オルジェイ・テムル (朶顔衛)
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オルジェイ・テムルが始めて史料上に登場するのは1427年(宣徳2年)10月のことで、「朶顔衛頭目」として息子の打不乃を明朝に派遣している[1][2][3]。1429年(宣徳4年)2月には「朶顔衛都督僉事脱児火察の子」として言及されており、最初の朶顔衛領主トルクチャルの息子であったことが分かる[4][3][5]。
同年3月には都指揮同知の地位を授けられたと記録され[6]、さらに1432年(宣徳7年)の下賜を経て[7]、1433年(宣徳8年)には都指揮使に昇格となっている[8]。オルジェイ・テムルの官職については『明実録』内での情報が混乱しており、指揮・都指揮・都指揮使とも称されている[9]。一方、1433年(宣徳8年)にはトルクチャルのもう一人の息子のトゥルゲン(朶羅干)が父の地位を継承して都指揮同知に任じられており、これ以後朶顔衛支配者の家系はオルジェイ・テムル系とトゥルゲンの二系統に分かれていった[10]。
1436年(正統元年)に入ってもオルジェイ・テムルの朝貢は継続するが[11]、1437年(正統2年)9月にはオルジェイ・テムルやトゥルゲンら朶顔衛の領主が明朝の辺境で掠奪を行うことを咎める勅が出されている[12]。
これより以前、東モンゴルにおいて強大な勢力を築いていた和寧王アルクタイはウリヤンハイ三衛にも影響を及ぼしており、1438年(正統3年)9月にはオルジェイ・テムルやトゥルゲンらがアルクタイの息子のホルフダスンの妻の速満答里とともに明朝から下賜を受けたとの記録がある[13][14]。この時既にアルクタイは死去していたが、恐らく速満答里はウリヤンハイ三衛の領主の娘で、強大であった時代のアルクタイと姻戚関係を結ぶためその息子に嫁いでいたものと見られる[15]。
しかし正統3年12月を最後にオルジェイ・テムルが筆頭に名を連ねての朝貢はなくなり、以後も朝貢は続けられるもオルジェイ・テムルの活動はあまり記録に残らなくなってゆく[16]。そして正統9年を最後にオルジェイ・テムルの活動は記録されなくなり、1446年(正統11年)11月に明が「オルジェイ・テムルの孫のアルキマル(完者帖木児孫阿古蛮)」が地位を継ぐことを認めたとの記録が残る[17][5]。これによって、オルジェイ・テムルは1444年-1446年頃に死去したものと推定されている[5]。アルキマルは以後の漢文史料で主に「阿児乞蛮」と表記され、朶顔衛領主の地位を継承する。
脚注
- ↑ 『明宣宗実録』宣徳二年十月己未(五日),「泰寧衛指揮僉事脱火赤・朶顔衛頭目完者帖木児子打不乃所鎮撫答剌哈出等、来朝貢馬」
- ↑ 『明宣宗実録』宣徳二年十月己卯(二十五日),「賜泰寧等衛指揮僉事脱火赤等二百一十九人、朶顔衛頭目完者帖木児子打不乃所鎮撫答剌哈出・百戸把孫等綵幣表裏金織襲衣有差。仍賜完者帖木児綵幣」
- 1 2 和田 1959, p. 414.
- ↑ 『明宣宗実録』宣徳四年二月戊寅(二日),「朶顔衛都督僉事脱児火察子完者帖木児等来朝貢馬」
- 1 2 3 烏雲畢力格 2003, p. 224.
- ↑ 『明宣宗実録』宣徳四年三月戊申(二日),「朶顔等衛頭目完者帖木児等来朝貢馬。上嘉其誠、宥其前過凡、家属被獲者悉還之。陞完者帖木児為都指揮同知、餘陞秩有差。且賜勅戒之曰……」
- ↑ 『明宣宗実録』宣徳七年十二月癸卯(十八日),「以朶顔衛都指揮僉事完者帖木児屡遣人朝貢、賜勅嘉奨併賜之金織文綺綵絹」
- ↑ 『明宣宗実録』宣徳八年十一月丙午(二十七日),「陞泰寧衛頭目火脱赤・朶顔衛都指揮同知完者帖木児・福餘衛指揮同知火児赤、倶為都指揮使」
- ↑ 烏雲畢力格 2003, pp. 224–225.
- ↑ 烏雲畢力格 2003, p. 225.
- ↑ 『明英宗実録』正統元年八月庚寅(二十七日),「朶顔等衛使臣指揮僉事紐林等、陛辞命齎勅及金織紵絲綵絹帰、賜其都指揮完者帖木児等」
- ↑ 『明英宗実録』正統二年九月丁未(二十日),「勅諭朶顔衛指揮完者帖木児・朶羅干・頭目伯台等曰、往者爾等犯辺、辺臣数請出師問罪、朕皆遏之。今復奏爾部属入境剽掠、為我軍擒獲、朶欒帖木児械送来京。訊之、始知往歳延安綏徳擾辺者、亦皆爾衆、因之得計、復将入寇西陲。今此来朝、名曰尊奉朝廷、実欲覘我虚実。前福餘等衛使回、已令齎勅諭爾、尚慮爾等昏昧、復以勅付指揮帖木児等齎回、爾其知悔、庶免後愆」
- ↑ 『明英宗実録』正統三年八月壬申(二十日),「福餘衛都指揮安出遣指揮卜児台、泰寧衛都督脱火赤討勤遣指揮脱歓、朶顔衛都指揮完者帖木児遣指揮乞林禿等、倶来朝貢馬。賜宴并賜綵幣等物有差」
- ↑ 『明英宗実録』正統三年九月壬午(一日),「賜朶顔衛指揮完者帖木児・朶羅干・頭目朶羅帖木児・完者禿・只児瓦歹・和寧王阿魯台子婦速満答里等、織金文綺有差」
- ↑ 和田 1959, p. 222/262.
- ↑ 『明英宗実録』正統三年十二月戊午(八日),「朶顔衛都指揮完者帖木児・泰寧衛都指揮納哈出・失里木衛指揮木当加・湖広保靖州軍民宣慰司故宣慰使子麦直踵等、倶来朝貢馬及方物。賜宴并賜綵幣等物有差」
- ↑ 『明英宗実録』正統十一年十一月壬申(八日),「命朶顔衛故都指揮使完者帖木児孫阿古蛮襲職」
参考文献
- 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年
- 烏雲畢力格Oyunbilig「関于朶顔兀良哈人的若干問題」『蒙古史研究』第7輯、2003年
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