ラファエロとラ・フォルナリーナ

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製作年1814年
寸法64.8 cm × 53.3 cm (25.5 in × 21.0 in)
『ラファエロとラ・フォルナリーナ』
フランス語: Raffaello e la Fornarina
英語: Raphael and La Fornarina
作者ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル
製作年1814年
種類油彩キャンバス
寸法64.8 cm × 53.3 cm (25.5 in × 21.0 in)
所蔵フォッグ美術館マサチューセッツ州ケンブリッジ

ラファエロとラ・フォルナリーナ[1][2]あるいは『ラファエロとフォルナリーナ[3][4]: Raffaello e la Fornarina, : Raphael and La Fornarina)は、フランス新古典主義の巨匠ドミニク・アングルが1814年に制作した歴史画である[5]油彩。主題はルネサンス期を代表する巨匠ラファエロ・サンツィオとその恋人であるラ・フォルナリーナ(パン屋の娘)との伝説的な愛から採られている。アングルはこの主題を繰り返し取り上げており、1813年から1867年に死去するまでの間に6点のバージョンを制作した[2][6]。本作品はそのうち最も初期に描かれたバージョンの1つで[7]スイス出身の銀行家で美術収集家のプルタレス=ゴルジエ伯爵ジャム・アレクサンドルのために制作された[4]。翌1814年にはその年のサロンに出品されている[8]。アングルはラファエロが自身の工房でラ・フォルナリーナとともに過ごしている様子を描いた。ラファエロの抱擁はラ・フォルナリーナに対する愛情と欲望を反映しており、自身の作品である恋人の肖像画に向けた視線は芸術に対する愛を示している[9]。この対比は恋人と芸術との狭間にある画家の大きな葛藤を表している[9]

アングルはジョルジョ・ヴァザーリとアンジェロ・コモリ神父(Angelo Comolli)によるラファエロの伝記を通してその生涯を徹底的に研究し、ラファエロの生涯に関する連作絵画の制作を計画していたが、最終的に制作したのは『ラファエロとラ・フォルナリーナ』および『ラファエロの婚約』(Les Fiançailles de Raphaël)のわずか2作品にとどまった[3][4][10]。ラ・フォルナリーナは背景に配置されたラファエロの『小椅子の聖母』(La Madonna della Seggiola)の聖母マリアだけでなく、アングルが描いた『グランド・オダリスク』(La Grande Odalisque)ともよく似ている[11]。この並行関係は望むものを描いているときの両者の間にあるつながりを強調している[12]。現在はマサチューセッツ州ケンブリッジフォッグ美術館に所蔵されている[1][3][2][4][6][13][14]。また素描によるバージョンがパリルーヴル美術館[15]、油彩による背景や姿勢の異なるバージョンがオハイオ州コロンバス美術館に所蔵されている[1][2][4][16]

ドミニク・アングルの『ラファエロの婚約』。ウォルターズ美術館所蔵[17]

『ラファエロとラ・フォルナリーナ』はラファエロの2つの伝記、16世紀イタリアの画家・伝記作家ジョルジョ・ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』と、18世紀のアンジェロ・コモリの『ウルビーノのラファエロの生涯』に基づいている[18]。ヴァザーリはラファエロの恋人について複数回言及しているが、同一の女性を指しているのか、複数の女性を指しているのかどうかは不明瞭である[9]。ラファエロの恋人の正体は依然として不明であったが、18世紀には「パン屋の娘」を意味するラ・フォルナリーナという名前が付けられ、19世紀にはシエナのパン屋の娘マルガリータ・ルティ英語版であることが確認された[9][19]

ラファエロの親友であったバヴィエラ(Bavaria)は、画家が恋人であるラ・フォルナリーナの息を呑むような肖像画を描いたと述べ、それを「生きているモデル以上の」ものであったと表現した[9]。さらに、ヴァザーリはラファエロの性的欲求についても論じている。ヴァザーリによると親友アゴスティーノ・キージ英語版はラファエロがヴィラ・ファルネジーナの豪華な部屋を完成させる気を起こすよう、恋人を画家の宿舎に住まわせたという逸話を明かしている[9]。最後にヴァザーリは「ラファエロは多情で女性を好み、常に奉仕を強いていた」と報告している[9]

