鷹司兼輔
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背景
本申状は、広橋守光の日記『守光公記』永正10年(1513年)5月23日条に全文が記録されている。
同日の条によれば、守光はこの日、甲賀に滞在していた足利義尹の入洛を祈願するための「月待」の行が結願を迎えていた。その祈願成就を祝う中で、兼輔より自身の進退に関する相談を受け、守光が「申状をくだされば、しかるべく取り次ぎしましょう」と伝えたところ、即日この申状が守光のもとへ届けられたという経緯がある。
『守光公記』における当該背景部分は以下の通りである。
廿三日、辛卯、時々雨下、室町殿渡御甲賀則三ケ月、御入洛事為祈請月待三ケ月、今月結願、所願成就祝着也、殊雖陰及暁天奉拝、祝着無他者也、明日歟、被召右府御先途事也、賜御申状可申沙汰由申入処、則今日付渡畢、
本文
兼輔より広橋守光に提出された申状の本文は以下の通りである。
右大臣先途事、奏当職慶其以後可申請之由、種々雖致調法、逐年無力過法候条、于今不構得候、如今者此儘可沈淪之条歎思只此事候、所詮被優累家之余慶、被指置一流者為朝家可謂潤色候、無一度之拝趨居万機之重任之条、云例云儀、雖不可然澆季之作法、無力此事候、更不可足後比候、勅許無子細候者、当職相兼早々可致拝賀候、此趣可然様得奏達候者可為本望候、謹言、
五月廿三日、判、
広橋中納言殿、
当時、右大臣の地位にあった鷹司兼輔が、本来であれば就任後に行うべき「拝賀」を、長年の経済的困窮によって行えないまま年数が経過してしまっている窮状を訴える内容である。
兼輔は申状の中で、今のままでは家門が沈淪してしまうと嘆き、本来は許されない「無一度之拝趨」での在職であっても、それを「澆季之作法」として特例的に認めてほしいと懇願している。そして、もし勅許が得られるならば、早急に拝賀を行いたい旨を後柏原天皇へ奏達するよう、武家伝奏である広橋守光に依頼している。
これは戦国期の摂関家がいかに経済的・儀礼的に困窮していたかを示すとともに、格式を重んじる公家社会において、前例のない「作法」を創出してでも家の存続を図ろうとする切実な史料となっている。
関連文書
陽明文庫所蔵の手鑑『大手鑑』には、かつて一条兼良が広橋綱光に宛てた書状が収められている。この書状は、兼輔の申状と内容が極めて類似していることで知られる。
両者を比較すると、「先途事」から結びの「可為本望候」に至るまで、文章構成および使用されている語彙がほぼ完全に一致していることが確認できる(相違点は「逐年」と「遂年」、「歎思」と「歎息」、「当職」と「両職」といった微細な箇所のみである)。また、日付が同じ「五月廿三日」である点も注目される。
官歴
| 和暦(西暦) | 月日 [注 1] | 年齢 [注 2] | 事項 |
|---|---|---|---|
| 明応2年(1493年) | 3月24日(4月10日) | 14歳 | 従三位に叙す |
| 明応3年(1494年) | 3月10日(4月15日) | 15歳 | 正三位に昇叙 |
| 明応6年(1497年) | 1月12日(2月14日) | 18歳 | 権中納言に任ず |
| 明応10年/文亀元年(1501年) | 2月9日(2月26日) | 22歳 | 権大納言に転任、右近衛中将を辞す |
| 8月18日(9月30日) | 従二位に昇叙 | ||
| 文亀3年(1503年) | 6月5日(6月28日) | 24歳 | 正二位に昇叙 |
| 文亀4年/永正元年(1504年) | 12月7日(1505年1月12日) | 25歳 | 兼左近衛大将 |
| 永正3年(1506年) | 4月16日(5月8日) | 27歳 | 内大臣に任ず |
| 永正4年(1507年) | 4月6日(5月17日) | 28歳 | 右大臣に転任 |
| 永正10年(1513年) | 10月5日(11月2日) | 34歳 | 左近衛大将を辞す |
| 永正11年(1514年) | 8月29日(9月17日) | 35歳 | 関白宣下(後柏原天皇) |
| 永正12年(1515年) | 4月16日(5月29日) | 36歳 | 左大臣に転任 |
| 12月16日(1516年1月19日) | 従一位に昇叙 | ||
| 永正15年(1518年) | 3月25日(5月4日) | 39歳 | 関白を辞す |
| 4月21日(5月30日) | 左大臣を辞す | ||
| 天文11年(1542年) | 1月7日(1月22日) | 63歳 | 准三宮宣下 |