フランソワ=マリウス・グラネの肖像

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製作年1809年
寸法75 cm × 53 cm (30 in × 21 in)
『フランソワ=マリウス・グラネの肖像』
フランス語: Le Portrait de François-Marius Granet
英語: The Portrait of François-Marius Granet
作者ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル
製作年1809年
種類油彩キャンバス
寸法75 cm × 53 cm (30 in × 21 in)
所蔵グラネ美術館エクス=アン=プロヴァンス

フランソワ=マリウス・グラネの肖像』(フランソワ=マリウス・グラネのしょうぞう、: Le Portrait de François-Marius Granet, : The Portrait of François-Marius Granet)は、フランス新古典主義の巨匠ドミニク・アングルが1809年に制作した肖像画である。油彩。画家の友人である風景画家フランソワ=マリウス・グラネを描いている。アングル初期のローマ滞在期に描かれた肖像画の1つで、アングルの肖像画の中でも特にロマン主義的な肖像画の1つとして知られる。現在はエクス=アン=プロヴァンスグラネ美術館に所蔵されている[1][2][3][4][5][6]。またモントーバンアングル・ブールデル美術館に素描による胸像の複製が所蔵されている[4][7]

フランソワ=マリウス・グラネは1775年に南仏ブーシュ=デュ=ローヌ県エクス=アン=プロヴァンスに生まれた。風景画家ジャン=アントワーヌ・コンスタンティン英語版のもとで学んだのち、1798年に同県出身のルイ・ニコラ・フィリップ・オーギュスト・ド・フォルバン英語版伯爵の招きを受けてパリに移り、ジャック=ルイ・ダヴィッドに師事した。アングルとはダヴィッドのアトリエで知り合ったが、アングルのように歴史画を目指していたわけではなかった[4]。その後、授業料の支払いが困難となるが、ダヴィッドのアトリエを去った後もルーヴル美術館の作品を模写して生計を立てながら独学で学んだ。するとグラネはすぐに独自の才能を開花させ、中世の教会内部や地下聖堂など、中世への郷愁を感じさせる画題を開拓していった。1799年と1800年のサロンで初めて作品を発表すると、アングルよりも早い1802年にイタリア留学を果たし、風景画家としての地位を確立していくことになる[4]。アングルとの友情は当初は良好で、アングルはグラネの風景画に影響を受け、いくつかの肖像画の背景はグラネが描いたと見なされるほどであった。しかしグラネの成功はアングルとの友情に亀裂を生じさせた。歴史画を最も優れたジャンルと見なすアングルは、グラネがより低俗な風景画家としての成功に甘んじているように見えたのである。両者の友情が回復するにはアングルが『ルイ13世の誓願』(Le Vœu de Louis XIII)によって社会的に成功する1824年まで待たねばならなかった[4]。後にアングルのアトリエで保管されていた『ユピテルとテティス』(Jupiter et Thétis)を購入し、エクス=アン=プロヴァンスの公的コレクションへと移したのは他ならぬグラネであった。1849年に故郷であるエクス=アン=プロヴァンスで死去。

作品

クイリナーレ宮殿北側正面を望む風景。
ドミニク・アングルの『ジョゼフ=アントワーヌ・モルテードの肖像』。1810年頃。メトロポリタン美術館所蔵[8]

画家としてすでに大きな成功を掴んでいたグラネはローマの風景を背に立ちながら穏やかな表情を鑑賞者に向けている。グラネはクイリナーレ宮殿の北側正面と水道橋を望む、ピンチョの丘にあるメディチ邸サンティッシマ・トリニタ・デイ・モンティ教会英語版近くの高台に立っている[2][4]。グラネは堂々とした姿勢で立っているが[2]、その身体と顔と視線はそれぞれ異なる方向を向き、身体はほとんど側面を見せるように画面右を向き、顔だけを正面の鑑賞者のほうに向け、視線を画面左に向けている。背後の空は今にも崩れそうなほどに黒雲が広がっている。アングルはグラネをこの迫りくる黒雲の前に描くことで強烈でありながらも魅力的な雰囲気を肖像画に与えつつ[4]、グラネの堂々とした姿勢を引き立てており[2]、ローマの天候の鮮烈な印象を呼び起させるとともに、その直接的な描写により画家たちの間にある強い友情を感じさせる[4]。そして高い襟の折り返しや、もつれた髪、決然とした表情などの要素は、黒雲と同様に背後のローマの風景よりも高い位置にあり、力強い創意となっている[2]

