門坂流
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- 1948年 : 京都市に生まれる[5]。
- 1968年 : 東京芸術大学油絵科入学[5]。
- 1973年 : 鉛筆・ペン画による書籍の装幀や雑誌の挿絵を手掛ける[5]。
- 1985年 : 独学でエングレービングの制作を始める[5]。
- 1988年 : ドローイング集『風力の学派』(ぎょうせい)刊行[5]。
- 1990年 : 『ビュランによる色彩銅版画集 水の光景』(ぎょうせい)刊行[5]。
- 1999年 : 朝日新聞朝刊小説「百年の預言」挿絵担当[5]。
- 2000年 : 記念画集『百年の預言』(朝日新聞社)刊行[5]。
- 2003年 : 小説家・小池真理子とのコラボレーション『一角獣』で銅版画8点制作(角川書店)刊行[5]。
- 2012年 : 『文學界』(文藝春秋社)9 - 12月号の目次・イラスト担当[5]。
- 2013年 : 「町田市ゆかりの作家達」展(町田市立国際版画美術館)・ 作品集『Engraving』刊行 (不忍画廊刊)[5][6]。
- 2014年4月3日午後0時26分 : 胃癌のため東京都内の病院で死去[2]。65歳没。
個展・グループ展歴
- 流紋(1987年 INAXギャラリー 東京・京橋)[4]
- 門坂流展 (1988年 ガレリアグラフィカ 銀座)[4]
- 門坂流展・水の流れ (1990年 ガレリアグラフィカ 銀座)[4]
- 門坂流展(1993年 ガレリアグラフィカ 銀座)[4]
- 門坂流・グラフィックの世界展(1991年 伊勢丹 新宿)[4]
- 門坂流展(1992年 ARTE SPAZIO 東京・玉川)[4]
- 門坂流の世界(1993年 ギャラリー・アルチザン 梅田)[4]
- 門坂流 銅版画展(1993年ギャラリーポート 白金台)[4]
- 門坂流 銅版画展 (1999年 かねとう 茅場町)[4]
- 線の迷宮〈ラビリンス〉―細密版画の魅力 (2002年 目黒区美術館)
- 門坂流 Selected Works 1985-2003 (2004年 個展 不忍画廊 八重洲)[6]
- 門坂流展(銅版画・ペン画・水彩画)(2003年 松明堂ギャラリー 鷹の台)[7]
- 門坂流2005 (2005年 個展 不忍画廊 八重洲)[6]
- 門坂流 2006『Ryu Kadosaka Drawing Works 1』刊行記念展 (2006年 個展 不忍画廊 八重洲)[6]
- 門坂流 2007『The LANDSCAPE』 (2007年 個展 不忍画廊 八重洲)[6]
- 門坂流・渡辺千尋 銅版画エングレーヴィング競作展 代表作から新作まで (2007年 松明堂ギャラリー 鷹の台)[8]
- 門坂流 2008 『線描のリリシズム』 (2008年 個展 不忍画廊 八重洲)[6]
- 門坂流 2009 『Painting & Portfolio』 (2009年 個展 不忍画廊 八重洲)[6]
- 門坂流個展 ─ 自然と霊性 (2011年 個展 不忍画廊 八重洲)[6]
- Ryu Kadosaka “Engraving" (2013年 個展 不忍画廊 東京・日本橋)[6]
作品集
特徴と評価
門坂は幼年時代から「流動している対象を見つめていたことを鮮明に覚えている」。「川の水の流れや炎が複雑で捉え様のない形にリズミカルに変化し、生まれては消える様子を吸い込まれる様にみていた。黄色い稲穂が風に吹かれて、目の前をまるでいき鄭るように遠くまで走り抜け、次から次へとまるで生きているように遠くまで走りぬけ次から次へと違う形が生まれは追いかけているのを飽きずに眺めていた」子供だった[9]。
絵画を志したのは「高校の頃にフェルメールの『刺繍をする女』の絵を見て心が震えました。子供の頃に、節穴から障子に投影された美しい青いシミが、ピンホール写真のように外の雪景色を映していた事に感動したのを思い出したのが原点です」 と語る[10]。
