ドーソンヴィル伯爵夫人の肖像

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製作年1845年
寸法131.8 cm × 92.1 cm (51.9 in × 36.3 in)
『ドーソンヴィル伯爵夫人の肖像』
フランス語: Le Portrait de la Comtesse d'Haussonville
英語: The Portrait of Comtesse d'Haussonville
作者ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル
製作年1845年
種類油彩キャンバス
寸法131.8 cm × 92.1 cm (51.9 in × 36.3 in)
所蔵フリック・コレクションニューヨーク

ドーソンヴィル伯爵夫人の肖像』(ドーソンヴィルはくしゃくふじんのしょうぞう、: Le Portrait de la Comtesse d'Haussonville, : The Portrait of Comtesse d'Haussonville)は、フランス新古典主義の巨匠ドミニク・アングルが1845年に制作した肖像画である。油彩。アングルを代表する女性肖像画の傑作として有名。裕福な貴族であるブロイ家出身の女性で、ドーソンヴィル伯爵夫人となったルイーズ・ド・ブロイ英語版を描いている[1][2][3][4][5]。アングルが当時依頼を受けた数少ない肖像画の1つで、『ロートシルト男爵夫人の肖像』(La Baronne de Rothschild, 1848年)、『ド・ブロイ公爵夫人の肖像』(La Princesse de Brogli, 1851年-1853年)および『イネス・モワテシエ夫人の肖像』(Madame Moitessier, 1856年)といった肖像画とともに、アングル後期の最も素晴らしい女性の肖像画の1つと考えられている。現在はニューヨークフリック・コレクションに所蔵されている[1][2][3][4][5][6]

ルイーズ・アルベルティーヌ・ド・ブロイ(Louise Albertine, Princess de Broglie)は、1818年に政治家外交官であった第3代ブロイ公爵ヴィクトル・ド・ブロイと、スタール・フォン・ホルシュタイン女男爵アルベルティーヌ・イダ・ギュスタヴィーネ英語版の娘として生まれた。彼女は母を通じてフランス国王ルイ16世財務総監を務めたジャック・ネッケルの曾孫であり、当時ヨーロッパで最も魅力的な女性の1人であったスタール夫人の孫娘にあたる。

1836年、18歳のとき[4][7]、後にフランス国民議会議員歴史家となるドーソンヴィル伯爵ジョゼフ・オテナン・ベルナール・ド・クレロン英語版(1809年-1884年)と結婚した。ルイーズと公爵との間には3人の子供が生まれた。3番目に生まれた末の息子は後のドーソンヴィル伯爵ポール=ガブリエル・オテナン・ド・クレロン英語版(1843年-1924年)である。

また彼女の兄弟で、後にフランスの首相となる第4代ブロイ公爵ジャック=ヴィクトル=アルベールは、1845年に『ド・ブロイ公爵夫人の肖像』(La Princesse de Broglie)のモデルとなるポリーヌ・ド・ガラール・ド・ブラサック・ド・ベアルン(Pauline de Galard de Brassac de Béarn)と結婚した[8]

高い教養人であったルイーズはエッセイスト伝記作家となり、イングランド詩人ジョージ・ゴードン・バイロン卿、アイルランドの政治家ロバート・エメット英語版アンリ2世の王女マルグリット・ド・ヴァロワの伝記を出版した[3]。1882年に死去[4]

制作経緯

未完成に終わった『ドーソンヴィル伯爵夫人の肖像』の最初のバージョン。個人蔵(左)と、紙にグラファイトと白のハイライトで描いた準備素描。フォッグ美術館所蔵(右)。いずれも1842年。 未完成に終わった『ドーソンヴィル伯爵夫人の肖像』の最初のバージョン。個人蔵(左)と、紙にグラファイトと白のハイライトで描いた準備素描。フォッグ美術館所蔵(右)。いずれも1842年。
未完成に終わった『ドーソンヴィル伯爵夫人の肖像』の最初のバージョン。個人蔵(左)と、紙にグラファイトと白のハイライトで描いた準備素描。フォッグ美術館所蔵(右)。いずれも1842年。

1845年までにアングルの名声は頂点に達し、フランス社交界の上流階級の間で絶大な人気を誇り、肖像画家として多くの依頼を受けていた。特に1841年にオルレアン公フェルディナン=フィリップから肖像画制作の依頼を受けてからというもの、フランスの貴族の間でアングルに肖像画を描いてもらうことは名誉なことと見なされた[6]。アングルは肖像画について収入が多かった一方で自身の主要な関心事であり情熱を抱いていた歴史画に比べて低位の絵画であると感じていた。しかしながら、今日アングルが最もよく知られているのはこうした肖像画によってである[9]

ルイーズの夫は結婚2年後の1838年、ヨーロッパ中の王族から寵愛を受けていた肖像画家フランツ・クサーヴァー・ヴィンターハルターに妻の肖像画を描いてもらおうとしたが、ヴィンターハルターとは面会できなかった[7]。次に2人はアングルに描いてもらうことを検討した。1840年、ルイーズと夫はローマで初めてアングルと会った。当時のアングルはフランス・アカデミーで学長を務めており、ヴィラ・メディチに滞在していた。2人はアングルの完成して間もない『アンティオコスとストラトニケ』(Antiochus et Stratonica)を見て、妻の肖像画を描く画家としてふさわしいと確信した[7]

