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千代田区立麹町小学校

東京都千代田区にある小学校 From Wikipedia, the free encyclopedia

千代田区立麹町小学校(ちよだくりつ こうじまちしょうがっこう)は、東京都千代田区麴町二丁目に位置する区立小学校。本項では、麴町小学校の前身にあたる旧麴町小学校(こうじまちしょうがっこう)および永田町小学校(ながたちょうしょうがっこう)、更に永田町小学校に併合した日比谷小学校(ひびやしょうがっこう)についても述べる。

過去の名称 第六番公立小学平川学校
第七番公立小学麴町女学校
第八番公立小学清水学校
麴町尋常高等小学校
麴町尋常小学校
麴町高等小学校
麴町国民学校
日比谷尋常小学校
日比谷国民学校
私立中村学校
永田町尋常小学校
永田町国民学校
千代田区立永田町小学校
千代田区立千代田麴町小学校
国公私立の別 公立学校
設置者 千代田区の旗 千代田区
併合学校 千代田区立麴町小学校(旧)
千代田区立永田町小学校
概要 千代田区立麴町小学校, 過去の名称 ...
千代田区立麴町小学校
北緯35度41分8.1秒 東経139度44分22.6秒
過去の名称 第六番公立小学平川学校
第七番公立小学麴町女学校
第八番公立小学清水学校
麴町尋常高等小学校
麴町尋常小学校
麴町高等小学校
麴町国民学校
日比谷尋常小学校
日比谷国民学校
私立中村学校
永田町尋常小学校
永田町国民学校
千代田区立永田町小学校
千代田区立千代田麴町小学校
国公私立の別 公立学校
設置者 千代田区の旗 千代田区
併合学校 千代田区立麴町小学校(旧)
千代田区立永田町小学校
設立年月日 【現・麴町小学校】
1993年(平成5年)4月1日
【旧・麴町小学校】
1875年(明治8年)5月
【旧・永田町小学校】
1906年(明治39年)10月
【旧・日比谷小学校】
1899年(明治32年)6月23日
開校記念日 2月10日
共学・別学 男女共学
学校コード B113210100013 ウィキデータを編集
所在地 〒102-0083
東京都千代田区麴町二丁目8番地
外部リンク 公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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概要

1993年に旧麴町小学校と永田町小学校(麴町区立日比谷国民学校を1944年(昭和19年)に併合[1])の新設統合により開校した[2]。千代田区南西部の住宅地や官庁街、千代田および皇居外苑などの皇室に関係するエリアを学区としている。校内には千代田区役所麴町出張所・区民館等公共施設が併設されている。

平成期に永田町小学校の学区を分けて継いだ、麴町小学校と千代田小学校は系譜上の兄弟校ということになる。

麴町小学校をはじめ千代田区立小学校は基本的に1993年の開校日から数えて周年式典を開催している。しかし隣接する千代田区立番町小学校だけは、千代田区立学校の中では唯一、廃校前の学校時代を含んだ年数で周年式典を行っていた時期もあり番町小学校のみの特別優遇措置に対して麴町小学校を含めて他学区の住民から疑問視されている。前記の通り、廃校前の学校時代を含んだ年数で数えると、麴町小学校は、2017年で130周年を迎えたことになる。

沿革

「菊と桐」の校章
麴町小学校
  • 1993年(平成5年)4月1日 - 千代田区公共施設適正配置計画により、千代田区立の小学校2校(麴町・永田町)を統合し、「千代田区立千代田麴町小学校」となる。
    • 両校併設の幼稚園も統合され「千代田区立千代田麴町幼稚園」となる。
  • 1994年(平成6年)3月9日 - 「千代田区立麴町小学校」(現校名)に改称。
  • 1995年(平成7年)
    • 2月10日 - 校歌を制定。
    • 3月9日 - 開校記念日を2月10日と定める。
  • 1996年(平成8年)
  • 2000年(平成12年)3月29日 - 新校舎建設のため、仮校舎(旧・永田町小学校校舎)に移転。
  • 2003年(平成15年)
    • 3月6日 - 麴町二丁目公共施設落成式挙行。
    • 4月1日 - 新校舎での教育活動を開始する。
  • 2005年(平成17年)4月1日 - 学校ビオトープづくりに着手。
  • 2015年(平成27年)
    • 3月31日 - コンピュータ室を普通教室に改装する。
    • 8月31日 - 図書閲覧室を普通教室に改装する。
  • 2016年(平成28年)8月31日 - 事務室、職員更衣室、PTA室を普通教室に、ひかりの輪を図書スペースに、それぞれ改装する。
  • 2018年(平成30年)4月1日 - 会議室を普通教室に改装する。
  • 2024年(令和4年)2月17日 - 開校・開園30周年記念式典挙行。
旧麴町小学校
  • 1875年(明治8年)5月 - 「第一大学区第三中学区第六番公立小学平川学校」と「第一大学区第三中学区第七番公立小学麴町女学校」、「第一大学区第三中学区第八番公立小学清水学校」が開校。
  • 1884年(明治17年)3月 - 麴町女児小学校に幼稚園(日本最古の公立幼稚園とされている[3])が併設される。
  • 1887年(明治20年)3月 - 小学校令の施行により、上記3校が統合され、「麴町尋常高等小学校」となる。尋常科(修業年限4年)を設置。3月10日を開校記念日とする。
  • 1908年(明治41年)4月 - 小学校令の改正により、義務教育年限(尋常科の修業年限)が4年から6年に延長される。「麴町尋常小学校」に改称し、高等科を「麴町高等小学校」として分離する。
  • 1923年(大正12年)9月 - 関東大震災のため、校舎が全焼。
  • 1927年(昭和2年)4月 - 復興校舎が完成。屋上に開放学級を新設。
  • 1941年(昭和16年)4月1日 - 国民学校令の施行により、「麴町国民学校」に改称。尋常科を初等科に改め、高等科を設置(初等科6年・高等科2年)。
  • 1945年(昭和20年)5月25日 - 空襲により校舎の大半を焼失。
  • 1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革(六・三制の実施)により、高等科を廃止の上「千代田区立麴町小学校」となる。
  • 1954年(昭和29年)3月10日 - 創立80周年を記念して、新校歌(旧校歌)(作詞:邦枝完二、作曲:柴田知常)を制定。歌詞は3番まであり、各番に校名の「麴町」が入っている。
  • 1964年(昭和39年)3月10日 - 創立90周年を記念して講堂が完成。
  • 1974年(昭和49年)3月11日 - 創立100周年記念式典を挙行。
  • 1993年(平成5年)3月31日 - 統合のため閉校。
永田町小学校
  • 1906年(明治39年)10月31日 - 校地が麴町区永田町1-19に決定[注 1]。
  • 1907年(明治40年)12月 - 校章を制定。剣と鏡と玉を図案化したものを組み合わせたもの。
  • 1908年(明治41年)
    • 4月1日 - 「永田町尋常小学校」が開校。
    • 4月23日 - 授業を開始。麴町・日比谷・番町の尋常小学校3校から児童が集合。私立中村学校を吸収。
  • 1920年(大正9年)8月1日 - 関東地区で最初の林間学校を調布多摩川玉華園に開設。
  • 1938年(昭和13年)4月1日 - 永田町幼稚園が併設される。
  • 1941年(昭和16年)4月1日 - 国民学校令の施行により、「永田町国民学校」に改称。
  • 1944年(昭和19年)4月1日 - 日比谷国民学校を統合。
  • 1946年(昭和21年)12月24日 - ララ委員会給与物資(ララ物資)[注 2]による学校給食を開始。
  • 1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革(六・三制の実施)により「千代田区立永田町小学校」となる。
  • 1949年(昭和24年)
  • 1953年(昭和28年)6月10日 - 校歌(作詞:山内俊次、作曲:大津三郎)を制定。
  • 1954年(昭和29年)4月1日 - 校区改定により、大手町と丸の内の各全域が千代田区立神竜小学校[注 3]の校区となる[5]。全域、先に統合した日比谷小学校の学区である。
  • 1978年(昭和53年)11月20日 - 開校70周年を記念し、永田町子どもの歌(作詞:中田英義 作曲:村井邦彦)を制定。
  • 1993年(平成5年)3月31日 - 統合のため閉校。85年の歴史に幕を閉じる。
  • 2027年度 - 解体工事予定[6]。
日比谷小学校
  • 1899年(明治32年)6月23日 - 開校式
  • 1920年(大正9年)6月 - 校歌制定。
  • 1925年(大正14年)
    • 5月1日 - 日比谷尋常小学校に特別学級3学級が設置され入学式を挙行。
    • 5月4日 - 特別学級授業を開始。
  • 1944年(昭和19年) 戦時中の混乱に伴い廃校。永田町小学校に併合。生徒は永田町小学校に受け入れる。

学区

  • 千代田区
    • 千代田
    • 皇居外苑
    • 霞が関一 - 三丁目
    • 永田町一・二丁目
    • 隼町
    • 平河町一・二丁目
    • 麴町一 - 四丁目
    • 一番町
    • 二番町(1・3・5・9・11番地)
永田町小学校(1907年3月20日時点)[7]
  • 永田町1・2丁目、平河町1-6丁目、元平河町、隼町、紀尾井町、三年町(現在の霞が関3丁目南部)
日比谷小学校(1907年3月20日時点)※
  • 宮城、元千代田町、宝田町、祝田町、大手町1・2丁目、丸ノ内1-3丁目、有楽町1・2丁目、内幸町1・2丁目、霞ヶ関1・2丁目、裏霞ヶ関町(現在の霞が関3丁目北部)

