには、潮流や風向き、周囲の地形などをあらかじめシミュレーションしておく必要があることから、輝元は奉行衆や安国寺恵瓊と決起のタイミングを打ち合わせており、航行計画や諸準備を整えていたと推測できる[72]

輝元と奉行衆の連携に関しては、奉行衆が家康に対抗するため、毛利家中において発生していた毛利秀元の給地問題・小早川隆景の遺領問題などを、輝元有利に決着させようとしたこともあった[73]。また、輝元自身も家康を脅威と感じ、慶長3年(1598年)8月28日に奉行衆と起請文を交わしている[74]

大友義統を支援する形での豊後への出兵は輝元のみならず、奉行衆も関与していることから、決して毛利氏の利益のみを図ろうとしたものではなかった[38]。輝元や増田長盛の斡旋により、義統は出陣に際して、豊臣秀頼から具足100両、長柄槍100本、鉄砲300挺、白銀1000枚を与えられたとされる[36]。とはいえ、義統への働きかけや軍事面の援助のほとんどは、輝元ら毛利氏が担っていたことは留意しなければならない[38]

西国制圧の優先

輝元が大坂に駐留していた毛利軍を率いて関ヶ原に赴いていれば、西軍が勝利できたという見解も根強い[75]。だが、輝元は大坂に駐留していた軍勢を動かすつもりはなく、自身の最前線への出撃も念頭になかった[76][注釈 4]。これは、輝元が四国や九州への出兵にその兵力を割いており、実際に阿波には大坂からも派兵していることから、本戦での対決よりも西国の制圧を優先させた結果であった[76]。また、輝元は大坂へ向かった時からすでに隣国への侵攻を想定し、国許にも兵力を残しており、その兵力も西国の制圧に動員していた[76]

従来、関ヶ原の戦いにおいて、豊臣秀頼が大坂城から出馬しなかったのは、母の淀殿が反対したためとされてきた。だが、光成準治は、関ヶ原の戦いが短期間のうちに決着した場合、西国におけるそれ以上の領土拡大が見込めなくなるので、それを嫌った輝元や毛利氏は戦いが長期化するのを望み、秀頼を奉じた出馬や関ヶ原での攻勢に消極的になった、と考察している[77][78][79]

毛利氏領国内の課題解決のため

輝元は四国・九州に領土を拡大することにより、毛利氏が当時抱えていた領国内の課題を解決する意図があったとされる[69]。毛利氏は当時、給地総入れ替えなどによる家臣団統制政策の未了、給人の財政状況の悪化、村落の荒廃といった問題を抱えていた[69]

そのため、輝元はこれらを解決するため、自身の直轄地増加、給人の経済基盤強化、村落の復興、さらには家臣団の給地総入れ替えを成すことを目的として、他国への侵攻・占領を行ったと考えられる[69]。だが、輝元はその際、豊臣政権によって取り潰された大名や国人、その家臣らを動員していることから、自力救済を禁ずる惣無事令を無視した行動をとったとみることができる[69]

毛利氏による独立的領国の形成・東アジア貿易進出のため

輝元は阿波から讃岐、伊予から豊前・豊後のラインを制圧することにより、秀吉の海賊停止令によって失われた瀬戸内海の制海権を取り戻す意図があったと考えられる[69]

輝元は従来から有していた日本海西部の制海権と瀬戸内海の制海権を有機的に統合することによって、石見銀山の銀を東アジア貿易への進出のために使い、交易利権の獲得を画策していた[69]。それゆえ、輝元は豊臣政権に表面的には従属しつつも、その根幹的政策である惣無事令と海賊停止令を否定することで、豊臣政権の統制下を離れた独立的な領国を築き、独自の交易ネットワークを展開する意図があったとされる[80]

また、輝元は大内義隆の養女・尾崎局を母としていた、つまり義隆が義理の祖父であることから、自らを大内氏の後継者であると自認していた可能性がある[81]。かつて、輝元は足利義昭を擁して織田信長と長期の戦いを繰り広げたが、これは毛利氏の主家であった大内氏が足利義稙を復位させたことにより、海外貿易の利権を握ることに成功していたこともあって、その先例に倣おうとしたとする見方がある[82]。輝元は大内氏に代わる存在として、父祖に倣い、その目を海外との交易に向けていた[注釈 5]

脚注

参考文献

関連項目

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