野村彰彦

From Wikipedia, the free encyclopedia

国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1943-09-13) 1943年9月13日
死没 (2021-09-13) 2021年9月13日(78歳没)
野村彰彦
2009年シルクロードS表彰式
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県一宮市
生年月日 (1943-09-13) 1943年9月13日
死没 (2021-09-13) 2021年9月13日(78歳没)
騎手情報
所属団体 日本中央競馬会
所属厩舎 京都橋本正晴(1960年 - 1967年)
中京栗東中村覚之助(1967年 - 1985年)
初免許年 1962年
免許区分 平地
騎手引退日 1985年
重賞勝利 5勝
通算勝利 3269戦321勝
調教師情報
初免許年 1985年(1987年開業)
調教師引退日 2014年(定年)
重賞勝利 26勝(中央25勝/地方1勝)
G1級勝利 2勝
通算勝利 6470戦510勝
(中央6318戦488勝/地方152戦22勝)
経歴
所属 栗東T.C.(開業 - 2014年)
テンプレートを表示

野村 彰彦(のむら あきひこ 1943年9月13日 - 2021年9月13日)は、愛知県一宮市出身[1]の元騎手・元調教師

父は馬車による運送業を営み[1]、競馬関連の資材も取り扱っており[2]、野村も幼い頃から馬に親しみ将来の目標に騎手を志していた[1]。当初は公営笠松で騎手になることを考え[1]、研修にも入っていたが[2]、「カツラ」の冠名で知られた馬主の牧市太郎に中央で騎手になることを勧められ、1960年に紹介を受けた京都橋本正晴厩舎に騎手見習として入門[1] [2]

1962年に橋本厩舎からデビューし、3月17日阪神第9競走5歳以上50万下・カツラオーザ(5頭中4着)で初騎乗を果たし、同24日の阪神第2競走4歳以上オープンで見習時代に厩務員も兼ねていたアングロアラブのカツラバラッケー[2]に騎乗して初勝利を挙げる[3]。カツラバラッケーでは重賞初騎乗となったタマツバキ記念(秋)(11頭中8着)でもコンビを組み[4]12月23日の阪神第7競走アラブステークスでは初の特別勝ちと2日連続勝利[5]も挙げ、騎手時代の野村に最も強い印象を残すことになった[2]。初年度は9勝[6]をマークしたが、カツラバラッケーとのコンビで5勝[7]を挙げている。

2年目の1963年には5月11日の京都で初の1日2勝[7]を挙げ、初の2桁勝利で20勝台となる24勝[6]をマークするが、3年目の1964年は6勝[6]に終わる。

1965年にはタマツバキ記念(秋)を17頭中16番人気のミエタカラで制し、単勝・枠連万馬券の波乱で重賞初勝利を挙げた[8] [9]。同年は2年ぶりの2桁となる10勝、1966年には3年ぶりの20勝台となる27勝をマークし、1968年まで3年連続で20勝台を維持したほか、1971年まで7年連続2桁勝利を記録[6]

1967年には橋本厩舎が都合により管理馬房を減らすことになり、当時の所属騎手で最年少であった野村は中京中村覚之助厩舎に移籍[2]

1968年には中日新聞杯・トミマサでタイヨウをアタマ差下し[10]CBC賞はミドリエースで制して[11]中京の重賞を2勝する[12] [13]。ミドリエースでは続く阪神牝馬特別3着[11]、明けて1969年中京大賞典では進路妨害で失格したハクセンショウの繰り上がりで[14]ダテホーライの2着[11]に入った。

1969年にはタマツバキ記念(春)をシュウザンミノルで制し[13]1970年には2年ぶりの20勝台で自己最多の28勝[6]をマーク。

1972年にはヤマニンウエーブ天皇賞(秋)でも手綱を執る予定であったが、競走前に起きたアクシデントにより断念し、前3走に跨った福永洋一が同競走でも引き続き騎乗して制覇[15]。天皇賞馬になった後は同年の阪神大賞典で再び騎乗しハマノパレードの2着、1974年日本経済新春杯ではホウシュウエイトの2着に入った[16]

