赤川元房
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赤川 元房(あかがわ もとふさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。安芸国の戦国大名・毛利氏の家臣で萩藩(長州藩)士。父は赤川元秀。
| 時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
|---|---|
| 生誕 | 不詳 |
| 死没 | 寛永6年2月20日[1](1629年3月14日) |
| 改名 | 赤川長鶴[1](幼名)→赤川元房[1] |
| 別名 | 通称:又五郎[1]→十郎左衛門尉[1] |
| 官位 | 従五位下[1]、主水正[1]、主水佐[2] |
| 主君 | 毛利輝元→秀就 |
| 藩 | 萩藩(長州藩) |
| 氏族 | 桓武平氏良文流小早川氏庶流赤川氏[3](豊臣賜姓[1]) |
| 父母 | 父:赤川元秀[1]、母:井上元盛の娘[1] |
| 兄弟 | 元房、長沼元正[1]、女(児玉元兼正室)[1]、女(兼重元続正室)[1]、女(天野元勝室)[1]、女(渡辺元室)[1]、女(国司元蔵正室)[1] |
| 妻 |
正室:粟屋元親の娘[1] 継室:馬木三河守の娘[1] 継室:出野兵部の娘[1] |
| 子 | 元恒[4]、女(三須隆経室)[4]、元信[4]、湯川元並[4]、又市[4]、元実[4]、女(湯浅元言室)[4]、半左衛門[4]、女(羽仁元智室)[4]、元昌[4] |
生涯
安芸国の戦国大名・毛利氏の家臣である赤川元秀の嫡男として生まれる[1]。
元亀元年(1570年)9月12日、小早川隆景が毛利元就側近の平佐就之と粟屋元種に書状を送り、豊前国三岳城において元房が武功を挙げたことを伝達している[5]。同年10月8日、豊前国の清水山において大友軍を討ち取る武功を挙げ、10月14日に元就は元房に書状を送り、武功を賞賛すると共に褒美を約束した[6]。
天正9年(1581年)12月5日、毛利輝元が元房に書状を送り、翌日に出立する「御料人」の供の準備を命じ、安芸国賀茂郡西条の家人衆に西条から竹原への乗馬を用意させるように命じている[7]。
天正13年(1585年)の四国攻めに元房も出陣しており、同年3月27日に毛利輝元は湯原春綱を通じて元房の父・元秀に書状を送り、元房の出陣を喜んでいる[8]。
天正15年(1587年)2月4日、毛利輝元は元房に書状を送り、豊臣秀吉の九州下向が2月15日に決まったので宿所の準備をするように命じ、その際に行う大規模な造作が不出来であると外聞も実も失ってしまうので、難渋の者については法度に基づいて成敗するように命じている[9]。
同年4月9日、日向国の高場城を攻める毛利輝元が元房に書状を送り、高場城が明日にでも陥落することや秋月種実の降伏といった九州攻めの情勢を報じると共に、留守居を元房の一所衆に任せて、元房は急いで九州に下向するように命じた[10]。
天正16年(1588年)7月から9月にかけて、輝元に従って元房も上洛する。同年7月20日巳の刻、毛利吉成からの宴の招待に応じ、毛利輝元、小早川隆景、吉川広家、穂井田元清、福原元俊、口羽春良、渡辺長が陪席して能楽が催され、毛利吉成・吉政父子自ら大鼓を打ってもてなした[11]。能役者の鴨松太夫に太刀一腰と銭1000疋、その他の同座の役者に銭300疋が遣わされ、役者たちへ受け渡す役を元房が務めた[12]。
7月24日巳の刻、輝元が宿所の妙顕寺を出発し、浅野長政の屋敷において輝元、小早川隆景、吉川広家、穂井田元清、福原元俊、口羽春良らは正装の烏帽子と直垂に着替え[13]、正午には秀吉に拝謁するために聚楽第を訪ねた[14]。聚楽第の客殿では秀吉が上壇の間に南面して座し、客座に輝元、蜂屋頼隆、隆景、広家の順で座し、その末席に元清、福原元俊、口羽春良が横列で陪座した[15]。一方の主座には聖護院道澄、前田利家、安国寺恵瓊、細川忠興、池田輝政、島津義久、立花統虎(立花宗茂)、龍造寺政家、金森長近、施薬院秀隆の順で列席した[15][16]。秀吉との拝謁の後は酒宴が開かれて観世太夫による謡がなされ、輝元の供をしていた渡辺長、元房、内藤権右衛門尉、井原元尚、熊谷就真、国司元保、粟屋元勝、熊谷元実、児玉元兼、楢崎元兼、松山元忠(三浦元忠)、堅田元慶、粟屋元種、児玉仁右衛門尉、林就長の15名が召し出されて秀吉への対面が許された[17]。毛利氏家臣たちとの対面を終えた秀吉は退出したが、一部参加者の変更がありつつも酒宴と謡は続けられ、秀吉に代わって秀吉の猶子である羽柴秀俊(後の小早川秀秋)が上壇の間に座し、主座の上座側に公家の日野輝資と花山院家雅、客座の上座側に徳川家康、豊臣秀長、豊臣秀次、上杉景勝が加わり、島津義久が退出した[18]。
7月25日に輝元が参内して後陽成天皇に拝謁し、豊臣姓と従四位下・参議の官位を与えられた際には、御履直しを渡辺長が務め、御剣役を元房が務めた[19]。
慶長10年(1605年)12月14日、同年の五郎太石事件の後に毛利氏家臣団や有力寺社の総勢820名が連署して毛利氏への忠誠や様々な取り決めを記した連署起請文において、806番目に「赤川主水佐」と署名している[2]。