オシアンの夢

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製作年1813年
寸法348 cm × 275 cm (137 in × 108 in)
『オシアンの夢』
フランス語: Le Songe d'Ossian
英語: The Dream of Ossian
作者ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングル
製作年1813年
種類油彩キャンバス
寸法348 cm × 275 cm (137 in × 108 in)
所蔵アングル・ブールデル美術館モントーバン

オシアンの夢』(オシアンのゆめ、: Le Songe d'Ossian, : The Dream of Ossian)は、フランス新古典主義の巨匠ドミニク・アングルが1813年に制作した絵画である。油彩。主題はジェームズ・マクファーソンゲール語の文献をもとに翻訳し、ヨーロッパ中で熱狂的に受け入れられたスコットランドの伝説的詩人オシアンの作とされる叙事詩『オシアンの詩』(Poems of Ossian)から採られている。アングルのローマ時代の作品で、ローマ教皇ピウス7世が追放された後のモンテ・カヴァッロ宮殿を装飾し、ローマ入りするナポレオンを迎えるために『敗者アクロンの武具をユピテル神殿に運ぶロムルス』(Romulus, vainqueur d'Acron, porte les dépouilles Opimes au temple de Jupiter)とともに発注された。現在はモントーバンアングル・ブールデル美術館に所蔵されている[1][2][3][4][5][6][7][8]

敗者アクロンの武具をユピテル神殿に運ぶロムルス』。1812年。パリ国立高等美術学校所蔵。
フランソワ・ジェラールの『ローラ川の岸辺にてハープを奏でることで亡霊を呼び出す吟遊詩人オシアン』(左)とアンヌ=ルイ・ジロデ=トリオゾンの『祖国のために死せるフランスの英雄たちの礼讃』(右)。どちらも1801年の作品、マルメゾン城美術館所蔵。 フランソワ・ジェラールの『ローラ川の岸辺にてハープを奏でることで亡霊を呼び出す吟遊詩人オシアン』(左)とアンヌ=ルイ・ジロデ=トリオゾンの『祖国のために死せるフランスの英雄たちの礼讃』(右)。どちらも1801年の作品、マルメゾン城美術館所蔵。
フランソワ・ジェラールの『ローラ川の岸辺にてハープを奏でることで亡霊を呼び出す吟遊詩人オシアン』(左)とアンヌ=ルイ・ジロデ=トリオゾンの『祖国のために死せるフランスの英雄たちの礼讃』(右)。どちらも1801年の作品、マルメゾン城美術館所蔵。

絵画の題材となったオシアンは3世紀頃に生きた盲目のスコットランドの伝説的な詩人であるとされている。1760年代、ジェームズ・マクファーソンはオシアンの作品とされるテキストを『オシアンの詩』として出版した。マクファーソンはオシアンの詩を再発見し、ゲール語から英語に翻訳したと主張した[9][10]。マクファーソンの翻訳作品はイギリスで成功すると、オシアンに対する熱狂はヨーロッパ全土に波及した。詩の1つは早くも1762年にフランス語に翻訳され、全集は1777年に翻訳された。後のフランス皇帝ナポレオンが読んだのはメルキオーレ・チェザロッティによるイタリア語訳であったが[11]、オシアンの熱烈な崇拝者となり、戦場にオシアンの作品を携行したとさえ言われる[6]

フランスの芸術家がオシアンに注目したのはヨーロッパの他の国々に比べると比較的遅かったものの[3]、ナポレオンの庇護は多くのオシアン作品を制作する大きな動機となった[12]。ナポレオンは1800年、建築家シャルル・ペルシエ英語版ピエール=フランソワ=レオナール・フォンテーヌ英語版に夏の離宮であるマルメゾン城の装飾を命じた。翌1801年、ペルシエとフォンテーヌはフランソワ・ジェラールアンヌ=ルイ・ジロデ=トリオゾンに絵画を発注し[3][13][14][15]、両画家はそれぞれオシアンを主題とする絵画『ローラ川の岸辺にてハープを奏でることで亡霊を呼び出す吟遊詩人オシアン』(Osian evoking the spirits on the banks on the Lora to the sounds of his harp)と『祖国のために死せるフランスの英雄たちの礼讃』( Apotheosis of the French Heroes that Died for the Fatherland during the War of Liberation)を制作した[4]。また作曲家ジャン=フランソワ・ル・スュールは1803年のオペラ『オシアン、あるいは吟遊詩人』(Ossian, ou Les bardes)をナポレオンに献呈しており、ナポレオンは1804年の同オペラの初公演に出席している[6][16]