1973年にはフセノスズランで中京記念ではナオキの3着と好走し、スワンステークスを勝利したが、野村にとって最後の重賞勝利となった[17] [18]

1975年には5年ぶりで最後の20勝台となる21勝をマークし、1980年まで5年連続2桁勝利を記録[6]

1978年金杯(西)では16頭中15番人気のアラナスオーでリニアクインの4着[19]に入り、1980年には11月22日の京都第10競走ラジオたんぱ賞3歳ステークス[20]をフセノコマンドで勝利[21]

1981年1982年には2年連続2桁勝利を記録し、1982年の13勝が最後の2桁となった[6]

1985年1月6日の京都第2競走4歳未勝利・フセノダンサーで最後の勝利を挙げ、2月24日の阪神第1競走4歳未勝利・タンジェント(9頭中3着)を最後に現役を引退[22]

管理馬房の空きを待ちながら2年を過ごしたのち、1987年に厩舎を開業。当初競馬会から「解散厩舎を引き継がせるので馬を用意してはならない」という通達があり[23]、それを守っていたところ、開業2カ月前になって「自分で馬を集めるように」と再通達があり、慌てて馬を揃えたというエピソードがある[24]。先にデビューした厩舎から2週間遅れで管理馬が初出走し、6カ月後に初勝利を挙げた[23]。2年目以降は順調に成績を挙げていき[23]、1989年にナムラモノノフが阪神大賞典を制し、調教師として重賞初勝利を挙げた。以後、1992年の菊花賞においてクラシック三冠が懸かったミホノブルボンのペースを乱したとして物議を醸したキョウエイボーガンや、1994年のクラシック戦線を賑わせたナムラコクオーを手掛け、1997年にはキョウエイマーチ桜花賞に優勝し、騎手生活から通じて初のGI競走制覇を果たした。同年、自己最高の年間27勝(地方を含めると28勝)を挙げる。2000年代以降も数々の重賞勝利馬を手掛け、2009年にはスプリングゲント障害GI競走の中山グランドジャンプを制し、野村も12年ぶりのGI優勝を果たした。

2014年2月、70歳定年により調教師を引退。調教師としての通算成績は6470戦510勝(うち地方152戦22勝)、重賞26勝(同1勝)であった。

2021年9月13日、病気のため死去[25]78歳没生没同日)。

成績

騎手成績

通算成績1着2着3着騎乗数勝率連対率
平地 3143383723194.098.204
障害 761275.093.173
3213443843269.098.203
日付競走名馬名頭数人気着順
初騎乗1962年3月17日-カツラオーザ--4着
初勝利1962年3月24日-カツラバラツケー--1着
重賞初騎乗1963年4月10日スワンSスズカリユウ14頭136着
重賞初勝利1965年9月26日タマツバキ記念(秋)ミエタカラ17頭161着
GI級初騎乗1966年4月10日桜花賞リユウラツクス23頭2312着

おもな騎乗馬

※括弧内は野村騎乗時の優勝重賞競走。

調教師成績

開催通算成績1着2着3着騎乗数勝率連対率
中央 平地 4494754986025.075.153
障害 393821293.133.263
4885135196318.077.158
地方 平地 223019152.145.342
総計 5105435386470.079.163
日付競馬場・開催競走名馬名頭数人気着順
初出走1987年3月7日1回中京1日5R5歳上400万下ダイナアルプス16頭1411着
初勝利1987年9月5日3回小倉7日4R3歳新馬ベルエトック8頭21着
重賞初出走・初勝利1989年3月12日1回阪神6日11R阪神大賞典ナムラモノノフ11頭71着
GI初出走1989年4月29日3回京都3日10R天皇賞(春)ナムラモノノフ18頭915着
GI初勝利1997年4月6日2回阪神6日10R桜花賞キョウエイマーチ18頭11着

おもな管理馬

※括弧内は野村管理下での優勝重賞競走。

GI競走優勝馬

その他重賞競走優勝馬

主な厩舎所属者

※太字は門下生。括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。

関連項目

脚注

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI