エドメ・ボシェの肖像
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| フランス語: Le Portrait d'Edme Bochet 英語: The Portrait of Edme Bochet | |
| 作者 | ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングル |
|---|---|
| 製作年 | 1811年 |
| 種類 | 油彩、キャンバス |
| 寸法 | 93 cm × 69 cm (37 in × 27 in) |
| 所蔵 | ルーヴル美術館、パリ |
『エドメ・ボシェの肖像』(エドメ・ボシェのしょうぞう、仏: Le Portrait d'Edme Bochet, 英: The Portrait of Edme Bochet)は、フランス新古典主義の巨匠ドミニク・アングルが1811年に制作した絵画である。油彩。ナポレオン占領下のローマを統治したフランスの高級官僚の1人であったエドメ=フランソワ=ジョセフ・ボシェ(Edme-François-Joseph Bochet)を描いている。モデルの実妹であるセシル・ボシェ(Cécile Bochet)を描いた『パンクーク夫人の肖像』(Le Portrait de madame Panckoucke)の対作品。現在はパリのルーヴル美術館に所蔵されている[1][2][3][4]。
エドメ=フランソワ=ジョセフ・ボシェは有能な官僚であった父エドメ・ボシェ(Edme Bochet, 1742年-1837年)の息子として1783年に生まれた。父エドメは1760年代のルイ15世から1830年代のシャルル10世にかけて歴代の政権に仕えた。また1人の息子と5人の娘を通して、行政や芸術の分野で重要な役割を担った著名人との関係を広げた。1810年2月、ローマがフランス帝国第二の都市に指定されると、息子のボシェはナポレオンの統治下においてローマと北イタリア諸州を統治する多くの公務員の1人として派遣され、父がローマに設立した登記・国有財産管理局(Adoministration de l'Enregistrement et des Domaines)の支部を監督した。ローマでイタリア人女性のエリザベッタ・ガッリ(Elisabetta Galli)と出会い、1812年に結婚、11人の子供が生まれた。1814年にナポレオンが失脚すると帰国し、パリで公務員としてのキャリアを続けた。1852年、アングルがボシェの姪デルフィーヌ・ラメル(Delphine Ramel)と再婚した際に、ボシェは結婚式の立会人を務めた。普仏戦争中にパリを離れ、1871年に長男の住居であったノルマンディー地方カルヴァドス県のムヴェーヌにあるマロンヌ城(Château de Maronnes)で死去した[2]。
作品

アングルは当時28歳のエドム・ボシェを描いた。この肖像画はアングルが楕円形の画面に男性の肖像を描いた唯一の作品である[2]。画面の中のボシェは鑑賞者に颯爽とした印象を与える。ボシェは四分の三正面の角度で立ち、エレガントなダーク・マルーンのベルベットのコートに身を包み、流行していたノッチドカラーの襟を捲り上げている。さらにボシェは右手にステッキを持ちシルクハットを左腕の下に挟み込み、柔らかいグレーの革手袋を着用しており、まるで出掛けるボシェを見送るかのようである。こうしたボシェの服装や身振りは、早く出掛けようとしているところを画家のためにほんのひととき立ち止まっているかのような雰囲気を醸し出し、それによって肖像画はある種の心理的魅力を放っている[2]。ボシェの顔は身の引き締まるような純白の襟とクラヴァットから浮かび上がって見え、コートの下からは紋章があしらわれた濃紺のパンタロンあるいはズボンが覗いている[2]。署名は右下に「Ingres Roma 1811」と記してある[3]。
アングルは1810年にフランスの高級官僚であったシャルル・マルコット・ダルジャントゥイユの肖像画を制作した。これ以降、アングルのパトロンとなるマルコットは自身の親族や同僚にアングルを推薦したため、ローマに在住していた高官たちがアングルを訪ねた。『エドメ・ボシェの肖像』や『パンクーク夫人の肖像』、『ジョゼフ=アントワーヌ・モルテードの肖像』(Portrait de Joseph-Antoine Moltédo)、『シャルル=ジョゼフ・ローラン・コルディエの肖像』(Portrait de Charles-Joseph-Laurent Cordier)、『イポリット=フランソワ・ドゥヴィレールの肖像』(Portrait de Hippolyte-Francois Devillers)、『ジャック・マルケ・ド・モンブルトン・ド・ノルヴァン男爵の肖像』(Portrait de Jacques Marquet de Montbreton de Norvins, 1811年-1812年)といった肖像画はこうした経緯で制作された[2]。
『パンクーク夫人の肖像』は本作品の対として制作された。アングルは早くから楕円形の画面が、蛇行する線や柔らかな曲線、円を描くフォルムが際立つような女性の肖像画に特に適していると考えていた。『パンクーク夫人の肖像』の他にも楕円形の画面で『リヴィエール夫人の肖像』(Portrait de Madame Rivière)や『美しきゼリー』(La Belle Zélie)などの肖像画を制作した[2]。
来歴
アングルは完成した肖像画を1814年のサロンに出品したが、美術史家のダニエル・テルノワ(Daniel Ternois)は1814年に出品した作品が『シャルル・マルコット・ダルジャントゥイユの肖像』(Le Portrait de Charles Marcotte d'Argenteuil)だけであったと示唆している[2]。肖像画はエドメ・ボシェによって所有されたのち、1871年に7人の子供たちの所有権付きでルーヴル美術館に遺贈された。1878年に彼らはルーヴル美術館の依頼によって制作された5点の複製と引き換えに所有権を放棄した[2][3]。複製はアングルの弟子ポール・フランドランとフランドランのアトリエの画家たちによって制作された[2]。
系図
- ボシェ家の関係図
| エドメ・フェルマン・ボシェ | フランソワーズ・フィリピーナ・ド・ベリエ | ジャン・フランソワ・マリー・ベリエ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| エドメ・ボシェ | ジャン=バティスト=ジョゼフ=ドミニク・ラメル | マリー・アンヌ・フィリッピーネ・デルフィーヌ・ボシェ | フィリップ・モランド=フォルジョ男爵 | セシル・ボシェ | アンリ=フィリップ=ジョゼフ・パンクーク | シャルル・マルコット・ダルジャントゥイユ | フィリップ・マルコット・ド・キヴィエール | フェリシテ・アントワネット・ナタリー・ボシェ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| マドレーヌ・シャペル | ドミニク・アングル | デルフィーヌ・ラメル | アンリ・パンクーク | マリー・ジョゼフィーヌ・ マルコット・ド・キヴィエール | ルイ・マルコット・ド・キヴィエール | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| セシル=マリー・パンクーク | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||