アングルはナポレオンと同様に『オシアン』の崇拝者であり[17]ローマフランス・アカデミー在学中の1809年に『オシアンの夢』の素描を描いている。1810年から1812年にかけて、アングルはローマのフランス総督セクスティウス=アレクサンドル=フランソワ・デ・ミオリス英語版から、かつて教皇ピウス7世の居間であったモンテ・カヴァッロ宮殿のために2点の大作を発注された[18][19][20]。これらの絵画はそれぞれ皇后マリー・ルイーズの居間の室内装飾、皇帝ナポレオン1世の寝室の天井画とすることを意図していた。アングルは前者については1812年に『敗者アクロンの武具をユピテル神殿に運ぶロムルス』を制作した[21]。また後者については1813年に『オシアンの夢』を制作し、完成するとナポレオン寝室の天井に設置された[22][23]。アングルはマルメゾン城を装飾するために制作されたフランソワ・ジェラールの1801年の絵画に触発された[13][24]。アングルはジェラールの絵画のリトグラフを所有しており、細部をスケッチしていたことが知られている[6]。いくつかの構図上の選択はまた面識があったル・スュールのオペラから影響を受けた可能性がある[6]。アングルは『オシアンの夢』を完成させる以前に先立って、1806年から1811年にかけて頻繁に上演されていたル・スュールのオペラを観劇していたと見られる[18]。さらにアングルの絵画の習作における人物像と輪郭線の技法が、イギリスの芸術家ジョン・フラックスマンの1792年のイラスト『神々の会議』(The Council of the Gods[25]に由来するとする仮説もある[26]

アングルは1813年の絵画完成と前後して『オシアンの夢』の様々なバージョンを制作した[27]。1983年の時点で、アングルによる同主題の素描は9点存在した[22]。これらにはスコットランド国立美術館所蔵の1811年の鉛筆とチョークによる作品と[28]ハーバード美術館所蔵の1832年から1834年頃の水彩画が含まれる[29]

作品

アングルはハープに寄りかかりながら夢を見るオシアンを描いた。オシアンは岩だらけの風景の中央前景に座り、猟犬に付き添われて眠っている。オシアンの頭上の人物たちは、絵画のタイトルにもなっている彼の夢に現れた過去の亡霊である[30][31]。この夢の画面右には槍と盾で装備したオシアンの息子オスカルが立っており[32] 、画面左には右手に弓を持ち、左手をオシアンに差し出た女性が座っている。この女性像は一般的にオシアンの妻エヴィラリナ(Evirallina[32][6]、あるいはオスカルの妻マルヴィーナ(Malvina)と解釈される[30][31]。オシアンの父フィンガルはその後方で戦士団を率いており、戦士たちの何人かは裸の女性たちに抱擁されている。夢の中央では長髪の雪の王スタルノ(Starno)が座っており、その前で4人の乙女が雲の中でハープを弾いている[6][22]

絵画に描かれた場面の文学的出典は、ジェームズ・マクファーソンの『オシアンの詩』に収録された「イニストナ戦争」(The War of Inisthona)の一節である。この一節はマルヴィーナのハープがどのようにしてオシアンが眠りに落ちるようにうっとりさせたかを物語っているが、その間にオシアンは過去の夢を見る[31]。この場面はル・スュールのオペラ『オシアン、あるいは吟遊詩人』第4幕第3場でも描写されており、このオペラと同様に絵画は武装した戦士とその恋人たちの描写を含んでいる[27]。絵画に描かれた4人のハープ奏者はアングルが同オペラを参照した可能性があることを示している[6]

アングル自身は絵画の主題について次のように述べている。

舞台はアイルランドであった。フィンガルの最後の偉業において、弱者や虐げられた者たちを守るために貢献した槍を厳粛にオシアンに託した。その後、盲目と病に苦しみ、父を亡くし裏切りによって息子オスカルを殺害されたオシアンは、友人たちの功績を称える歌を詠むことで自らの不幸と悲嘆を紛らわせた。彼はしばしば父と息子の墓を這い、そこで震える指先で爪弾いた。親愛なるオスカルの妻、マルヴィーナは決して彼を見捨てなかった。勇敢なオスカルについての詩の大部分は彼女に呼びかけたものだった・・・[16]

