水谷新太郎

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国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1953-12-07) 1953年12月7日(72歳)
身長
体重
176 cm
74 kg
水谷 新太郎
湘南シーレックス(横浜二軍)内野守備走塁コーチ時代
2010年8月15日 横須賀スタジアム
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 三重県松阪市
生年月日 (1953-12-07) 1953年12月7日(72歳)
身長
体重
176 cm
74 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 遊撃手
プロ入り 1971年 ドラフト9位
初出場 1974年10月15日
最終出場 1989年10月13日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

水谷 新太郎(みずたに しんたろう、1953年12月7日 - )は、三重県松阪市出身の元プロ野球選手内野手)、プロ野球コーチ。

三重高校では遊撃手として1971年春の選抜に出場。1回戦で近大付中司得三投手に抑えられ敗退[1]。同年夏の甲子園予選では三岐大会準決勝で長良高に敗れる[2]。高校1期下のチームメートに左翼手新谷嘉孝がいた。

1972年ドラフト9位でヤクルトアトムズに入団。プロ入り2年目から右打ちを左打ちに変更。

1976年は、5月から渡辺進に代わり遊撃手として起用されるが打撃面で伸び悩む。

1978年阪急ブレーブスとの日本シリーズでは全7戦に八番打者として先発出場、20打数3安打に終わるが、守備の要として日本一に貢献している。

1980年にはサム・パラーゾが入団し二塁手に回るが、9月には定位置に復帰した。

1982年には初の規定打席(30位、打率.255)に到達。

1984年には自己最高の打率.291(リーグ19位)を記録した。

1985年までレギュラーを任される。

1986年渋井敬一池山隆寛が台頭。6月から二塁手に回り、角富士夫らと併用された。同年より右膝の半月板から左膝、脹脛と相次ぐ足の故障に悩まされる[3]

1987年はその痛みを口にしたことが関根潤三新監督の逆鱗に触れたこともあり一軍公式戦出場なし[4]

1988年には復帰するも段々と出場機会が減っていく。

1990年限りで現役引退。

1991年はヤクルトの守備走塁コーチに就任。宮本慎也を一本立ちさせた[5]

2007年スカウトに転身し、東北担当として佐藤由規山本斉の両高校生を担当していた。

2008年横浜ベイスターズの内野守備コーチに就任。

2010年から2012年までは二軍(2010年まで湘南シーレックス)の内野守備走塁コーチを務めた。選手時代も含め、初めてヤクルト以外の球団に在籍することになった。

2015年に古巣のヤクルトに二軍内野守備走塁コーチとして復帰。

2017年はチーフコーチを兼任し同年退団。2018年からは東京神宮シニアのコーチ[6]

プレースタイル

1984年に遊撃手守備率史上最高(当時)の.991をマークするなど守備力に長け、広岡達朗が事あるごとに絶賛していた。優勝した1978年のオフに広岡監督が「一人を除いて後はトレード要員だ」と発言したが、その「一人」とは水谷のことであった。

八重樫幸雄は水谷の守備について、肩は強くなかったがゴロの処理がとても上手かったと評価している[7]

人物

娘の水谷麻美は神宮球場ウグイス嬢[8]、夫は元横浜ベイスターズ投手の飯田龍一郎である(現・横浜チームスタッフ)[9]

詳細情報

脚注

関連項目

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