ヴァザーリや他の著述家によると、美しいラ・フォルナリーナはラファエロの死を象徴し、彼を死へと誘う存在である[20]。ヴァザーリは「ラファエロは性行為による疲労で死去した」と述べており、他の伝記作家たちはラファエロの死に関して彼の恋人を非難さえした[20]。1790年に出版されたラファエロの伝記の中で、アンジェロ・コモリ神父は次のように記している。

哀れなラファエロ・・・破滅的な情熱を必死に追い求め・・・美しい女性への情熱は常に燃え盛り、そしてその情熱は彼が没落する原因となってしまいました。確かに、ラファエロは芸術の美を女性たちの美しい容貌から導き出していたので、彼が女性そのものに夢中だったのではなく、美しい女性に心を奪われるのだとしばしば公言していなければ、私はそれを女性への渇望と呼んでも良かったでしょう。しかし結末はそうではなかったことが判明し、あまりにも情熱に負けすぎたために、彼の時代はあっけなく終わってしまったのです。ああ、なんという屈辱だろう! ウルビーノのラファエロ、宇宙最高の画家、全盛期にあった最も美しい天才、見よ、その彼が一人の女、しかもあのような女によって貶めたのだ![5]

オノレ・ド・バルザックのような19世紀の伝記作家たちは、恋人に関する記述を、自らの道徳的信念、特に厳格な聖母と娼婦二元性に基づいて構築した[21]

制作背景

18世紀末にかけて、有名な芸術家の生涯を称賛する絵画がブルジョワジーの間で人気を博し、パリのサロンで展示された[3]。19世紀初頭にはルネサンス期の巨匠に対する関心が高まり、特にラファエロに取材した作品は様々な画家によって制作されるようになった。その先駆けと言えるものは1804年のサロンに出品されたニコラ・アンドレ・モンシオー英語版の『ラファエロの死』(La morte di Raffaello, 所在不明)である[2][3]。新古典主義の画家たちはその芸術の模範としてラファエロを最高峰の画家と見なしたため、必然的にラファエロはこの時代の画家たちによって主題として多く取り上げられることとなった[2]。アングル自身はトゥールーズの師匠のアトリエで『小椅子の聖母』の複製を見て以来、ラファエロの作品と人生に興味を持つようになったと言われている[22]。その後、アングルはローマ大賞を受賞し、イタリアで学ぶ機会を得ると[23]、早くもイタリア滞在中に『ラファエロとラ・フォルナリーナ』を制作し、パリで展示した[23]

作品

ラファエロ・サンツィオの『小椅子の聖母』(左)と『自画像』(中央)、いずれもウフィツィ美術館所蔵。同じく『ラ・フォルナリーナ』(右)。国立古典絵画館所蔵。 ラファエロ・サンツィオの『小椅子の聖母』(左)と『自画像』(中央)、いずれもウフィツィ美術館所蔵。同じく『ラ・フォルナリーナ』(右)。国立古典絵画館所蔵。 ラファエロ・サンツィオの『小椅子の聖母』(左)と『自画像』(中央)、いずれもウフィツィ美術館所蔵。同じく『ラ・フォルナリーナ』(右)。国立古典絵画館所蔵。
ラファエロ・サンツィオの『小椅子の聖母』(左)と『自画像』(中央)、いずれもウフィツィ美術館所蔵[30][31]。同じく『ラ・フォルナリーナ』(右)。国立古典絵画館所蔵。