同じ頃、60歳を迎え、自身の名声はより大規模な歴史画の仕事を通じて獲得されると信じていたアングルは[10]、「誰も彼もが肖像画ばかり欲しがります」と友人に失望する心の内を吐露した。「それらに耐えられないので、断るか避けようとしている依頼が6件あります。まあ、パリに戻ったのは肖像画を描くためではないのですが」[7]。アングルが避けたいと思っていたこれらの依頼にルイーズの肖像画が含まれていたかどうかは不明であるが、現存する準備習作から1842年夏までに依頼を引き受けていたことが分かる[10][11]。アングルは準備習作として黒のチョークで彼女をスケッチし、キャンバスに油彩画を描き始めた。この1842年の油彩画では鏡と反射像は描かれず、人物像も反転していた。画家とモデル双方から見ても肖像画の制作は容易ではなかった。ルイーズはとにかくその作業がうんざりするほど長く「飽き飽き」していた。ある時には「アングルはここ9日間、片方の手で絵を描いている」と嘆いた[12]。ルイーズは何ヶ月も国外で過ごし、そのうえ3人目の子供を妊娠したため、それ以上ポーズをとることができなくなった。アングルもオルレアン公が死去したことにより追悼のための仕事が急増したため、ルイーズの肖像画の制作を延期せざるを得なくなり[13]、1842年のバージョンは未完成のままとなった[7][14]

1843年2月、アングルは次のように記した。「私はまだ完成させなければなりません・・・もう一度やり直したいと思っていたドーソンヴィル夫人の完全なスケッチを。それは比較にならないほど素晴らしいものになるでしょう」[18]。こうしてアングルは新たな構図の作品に取り掛かり、人物像を左右反転させ、背景に大きな鏡と静物を加えた。少なくとも16点の準備習作と初期の油彩による肖像画[10][13]、数十点の衣服の習作が存在し、合わせて約60点の習作が現存している。アングルはルイーズの衣装を大幅に改訂し、表情を洗練させ、準備素描の1つに「鼻孔を窪ませる」「顎をもっと鋭く」「眼球をより小さく」「鼻をもっと細く」などの注意書きを詳細に書き加えた[7]。アングルは1845年の最初の6ヶ月間を肖像画制作に費やし、その年の夏までに描き上げた[7][10]。アングルはかつて弟子のアモリー=デュヴァルに肖像画を描くことは難しいが、女性の肖像画は特に難しいと語った。「とてもやって行けません」と彼は言った。「涙が出るほどです」[10]。アングルはルイーズの肖像画が完成しても夫人の魅力を十分に捉えきれていないと嘆いた[3]。しかし肖像画がルイーズの家族から好評を得るとアングルはようやく安堵した。「家族、友人、そして何よりも愛情深い父親(ブロイ公爵)が喜んでくれました。最後に作品の仕上げとして栄誉を与えるため、ティエール氏が、・・・わたしは同席していませんでしたが、モデルの女性といっしょに作品を見にやって来て、何度も彼女に意地悪な言葉を繰り返しました。『貴女をあんな風に描くなんて、アングル氏は貴女に恋をしているに違いない』。しかし、こうしたことで私が誇らしく思うことはありませんし、あの魅力的なモデルの優雅さをすべて伝え終えていたとも思っていません」[19]

作品

アングルの『ド・スノンヌ夫人の肖像』。1814年。ナント美術館所蔵。
アングルの『アンティオコスとストラトニケ』。1840年。コンデ美術館所蔵。
映像外部リンク
Comtesse d'Haussonville|What's Her Story?(英語)フリック・コレクション

アングルは物思いに沈んだ様子で大きな鏡の前にある化粧台あるいは暖炉にもたれかかるドーソンヴィル伯爵夫人ルイーズ・ド・ブロイを描いた。ルイーズは傾けた頭に左手を添え、その青い瞳を鑑賞者へと向けている。ルイーズは瞳と同じ色調で塗られた、幾重にも折り畳まれた冷たい青灰色英語版サテンイブニングドレスを着ており、髪を中央で分け、頭の後ろを深紅のリボンで飾っている。後頭部で鈍い光を放っている鼈甲は鏡に映ったルイーズの後ろ姿にだけ見える。化粧台の上には、筆記用具、観賞用の花が植えられた美しいセーヴル焼植木鉢扇子を入れるためのポーチ、黒のオペラグラス、豪華に装飾された東洋の壺が置かれている。夫人の傍らには椅子があり、金と赤と青のペイズリー模様のカシミアショールが掛けられている[3][20]。アングルは1814年の『ド・スノンヌ夫人の肖像』(Portrait de madame de Senonnes)で初めて使用した、画面中央の背景に配置された鏡に映る登場人物の反射像というモチーフを再び用いた[3]。鏡はルイーズの後ろ姿や化粧台に置かれた様々なものを映し出している。しかし夫人の上げた左手は夫人自身の身体に遮られ、反射像にその手をほとんど見ることができない[20]。アングルの署名と日付は画面左下に記されている[3]

