藤本泉
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経歴・人物
後に『文芸首都』および『現象』の同人として創作活動を行う。処女作は1955年ごろ『文芸首都』に発表した「作為の他」である[2]。
1966年に「媼繁盛記」で第6回小説現代新人賞を受賞(五木寛之と同時受賞)し、作家デビュー。
1971年に江戸川乱歩賞の候補となった「藤太夫谷の毒」は、最終候補にまで残って選考委員から筆力が支持されたものの、部落問題を扱った作品の内容が応募当時のタブーであったため、受賞を逃す[3]。同作品は『地図にない谷』と改題して刊行された。
『S-Fマガジン』1972年3月号に発表した「ひきさかれた街」は、第二次大戦後に東西陣営により南北に分断された東京を舞台にした、「架空の日本」を描く先駆的な作品であった。
1976年に刊行した『呪いの聖域』が第75回直木賞(昭和51年上半期)候補となる(第75回は受賞該当作なし)。また同年刊行の『ガラスの迷路』が、翌1977年の第30回日本推理作家協会賞長編賞の候補となる。1977年『時をきざむ潮』で第23回江戸川乱歩賞を受賞。
1986年、西ドイツのケルンに移り住む。
1989年2月、旅行先のフランスから子息に手紙を出したのを最後に消息を絶つ[1]。手紙には渡航の予定とあったが、フランス当局によれば出国は確認できなかったという。
その後、消息をめぐり、さまざまな情報が取り沙汰されたものの、2016年、アドレナライズが初期作品の電子書籍での復刊を図るに当って子息に連絡を取り、未だに行方不明であることを確認している[4]。