アングルはラファエロが自身の工房で、ラ・フォルナリーナを膝の上に乗せながら座る様子を描いた。ラファエロは彼女の肖像画のスケッチを描き終えたところなのだろう。画面右端のイーゼルには制作途中の有名な肖像画『ラ・フォルナリーナ』(La Fornarina)が置かれている。しかし今はラファエロの作業は中断され、肖像画のモデルを務めていた愛しい恋人がイーゼルに背を向けたラファエロの膝の上に座っている。ラ・フォルナリーナは鑑賞者のほうに視線を投げかけており、画家の肩に右腕を置いている。彼女のポーズは活力に満ち、情熱的であり、優雅で生き生きとしている。ラ・フォルナリーナは画家を抱きしめながらも、同時に身を引いてラファエロから離れているようにも見える[3]。一方のラファエロは両手でラ・フォルナリーナを抱きしめているが、その視線は背後の制作途中の肖像画に向けられている。ラ・フォルナリーナの姿勢、特に画家の肩に右腕を置く様子は彼女がラファエロの恋人であり、偉大な芸術家のインスピレーションの源となっていることをどれほど誇りに思い満足しているかを示している[9]。鑑賞者を見つめるラ・フォルナリーナの官能的な視線は、画家の工房と職業における彼女自身の重要性と地位を主張している[32]評論家美術史家ロザリンド・E・クラウスは、ラ・フォルナリーナの魅惑的な視線について、彼女がラファエロの作品を見て、理解し、称賛した後に初めて抱きしめられたことを示唆すると解釈している[33]。ラ・フォルナリーナは頭にスカーフターバンを巻き、緑のベルベットガウンを着ており、製の宝飾品で身を飾っている[34]。ターバンはイタリアの盛期ルネサンス美術に見られる典型的な髪型である[35]。彼女の肌や、むき出しの肩、襞のあるドレスは、彼女の肉体の魅力を強調している[21]。アングルは『ラ・フォルナリーナ』に描かれた肖像に基づいてラファエロの恋人を描いており[3][36]、またラファエロについてはウフィツィ美術館に所蔵されている画家の『自画像』(L'Autoritratto)に基づいて描いた[3]。窓の外にはヴァチカンの風景、特にラファエロが有名なフレスコ画を描いた聖ダマソの中庭(Cortile di San Damasco)が描かれており、ラファエロがローマの中心にいることが表現されている[34]。室内の壁にはラファエロの別の絵画『小椅子の聖母』が立て掛けられている[3]。アングルは絵画の制作において細部にもこだわった[37]。この作品は単にルネサンスの偉大な人物を題材としているだけでなく、石柱、イーゼル、肘掛け椅子スツール英語版などの家具を画面に組み込み、彩色されたタイルで梯子のごとき幾何学模様の床を作り出しており、ルネサンス期の工房の情景を精密かつ親密に描き出したトルバドゥール様式英語版の好例となっている[3][7]

ドミニク・アングルの『グランド・オダリスク』。ルーヴル美術館所蔵[38]

生きているラ・フォルナリーナとキャンバスの上で理想化されたラ・フォルナリーナとの対比は絵画の中核をなしている。ラ・フォルナリーナはラファエロの生涯の中に物理的に存在しているが、彼女はまた画家の想像力で写し取られた肖像画の中でも生きている。ラ・フォルナリーナの肖像画の完璧な類似性は、アングルとラファエロの芸術的才能を示している[18]。一方、ラ・フォルナリーナの容貌と衣装はどちらの作品においても『小椅子の聖母』に類似しており、ラファエロの恋人を聖人のように見せている[3][4]。背景に描かれた『小椅子の聖母』において、アングルは聖母マリアとラ・フォルナリーナの類似性を強調するため、意図的に画面中央から画面右に配置された幼児キリスト洗礼者ヨハネの図像を隠した[32][22]。容貌と姿勢の類似性、特にラ・フォルナリーナとラファエロの抱擁は、息子を抱きしめる聖母マリアの姿に似ている[11]。また一方で恋人の描写とアングルの『グランド・オダリスク』の間には強い類似点が見られる[11]。美術史家ウェンディ・リークス(Wendy Leeks)は、「これらの作品において、聖母マリアとオダリスクは単なる姉妹ではなく一体である」と述べている。「これらの図像は女性に対する男性の性的欲望と、母に対する息子の敬虔な愛という、2つの異なる種類の感情的反応を融合させているように見える」[11]

ラファエロは恋人を抱きしめているが、ラファエロの顔は恋人つまり自身の欲望に背を向け、自身の作品を観察し賞賛している。ラファエロは恋人への愛と自らの使命のどちらかを選択しなければならないという決断に直面しているのである[10]。彼女は邪魔者であり、ラファエロの没落につながるだろう。しかし彼女とラファエロの芸術は密接に結びついている。なぜなら彼女は美を象徴し、美こそがラファエロとラファエロの芸術作品のインスピレーションの源泉だからである[10]

アングルとラファエロ

ドミニク・アングルの『78歳の自画像』。アントワープ王立美術館所蔵[39]

美術史家フランシス・ハスケル英語版によると、過去の偉大な画家の生涯を主題として選択することについて、画家自身を過去の偉大な画家と重ね合せる意味合いがあると指摘している。本作品の場合、アングル自身はラファエロに、また発注者であるプルタレス=ゴルジエ伯爵はラファエロを重用したローマ教皇ユリウス2世などの有力者と重ねることができるとしている[2]