この下にアングルはいくつかの絵画の注釈を加えた。

フィンガルのカラカラに対する勝利 / 激しい嵐の音 / 大地、ヒース、見捨てられた地 / 輝く星々 / 猟犬たちの咆哮[16]

解釈

『オシアンの夢』は若き日のアングルが生涯を捧げたいと考えていた歴史画と見なされている。オシアンは1800年代初頭のフランス美術を席巻した[15]ギリシア=ローマ古典主義からの逸脱を提示した[6][23]。しかし『オシアンの夢』を反古典主義的な歴史画と見なすことにはいくつかの疑問が残る。オシアンの歴史的信憑性は当時議論の的となった[3][33][34]。また構図は戦士たちが着用する古代ローマ風の甲冑のように依然として古典的な側面を特徴としている[30]

研究者たちはアングルとジェラールの作品の間に多くの関連性を見出してきた。美術史家ロバート・ローゼンブラム英語版は、アングルがジェラールに「明らかに影響を受けている」とさえ指摘している[13]。どちらの絵画においても、オシアンは自身を覆い尽くすほどの亡霊や過去の記憶を呼び起こす。またアングルのマルヴィーナ(あるいはエヴィラリナ)の亡霊とジェラールの老吟遊詩人の亡霊の間にも、ともにオシアンに手を差し伸べるという類似点が見られる。詩人の服装、ハープ奏者、そして抱擁する恋人たちも類似点が見られる。一方で対照的な要素もいくつか複数存在する。ジェラールの作品ではオシアンは意図的に亡霊を呼び起こすのに対し、アングルの作品ではオシアンは亡霊の夢を見ているだけである。さらに、美術評論家のヘンリー・オークン(Henry Okun)はジェラールの絵画を吹き荒ぶ風や流れる小川に存在する躍動感と合わせて「ロマン主義的な狂乱」と評したのに対し、アングルの絵画は「セメントのような硬さ」を持つ雲や亡霊を特徴とし、「新古典主義的な静寂に満ち溢れている」と評した[30]

1952年、美術編集者のトーマス・B・ヘス英語版は『オシアンの夢』を「後期ロマン主義絵画の特徴である感情的な色調とむせび泣くような激しさをすべて備えている」と評した[35]。イギリスの美術史家アニータ・ブルックナーは1968年にプティ・パレで開催されたアングル展に関する記事の中で『オシアンの夢』を好意的に捉えなかった。彼女は夢の描写を「グリザイユ」と呼び、この絵画を「削除」されるべきアングルの作品として説明した[36]。2018年には人類学者ピーター・ガウ英語版は『オシアンの夢』を「極めて奇妙な絵画」と評した[33]。ガウは「『オシアンの夢』を描いた若き日のアングルは、奇妙なほど反動的なのか、それとも奇妙なほど予言的なのか、どちらかだ。それが単にバロックの最悪の過剰さを彷彿とさせる出来の悪い絵画なのか、あるいはキュビズムやそれどころかドイツ表現主義映画英語版さえへと向かうある種の早熟な探求であるのかは分からない」と説明した[23]

来歴

完成した『オシアンの夢』はモンテ・カヴァッロ宮殿のナポレオンの寝室に設置されたが、結局ナポレオンが『オシアンの夢』が設置された寝室を使用する機会はなかった。ナポレオンが失脚しピウス7世が帰還を果たすと[20]、教皇権力とは関係がない『オシアンの夢』は1815年にモンテ・カヴァッロ宮殿から撤去され、売却されたと見られる[18]。アングルは1835年に絵画を買い戻し、おそらく再販する意図から劣化した状態を修復した。絵画は本来は楕円形であったが、アングルは作品を買い戻したのち長方形の画面に改めた。アングルは新しい額縁に合わせて構図を修正する何点かの準備習作を制作した後、弟子のレイモンド・バルズ英語版に変更点をスケッチするよう指示した。しかしバルズの作業は完成しなかったため、一部の人物像は二重に見える(例えば画面左の槍を持った戦士など)[3][18][23]。アングルは1867年1月に死去した際、『オシアンの夢』をモントーバン美術館(現在のアングル・ブールデル美術館)に遺贈した[37]

ギャラリー

脚注

参考文献

外部リンク

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