東京芸術大学油絵科入学後も「美術界よりサブカルチャーの方に興味が移り、雑誌『宝島』で片岡義男さんの『ロンサム・カウボーイ』でデビューした」 「その『宝島』では鉛筆で始めたのが、途中でオフセット印刷から活版印刷に替わる事になり、急きょペン画に変えたのをきっかけに、線の表現に目覚めた。イラストの仕事だけでは、締切もあり満足な表現が出来ないので、少しずつ自分にリアリティのあるテーマで描き始めた」と、学生時代からイラストの仕事を始める[10]。
門坂作品の特徴は、今では世界でも稀な技法に属するエングレービング技法にある。西洋の鎧兜などの金属類に彫刻する西洋の金細工技法から発展した、古くからあるが習得が極めて難しく長期間を要する為に、近代版画ではほとんど使われず、現代版画では数人しかいない「絶滅しかかった技」。そこへ「いきなりその技法を完成させた形で」デビュー。それを可能にしたのは、それ以前の15年間の芸大学生時代からのペン画で積み上げた実績だった[3]。
門坂作品のペン画はすべて平行線だけで描かれていて、交差しないのが特徴。エングレービングとおなじ技法だったことから「ビュランの線は、自分が追い求めていた究極の線であると確信した」という[3]。
池澤夏樹は、門坂エングレービングを「その描線は動的な世界観の証明であり、写真から最も遠い所にある画像」と、その波のような線を「写真は動きを止めるけれども、門坂流の絵は波の過去と未来を語る事で、波を動かす」と評している[9]。
また、荒俣宏は「彼にとって線とは、何よりもまず図像を構成するための最小にして唯一の要素にほかならない」「門坂流は『テーマ』の画家ではなく、描く器械=絵師であるとおもう。この言い方は決して卑下ではなく、新しい形の称賛、それも最大限の称賛である」とし、モンドリアン、カンディンスキー、モネと比較して論じている[6][9]。
美術評論家の伊藤俊治は「門坂流は …… 微細な波動としてのイメージの渦は、我々のこの世界の堅固な状態を、その構造や量を、その肉体や精神をなしくずしにし、非物質化し、新しく蘇らせてくれるはずである」と評価している[9]。
こうした批評にたいし、ジェイムス・ジョイス、司馬遼太郎、小池真理子など、内外の著名な小説家の表紙絵を手がけ、自らも「絵師」と任ずる門坂自身は「形を意識することはほとんどないといってもいい過ぎではない。もちろん具象絵画というジャンルに属するかと思うので、画面上に表面的な意味で誰にでもわかる形が表現されているとは思う。しかし表現しようとしているのは、物の形の魅力ではなく、とらえようとしてとらえられない粒子の運動。子どもの頃から、水の流れの変化や、炎の形の変化を夢中になって観ていたり、稲穂に風の動きが現れるのをうっとりと観ているのが好きで、絵を描くようになって自然に今のような表現形式になってきた」(版画年鑑2001掲載 作家コメント「わたしのかたち」[11])と語っている。
エングレービング以外では、門坂は1998年7月27日から1999年9月4日まで朝日新聞に連載された髙樹のぶ子の連載小説「百年の預言」の挿絵を担当し、ルーマニア、オーストリアを取材。リトグラフによる多数の作品を残した[4]。また、ペン画や色彩版画による書籍のカバーや挿絵も多数(装画項参照)。山と渓谷社からは「門坂流 山の肖像 ─ 北アルプス・常念岳」[12]や「「南アルプスの山なみ」エングレーヴィング 2007年」「槍・穂高連峰」エングレーヴィング 2008年」は、1年を通じて山と渓谷雑誌の背表紙として使われた[13]。2010年には、呼吸生理学者・本間生夫の依頼で「新作能『オンデディーヌ』」のためにエングレービング作品を制作した[3]。
なお、角川春樹事務所発行のハルキ文庫は、外側のカバーを外すと、表紙に直接描かれているモノクロ画を目にすることができるが、この画は門坂流の手によるものである。そのため奥付に記載されている「表紙イラストレーション」の項目には「門坂流」の名前があるが、これは、カバーのイラストも門坂流が描いたという意味ではない。カバーイラストの担当者の名前は、カバーの折り返し部分に別に記載されている。