アングルは巧みにルイーズの人間性を表現している。たとえば無造作に置かれたオペラグラスはルイーズのお気に入りの娯楽の1つがオペラであることを仄めかすためだけでなく、形式ばらない夫人の人間性を窺わせる。そのことは夫人のドレスによってさらに補強される。多くの鑑賞者はルイーズの肖像画が同時代の流行を忠実に反映していると考えているが、最近の研究結果により、アングルがルイーズを描いた当時、ルイーズのイブニングドレスはすでに明白に流行遅れであったことが判明している。実際に夫人は流行に無関心だったことで有名で、アングルの肖像画はまるで夫人の知性と気取らない性格が、ファッショナブルなトレンドに勝っていたことを強調するかのようである[7]

肖像画は限定された淡い青、灰色、茶色、金色、白の色調で構成されている[3]。アングルは周到に青系統の色彩を繰り返し使用した。たとえば青灰色の見事なサテンのイブニングドレスは精巧なデザインで、その襞は多彩な光を反射している。ルイーズが身に着けたアクセサリーには青色の宝石がはめ込まれている。さらに壁の色や、ルイーズが寄りかかっている家具の布張りとそのフリンジ英語版タッセルの深い青色、ペイズリー模様のカシミアショールにも青色が使用されている。このようにアングルは青を多用するだけでなく、赤を使用したリボンや鼈甲の櫛、鉢植えの花、それらが映り込んだ鏡像との対照によってさらに冷たい印象を生み出している[3]

ルイーズは慎み深い表情で画面の外の鑑賞者を見つめている[21]。アングルと同時代の美術評論家テオフィル・トレ=ビュルガー英語版は、ルイーズのポーズが思考や瞑想を象徴する古代彫像に由来するとした[20]美術史家でフリック・コレクションの名誉学芸員であるエドガー・マンホール英語版は、アングルの『アンティオコスとストラトニケ』のストラトニケとルイーズのポーズはヴァチカン美術館に所蔵されているローマ時代の女神像『プディキティア』(Pudicitia, 「慎み深さ」の意)に触発されたものであると示唆した[10][22]。さらにロバート・ローゼンブラム英語版はアングルに関する著書の中で、彼女たちのポーズをルーヴル美術館に所蔵されている讃歌と雄弁を司る女神の彫刻『ポリュヒュムニア』(Polyhymnia)と結びつけ[3][10][23]、ここでは瞑想にふけるルイーズの姿を作り上げたと述べている[3]

多くの評論家はルイーズと同じポーズをとることが解剖学的に不可能であることを指摘している。ドレスの袖に包まれた右腕は不自然に長いが[3]、それだけでなくアングルは視覚的に彼女の右腕を左肩に繋げており、まるで右腕が左肩から伸びているように見える。この物理的に不可能な入れ替えは、しかし腕を組む感覚を高める効果をもたらしている。これは解剖学正確さよりも構図の芸術的完璧さを追求したアングルの技巧である[20]

来歴

肖像画は80年間、ドーソンヴィル伯爵家が所有していたが、折に触れて公開展示された。1846年にパリで開催されたバザール・ボンヌ=ヌーベル展(Exposition du Bazar Bonne-Nouvelle)で、『グランド・オダリスク』(La Grande Odalisque)、『奴隷のいるオダリスク』(L'Odalisque à l'esclave)と並んで初めて公開された。3作品はフランスの詩人シャルル・ボードレールによって「官能的」であると称賛された。展覧会後、ボードレールはアングルを女性を描く画家の真骨頂と評し、肖像画をアングルの最高の偉業と評した[24]。このときの反響についてアングルは「家族や友人の間で嵐のような称賛を巻き起こした」と友人宛の手紙に書いている[4]

その後、肖像画は1855年の第1回パリ万国博覧会、アングルが死去した1867年に催された回顧展、そして1874年、1910年に展示され、1889年と1910年には版画が制作された。また写真版も流通した[10]。1924年に息子のドーソンヴィル伯爵ポール=ガブリエルの死後、その子孫は肖像画を美術商ジョルジュ・ヴィルデンシュタイン英語版に売却した[4]。1927年、フリック・コレクションはこれをヴィルデンシュタインから12万5000ドルで購入した[20]ヘンリー・クレイ・フリック英語版の邸宅が1935年に美術館として開館して以来、肖像画はニューヨークで継続的に一般公開されている。フリック・コレクションは美術品の貸し出しを行わないことでも有名である。これは1919年に死去したフリックの遺贈の条件により、創設者によって生前購入された美術品はニューヨークから持ち出すことを禁じられている。しかしフリックが直接購入した作品とは異なり、1927年に購入された『ドーソンヴィル伯爵夫人の肖像』は他の美術館で開催された展覧会その他への貸し出し可能となっている[20][25]

ギャラリー

関連画像
準備素描

脚注

参考文献

外部リンク

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