※正式な文章は現在見つかっておらず、隣接する永田町小学校学区(1907年時点)からの消去法。その後から1944年廃校までの間に学区調整が行われたかは不明。

日比谷小学校併合後の永田町小学校(1973年時点)[8]
  • 千代田、皇居外苑、有楽町1・2丁目、内幸町1・2丁目、日比谷公園、霞が関1-3丁目、永田町1・2丁目、平河町2丁目、紀尾井町
小学校の児童数と教員数[9]
さらに見る 年度, 児童総数 ...
年度児童総数1年生2年生3年生4年生5年生6年生教員数職員数
平成25年382人82人51人60人59人62人68人18人2人
平成26年406人87人79人57人59人61人63人22人2人
平成27年436人87人89人82人56人57人65人22人2人
平成28年453人85人84人90人82人51人61人23人2人
平成29年479人81人87人86人95人79人51人26人2人
平成30年505人80人81人84人87人95人78人27人2人
令和元年528人101人80人83人81人90人93人27人3人
令和2年550人95人101人84人88人87人95人28人3人
令和3年573人106人98人105人85人87人92人28人3人
令和4年573人84人107人98人108人84人92人28人3人
令和5年569人87人85人108人96人107人86人26人3人
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校章・校歌

校章は菊と桐と桜を配している。公募によるものであった。

アクセス

最寄りの鉄道駅
最寄りのバス停

前身校

旧麴町小学校

千代田区立麴町小学校(ちよだくりつ こうじまちしょうがっこう)は、東京都千代田区麴町に存在した区立小学校。 平河町5丁目の旗本屋敷に開かれた「平河学校」や、元園町1丁目に開かれた「麴町女学校」、そして江戸時代の手習指南所として山元町に開かれた私立「中村学校」などを前身とする。

皇居城西の好立地に所在した学校ということもあり、公立校でありながら、東山天皇の男系9世子孫である藤原氏上流公家末裔の公爵徳大寺実厚をはじめ上流階級の子息が通っていた。戦前において「旧制第一高等学校→帝国大学(現:東京大学)」という進学コースの一端を担った[10][11]。戦後は1960年代にかけ「麴町中学校 → 日比谷高等学校 → 東京大学」へ辿る進学ラインとして知られた[12][13]。1950年代-1960年代の公立校全盛期において全校生徒の約半数が越境通学者で占められた[12]。

校章・校歌

校章は菊と桐を配している。

永田町小学校

千代田区立永田町小学校(ちよだくりつ ながたちょうしょうがっこう)は、東京都千代田区永田町に存在した区立小学校。閉校時の住所は、東京都千代田区永田町2丁目19番1号(北緯35度40分42.3秒 東経139度44分25.5秒)。 官庁街に立地した公立小学校であった。自由民主党本部向かいにあり、多くの著名な卒業生を輩出した。二・二六事件においては反乱軍の占拠地域に入った唯一の小学校であった[14]。 閉校後には、新校舎移設の為に麴町中学校や神田女学園中学校・高等学校が仮移転するなど旧校舎が再利用されていた。

併合先に受け継がれた永田町小学校の学区

1993年で永田町小学校は、麴町小学校と千代田区立千代田小学校に分割され併合する形をとった。しかし厳密には、開校時大本の永田町小学校の学区はすべて麴町小学校へ振り分けられた。もう一方の千代田小学校に大本の永田町小学校の学区は含まれていない。1944年に永田町小学校に併合となったもう1校の日比谷小学校の学区が、現行2小学校に分割された(詳しくは日比谷小学校の学区の項にて)。

校章・校歌

校章

永田町小学校校章 戦前「鏡にふたつ勾玉に三つ剣」(三種の神器を図案化)
永田町小学校校章 戦後「国会議事堂に違い桜花葉に永字」

校歌

制定 1953年(昭和28年)、作詞 山内俊次、作曲 大津三郎

日比谷小学校

日比谷公会堂にて雛祭りを祝う日比谷小学校児童 1934年(昭和9年)2月

東京市立日比谷小学校(とうきょうしりつ ひびやしょうがっこう)は、東京都千代田区霞が関に存在した市立小学校。戦時下における学区内人口の急激な減少により廃校となり永田町小学校に吸収合併され、特別学級は現在東京都立大塚ろう学校に受け継がれている。

