盛田正明
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愛知県名古屋市出身。実家は江戸時代創業の老舗造り酒屋『盛田』。三人兄弟の末子で、長兄にはソニー創業者のひとりである盛田昭夫、次兄には盛田を引き継いだ盛田和昭(和昭の妻は大日本紡績常務田代重三の四女)がいる。義兄(姉の夫)はソニー元社長の岩間和夫。母方の祖父は旧大垣藩家老家で大垣共立銀行頭取の戸田鋭之助で、母方の伯父には実業家の戸田直温・戸田良直兄弟がおり、早川種三は母の従兄弟にあたる。
愛知県立第一中學校(旧制愛知一中・現 愛知県立旭丘高等学校)時代はバレーボール部に入り、セッターとしてプレーしていた[1]。愛知一中在学時に太平洋戦争が始まったことを受け、「国の役に立ちたい」という思い、そして飛行機好きであったことから正明は海軍飛行予科練習生へ志願し、神風特別攻撃隊訓練生として予科練生活を送るも、18歳の時に戦争が終結して故郷へ帰り、今後を模索していたところ、長兄昭夫の大阪大学理学部時代の恩師が教鞭を執っていた東京工業大学に編入学した[1]。
東京工業大学では星野愷の下で磁気素材の研究に没頭、大学での学問を活かすために兄・昭夫が創業に携わった東京通信工業(後のソニー)へ入社する[2]。東京通信工業入社後、井深大から「京都で映画技術か、仙台の東北大学で磁気材料の研究か、どちらかをやってもらいたい」と言われ、昭夫から「仙台へ行け」と言われたことから、東北大学科学計測研究所の研究生として物理学の権威であった岡村俊彦の下で猛勉強に勤しんだ[2]。正明がこの仙台での生活で息抜きで始めたのがテニスで、我流でプレイしていたという[3]。
1954年、3年間の東北大学研究生生活の終了時に東京本社の井深から「仙台近辺に我が社の工場を建設するように」との指示を受けたため、宮城県宮城郡多賀城町(現在の多賀城市)に東京通信工業仙台工場(現在はソニーストレージメディア・アンド・デバイスとなっている[4])を立ち上げる[3]。正明はこの仙台工場ではオーディオテープ、テープレコーダー関連機器の製造開発などに携わった。
1963年、ソニー厚木工場(現:厚木テクノロジーセンター)に副長として異動、トランジスタ生産の責任者のひとりとして操業を指揮する[5]。厚木に4年在籍した後、ソニー本社技術企画部長に就任、家庭用ビデオテープレコーダー『ベータマックス』の開発・マーケティングの指揮を執る[6]。この間の1973年に取締役に就任[6]、1975年のベータマックス発売後には正明率いる企画チームが全国のソニー販売店を回り、ビデオテープレコーダーデッキ販売に力を入れるよう説いて回ったという[6]。
1976年、本社常務取締役就任。1982年にソニー本社副社長に就任、またアメリカ合衆国現地法人「ソニー・アメリカ」の会長として1987年に渡米し、ソニー・アメリカの体制構築に力を注いだ[7][8]。ソニー・アメリカ会長時代には本国より安藤国威(後の第7代ソニー社長)を呼び、生産部門の責任者を任せた。