湯浅禎夫

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国籍 日本の旗 日本
生年月日 1902年10月2日
没年月日 (1958-01-05) 1958年1月5日(55歳没)
湯浅 禎夫
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 鳥取県西伯郡淀江町(現:米子市
生年月日 1902年10月2日
没年月日 (1958-01-05) 1958年1月5日(55歳没)
身長
体重
174 cm
69 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1950年
初出場 1950年11月5日
最終出場 1950年11月5日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 大連商業学校
  • 毎日オリオンズ (1950 - 1952, 1955)

湯浅 禎夫(ゆあさ よしお、1902年10月2日 - 1958年1月5日、幼名・虎雄)は、鳥取県米子市(旧西伯郡淀江町)出身の元プロ野球監督選手

大正から昭和中期(1920年代前半-1950年代前半)にかけて活躍した。プロとしての活動は極めて短いが、大学、ノンプロでの剛腕ぶりから、小野三千麿谷口五郎とともに「大正三大投手」の一人に挙げられる[1]

米子中学校(現:米子東高校)では主戦投手だったが、ノーコンとあだ名される暴球投手であり、全国大会に出場はできなかった(当時は鳥取中学校の黄金時代であったのも一因である)。中学の同期には沖縄戦第32軍の作戦参謀を担った八原博通がいる。1920年に米子中を卒業後は大連実業団に所属していたが、大沢逸郎明治大学OB、日本大学硬式野球部初代監督)に見いだされ、1922年明治大学野球部へ入る。

明大では、当初は渡辺大陸の控えで外野手であったが、あるときバックホームのボールが本塁付近でホップしてバックネットにまで達したことがあり指導者に認められ、渡辺が引退後は東京五大学リーグ戦で主戦投手として活躍した。1923年のリーグ初優勝をはじめ、湯浅自身4年のラストシーズンとなる、1925年秋季リーグで幕を開けた東京六大学リーグ戦では立教大学、帝国大学(現:東京大学)を相手に2度のノーヒットノーランを達成するなど、剛腕ぶりを見せつけた。このシーズンで記録した109奪三振はのちの江川卓、湯浅の後輩(米子東高出身)でもある野口裕美和田毅一場靖弘らも破れなかった、現在まで残るリーグ記録である(ノーヒットノーランを2度達成したのも、湯浅ただ一人である。また、リーグ結成開幕戦の勝利投手としても名を残している)。また、この年遠征に来たシカゴ大学を2試合連続で完封した。

卒業後、1926年に大連商(満州)のベンチコーチとして、同校を第12回全国中等学校優勝野球大会準優勝に導いた。その後、大阪毎日新聞社(現:毎日新聞大阪本社)に入社。同社が運営していたセミプロ野球団・大阪毎日野球団に入団して投手陣の一翼を担ったほか、球団解散後は同紙運動部のスポーツ記者となって活躍した。

1950年、その毎日新聞が運営してパシフィック・リーグに加盟した毎日オリオンズの結成に参加(毎日新聞社からの出向)し、総監督兼任投手として活躍。親会社が鉄道会社中心のパリーグで唯一のマスコミ企業である毎日はセントラル・リーグにおける読売巨人軍のような立ち位置でいわばパの盟主を目指していた[2]。その為荒巻淳戸倉勝城といったノンプロの一流選手を好待遇で入団させると共に大阪別当薫本堂保次土井垣武ら主力ら引き抜く形で補強した[2]。舵取りを間違えれば崩壊しかねないチームを湯浅は抜群の手腕でまとめ上げエースの荒巻をリリーフ中心で使うなど投手出身だけに投手起用に独特の冴えを見せ攻撃面では強打に頼らず機動力を活用した[2]。のちに監督として8度のリーグ優勝したを成し遂げた西本幸雄は湯浅を「モダンで緻密な戦法を駆使した」と評価し大きな影響を受けたと語っている[2]。結果毎日は首位を独走し2位南海に15差をつけて独走優勝しリーグ制覇[2]第1回日本シリーズでは松竹ロビンスを破って初代日本一の座についた[2](この時の優勝牌が母校・米子東高校に寄贈され、展示されている)。新人監督としての優勝を果たす[3]。また同年11月5日阪急西宮球場で施行された阪急ブレーブスとの対戦で、48歳1ヶ月で先発登板し、阪急の浜崎真二監督兼投手(48歳11ヶ月)と投げあい、2人合わせて96歳の最長老投手対決を実現させた。この試合がプロ選手としての唯一の出場である。登録上「総監督」であり選手兼任ではないが、消化試合であったことと、当時の規則の緩さが手伝ってのもので、選手登録していない選手の出場は禁止されている。

1951年は4番打者の戸倉を放出した毎日は優勝した南海に22.5ゲーム差を離され3位[2]1952年は南海と激しい優勝争いを繰り広げ1ゲームだった[2]7月16日西鉄ライオンズ戦で発生させた意図的な遅延行為「平和台事件」の責任を取り、7月27日を以って辞任した。翌1953年も名義上、総監督として登録されているが、正式監督としては記録されていない。その後は日本短波放送プロ野球ナイトゲーム中継解説者1954年)を経て、1955年にヘッドコーチとして毎日に復帰。

1958年1月5日に死去した。享年55。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1950 毎日 1330000000000--0--000.000.000.000.000
通算:1年 1330000000000--0--000.000.000.000.000

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1950 毎日 1100000--------194.0206--0200224.502.00
通算:1年 1100000--------194.0206--0200224.502.00

年度別監督成績

年度球団順位試合勝利敗戦引分勝率ゲーム差チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1950年毎日1位12081345.704-124.2863.4248歳
1951年3位11054515.51422.559.2583.2549歳
1952年2位12075450.6251.072.2642.8750歳
通算:3年 30718011710.606Aクラス3回、Bクラス0回
  • 太字は日本一

※通算成績は、監督を辞任した1952年7月28日以降の成績は含まない

背番号

  • 35 (1950年 - 1953年)

関連情報

著作

  • 『野球 練習の仕方・試合の仕方』、東洋図書、1947年。

家族

出典

参考文献

関連項目

外部リンク

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