民衆駅
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太平洋戦争によって日本の主要都市は空襲を受けて焼け野原と化し(日本本土空襲)、駅舎も多くが焼失した。戦後、国鉄は線路・車両の復興を優先して行うことにしたため、多くの駅が仮駅舎のままでの営業を強いられることになった。
そのため国鉄では、戦災復興を地元と共同で行うことを目論むようになり、駅舎の建設に関して地元の有力者たちの資金を仰いで、その代わりに商業施設を駅舎内に設けた駅を造ることにした[1]。私鉄では、小林一三による阪急電鉄梅田駅を初めとして商業施設を設けた駅が戦前から誕生していたが、国鉄では初の試みと言えた。
最初の例となったのは豊橋駅で、1950年(昭和25年)3月14日に完成、同年4月1日に開業した[2]。以後、日本全国へこの方式の駅が広まっていったが、駅内の商業施設が収益を上げても国鉄には地代収入しか入らなかった。しかし、1971年(昭和46年)の国鉄法改正で、国鉄による直接投資が可能となり[1]、1973年(昭和48年)6月26日に初の投資物件として平塚駅が完成した[3]。
民衆駅には買い物客の利便性の向上のため、売り場にも改札が設けられ、さらにメインの改札口を経由せず直接出入りすることができる構造が多かったほか、「ステーションデパート」という名称が使われることも多かった。
民衆駅は駅の活性化に貢献してきたが、地方都市に建てられた民衆駅はモータリゼーションの進行などで乗客を減らしており、商業施設も郊外に大型店(ロードサイド店など)ができたことや、建物の老朽化により衰退し、その後の駅の改築によって次第に姿を消しつつある。しかし、死語としての「民衆駅」で培った商業施設運営のノウハウは、国鉄民営化後、駅ビル事業がJR旅客6社の収益の柱事業となって今も生きている。