一方、最初のバージョンが描かれた1813年にアングルは最初の妻マドレーヌ・シャペル英語版と結婚しており、ロバート・ローゼンブラム英語版はこれをきっかけにラファエロの女性関係に焦点を当てるようになったのではないかと考えている[3][4][6]

アンリ・ラポーズフランス語版の『アングル氏の恋愛物語』(Le Roman d'amour de M. Inges)では、アングルおよびラファエロの女性との関係や出会いが対比・分析されている[12]。ラファエロはメディチ家ビッビエーナ枢機卿英語版の姪と婚約していたが、平民と寝ていたため姦通者と見なされた[12]。アングルは恋愛関係を3つしか持たず、女性に囲まれていたことで知られてはいたものの、放蕩者ではなく、騎士道精神にあふれた紳士として評判であった[12]。ある女性に宛てた手紙の中で、アングルは「私は女性の奴隷として生き、女性の奴隷として死ぬ」と書いている[12]

ラファエロは37歳のときに放蕩のため死去したと言われており、ラ・フォルナリーナとの関係はおそらく致命的な悪徳であったとされている[12]。マリー・ラザーズ(Marie Lathers)が書いているように、このラファエロの死に関するイメージはバルザックによって補強された。「バルザックはラファエロのウルビーノの(d'Urbino)物語を書き直した際、主人公を淫らな抱擁の中で死なせ、死に際の喘鳴は喉頭が発するであろう欲望の言葉を覆い隠した」。『ラ・フォルナリーナ』は愛人を描いたという不名誉な作品からラファエロを切り離すためラファエロの弟子ジュリオ・ロマーノの功績とされることが多かった。対照的に、アングルはおそらく妻を助けようとして冷たい風にさらされたのち、肺炎に罹って86歳で死去した[12]。こうした差異は画家たちとその欲望との関係についての認識を形成している[12]

来歴

プルタレス=ゴルジエ伯爵は1855年に死去するまで絵画を生涯所有し続けた。それから10年後の1865年に伯爵のコレクションは競売にかけられ、ロスチャイルド家ナサニエル・ド・ロスチャイルドによって購入された。ナサニエル・ド・ロスチャイルドの死後、絵画は義理の娘ジェームズ・ド・ロスチャイルド夫人、さらに夫人の息子アンリ・ド・ロスチャイルド英語版に相続された。その後、アンリ・ド・ロスチャイルドはマーティン・バーンバウム(Martin Birnbaum)を通じてグレンヴィル・L・ウィンスロップ英語版に絵画を売却。ウィンスロップは1943年に絵画をフォッグ美術館に遺贈した[2][6]

他のバージョン

アングルは1813年に最も初期のバージョンを制作した。この作品はラトビア共和国リガ美術館英語版に所蔵されていたが1941年に失われた[4][15]。本作品が制作されたのはその1年後であり、その後もさらに4つのヴァージョンを、1825年、1830年、1846年、1860年に制作した[8]。どのバージョンにおいても、ラファエロとラ・フォルナリーナの組み合わせに大きな変化はないが、その身振りや、周囲および背景の道具立てなどの細部に様々な変化が加えられている[4]。アングルは1860年に再びこの主題を取り上げた理由を次のように説明している。「私はラファエロとラ・フォルナリーナの絵画、この主題における最後の版を再び取り上げる。これにより他のバージョンを忘れ去らせることを願っている」[37]。この最終バージョンは1867年にアングルが死去した時点で未完成のままであった。アングルは同主題の署名入りデッサンも1点制作した[7]。ロザリンド・クラウスは、アングルが「完璧さの追求」のために様々なバージョンを制作したという説に異を唱え、次のように述べた。

この反復性の運動を通して、その「完全性」はあらかじめ破壊されてきた。なぜなら、(そしてこれはまさにしくアングルの「意図」ではないにせよ「実践」であった)それぞれの反復は常にモデルの再文脈化(スケール、媒体、場所の変化)であったからである。したがってそれぞれの反復も同様に意味の変化を含む。これはモデル自身が常に、そしてあらかじめ開かれていた変化である。モデルの「真実」、その絶対性、不可分な自己存在は、理論上はともかく、決して実現不可能であった[40]

ギャラリー

脚注

参考文献

外部リンク

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