所在地だった東京市麴町区西日比谷町1番地は、現在の東京家庭裁判所の場所であり、備中松山藩主板倉家上屋敷の所在地でもある。1944年、廃校時の住所は東京都麴町区霞ヶ関1丁目1番地ノ2[15]。

官庁街に立地した公立小学校であった。道路を挟み東側には日比谷公園。西日比谷町時代の日比谷高等学校(東京府立第一中学校)の南隣りかつ霞関町時代の海城中学校・高等学校(海城学校)の北隣りに立地した。特に東京府立第一中学校とは日比谷小学校の校舎を一中生の生徒に利用させるなどの深い交流があった。

皇居正面に最も近い学校ということもあり、名門校として名高い小学校であったが、政治的中枢部である欠点として東京大空襲等の戦火に見舞われ、現地に日比谷小学校があった痕跡すら残っていない状態かつ日比谷小学校の廃校理由が学区内人口の急激な減少であり生存した生徒が極めて少なく、日比谷小学校を後世につむぐ伝承者も相当限られてしまった。現地に日比谷小学校の記念碑等は建てられていない。

日比谷小学校の併合先として区立永田町小学校があったが、戦後すぐに日比谷小学校の旧学区の大半を分離し神竜小学校が受け継ぐ形となり、その神竜小学校は神田小学校に吸収合併。更に神田小学校は廃校。

現在、日比谷小学校の学区は、南北を通る東京都道301号白山祝田田町線を境に西側が麴町小学校で東側が千代田区立千代田小学校で分割されている(皇居外苑を除く)。

麴町小学校に受け継がれた日比谷小学校の学区
  • 千代田、皇居外苑、霞が関1、2、3丁目北部(旧裏霞ヶ関町)※霞が関3丁目南部の旧三年町は永田町小学校の学区。
千代田小学校に受け継がれた日比谷小学校の学区
  • 大手町、丸の内、有楽町、内幸町、日比谷公園 ※千代田小学校の前身の一校、神竜小学校時代は大手町と丸の内のみ受け継がれた。

神武天皇祭、皇族の葬儀、伊藤博文の国葬、大きな神社の例祭の際は休校をとった記録が残る。

特別支援学校の草分け

東日本の特別支援学校のはしりとして、1925年(大正14年)東京市立日比谷尋常小学校に特別学級が新設。日比谷尋常小学校の特別学級には33名(男子16名・女子22名)。現在の東京都立大塚ろう学校である。

廃校後の児童の動向

戦後、廃校後の日比谷小学校の学区内の児童は、正式な併合先の永田町小学校に通学する児童(霞が関など)。中央区教育委員会の計らいにより最寄りの泰明小学校に越境通学する児童(有楽町など)。永田町小学校から学区調整により分けられ神竜小学校に通学する児童(大手町と丸の内)の3校に離散した。

泰明小学校越境通学の例。日比谷小学校の学区内であった千代田区有楽町の住民は昭和中期まで、ある程度の人口を有し児童が多く在住した。しかし廃校後は2駅先の永田町小学校へ併合が決まった。建前上は同じ麴町区かつ後の千代田区立学校に通う決まりであったが、永田町小学校は遠方である点と、10分もかからない近場の好立地に東京市京橋区のちの中央区立学校の泰明小学校が立地していたことから、中央区と千代田区の両教育委員会の計らいにより、泰明小学校への越境通学が認められた[16]。

同じ日比谷小学校の学区内であった千代田区大手町と丸の内の住民は、1954年(昭和29年)の校区改定により千代田区立神竜小学校(現在の東京都水道局中央支所、千代田都税事務所付近)に生徒が通学することとなった。大手町および丸の内は山の手の麴町地域内でありながら、距離を理由に文化が異なる下町の神田地域への通学を強いられることとなった。平成以降の大手町または丸の内の児童は皆無である。

校章・校歌

校章

東京市立日比谷小学校校章「桜花に日小字」(雄蕊は描かれていないとされる、1899年創立と同年に考案)※文字のみの情報。実物不明。

校歌

校閲 芳賀矢一 作歌 宮本爲吉(当時の校長)
1. 学びの窓の 朝な夕なに 玉の宮居を 近くに仰ぎて 六年の数を 身に積むうれしさ
2. 日比谷の園の 花のつぼみも 大和心に にほひ出てつつ いつしか御国の 春をはがざらん
※楽譜不明

出身の著名人

徳大寺 実厚
下岡 忠治
郷 誠之助
巖谷 小波
瀧 廉太郎
黒田 清輝

平川学校

麴町女學校

麴町小学校

華族
政治
官僚
軍人
学術
教育
法曹
活動家
実業
文芸
芸術
伝統芸能
芸能
スポーツ

永田町小学校

政治
官僚
学術
活動家
実業
文芸
芸術
伝統芸能
芸能
スポーツ

日比谷小学校

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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