グラネは短いケープが付いた厚手のキャリックコートを着ている。洗濯糊の利いた白いシャツの襟はもみあげまで広がり、黒いクラヴァット英語版で留めている。グラネは右手にスケッチブックを持っている。スケッチブックの表紙にはNの字が左右反転したグラネの名前(GRANET)が記されている。また右手の人差し指には大型のバロックパール英語版をあしらった指輪をはめている[4]

グラネの肖像画はアンヌ=ルイ・ジロデ=トリオゾンの『フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンの肖像』(Portrait de François-René de Chateaubriand)やトーマス・ローレンスの『イートン・カレッジの生徒としてのアーサー・アザーリーの肖像』(Portrait of Arthur Atherley as an Etonian)などの19世紀初頭のロマン主義を代表する肖像画群に数えられる。これらの作品ではいずれも背後の風景に描かれた天候が肖像画の壮大なスケール感を伝えている[4]

対して背後のローマの風景、多くの建物や木々の葉の大胆な描写と繊細な色調はグラネの風景画を彷彿とさせる。この風景の作者については、『ジョゼフ=アントワーヌ・モルテードの肖像』(Portrait de Joseph-Antoine Moltédo)、『シャルル=ジョゼフ=ローラン・コルディエの肖像』(Portrait de Charles-Joseph-Laurent Cordier)、『ニコライ・ドミトリエヴィチ・グーリエフ伯爵の肖像』(Portrait de Comte Nikolaï Dmitrievitch Gouriev)と同様に多くの議論がなされてきた。早くも19世紀にはコルディエの娘のモリティエ伯爵夫人(Comtesse Moritier)によってグラネが父親の肖像画の背景を描いたことが示唆された。この示唆に基づいて、フランスの美術史家エレーヌ・トゥーサン(Hélène Toussaint)は、風景が描かれたアングルのイタリア時代の4点すべての肖像画でグラネが風景を描いたと考えた[4]。グラネ美術館に所蔵されているグラネが戸外で描いた数多くの油彩習作の中にクイリナーレ宮殿のマニカ・ルンガ(Manica Lunga)を描いたものがあり、アングルの肖像画の右背景の風景と類似している。両作品は技法の点でも似ており、丘の中腹や長い建築構造物などの領域で平らにならされた絵具は水彩画のように薄く流動的である。アングルは多才な画家であり、肖像画の人物の性格や状況に合わせて自ら背景を描いた可能性が高く、モイテードとコルディエの肖像画の背景をグラネに倣って描いたとしても不思議はない[4]。この風景は薄く平面化され、グラネのすぐ後ろの欄干と平行する水道橋や建物の屋根によって前景の浅い空間の中に織り込まれており、後のポール・セザンヌを予期させる前景と後景の統合がなされている[2]

制作年は正確には不明であるが、本作品の後に制作された素描の複製に署名と1809年という制作年が記入されていること、アングル自身による作品リストにおける位置、またアングルが1850年にグラネ美術館の館長に宛てた手紙の中でグラネの肖像画を1809年頃に描いたことについて言及していることから、1809年の作と考えられている[4]

来歴

グラネは肖像画を生涯にわたって所有し続けた。グラネの死後は画家のアトリエとともにエクス=アン=プロヴァンス市に遺贈され、グラネ美術館に収蔵された[4]

ギャラリー

アングルによるグラネを描いた他の肖像画
関連作品

脚注

参考文献

外部リンク

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