トゴチ (泰寧衛)
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テギン(討勤)
トゴチは泰寧衛都督の「阿只罕」なる人物の息子と伝えられるが、阿只罕の出自については諸説あって定かではない[1]。阿只罕をテムゲ・オッチギンの末裔である遼王アジャシュリと同一人物と見る説もあるが、これを否定する意見もある[1]。弟のジョチ、叔父の灰王哈剌孩といった親族がいた。
トゴチは 1427年(宣徳2年)10月に明側の史料 (『明実録』)に初見し[2][3]、4年後の1431年(宣徳6年)に父の地位を継いで都指揮僉事に任命されたと伝えられる[4][5][6]。
15世紀に入ってより、泰寧衛を含むウリヤンハイ三衛はモンゴルを統べるアルクタイの支配下にあったが、1431年(宣徳6年)2月にアルクタイがオイラトのトゴンに大敗を喫し、その支配体制は揺るぎつつあった[6]。そこでトゴチはアルクタイの支配を脱却すべく、1432年(宣徳7年)正月に「(泰寧衛の)印がペンヤシュリー・ハーン(本雅失里)に奪われたため、再度の給付を請う」と申し出ている[7][8][6]。ペンヤシュリー・ハーンが死去したのは約20年前のことなので、これは「ペンヤシュリー・ハーン在位の頃からずっとアルクタイは泰寧衛の印信を用いて朝貢貿易の利を奪っており、泰寧衛もこれを黙認していたが、アルクタイの弱体化に乗じて独立を図った」ことを意味するものと考えられている[9]。
この頃泰寧衛のみならず、朶顔衛も同じく印信の給付を願って独立を図っており、同年5月に明朝では三衛の首領が「よく配下の部衆を綏撫し朝廷に恭事した故に」下賜を行ったとの記録がある[10][11]。こうして三衛とアルクタイの関係は急速に悪化し、1432年(宣徳7年)2月には遂に三衛の軍団がアルクタイに攻撃を仕掛け、逆に敗れるという事件が起こった[12]。これを受けてアルクタイはウリヤンハイ三衛への遠征を決意したようで、1433年(宣徳8年)初頭までには三衛のみならず海西女直の領域にまで侵攻してこれを占領した[13]。
アルクタイからの離反を主導していたトゴチはこの一件で地位を下落させてしまったのか、1432年(宣徳7年)11月の朝貢を最後として[14]、1433年(宣徳8年)5月に死去した[15]。トゴチの死後、泰寧衛の主導権は弟のジョチが握るようになる[6]。
1437年(正統2年)より「もとの泰寧衛都督トゴチの息子のテギン(故都督脱火赤男討勤)」として、テギンについての記述が散見されるようになる[16][6]。
もっとも、先述の通り泰寧衛の主導権は叔父のジョチが握っており、テギンは常にジョチの下位にあった。以後、1438年(正統3年)[17][18]・1439年(正統4年)[19][20]・1440年(正統5年)[21]と連続して朶顔衛のオルジェイ・テムルや福余衛のアルチュなどとともに朝貢を行った記録が残る。1441年(正統6年)正月には初めて都指揮使の地位を授けられ[22]、以後は「泰寧衛都指揮使」として朝貢を行う[23]。
しかし、1443年(正統8年)[24]・1444年(正統9年)[25]・1446年(正統11年)[26]と朝貢を行った後、オイラトのエセンが覇権を確立するのと並行してテギンの記録は史料上に見られなくなる。エセンがハーンを自称した1453年(景泰4年)正月に朝貢を行ったのを最後として、テギンの記録は見られなくなる[27][6]。
脚注
- 1 2 和田 1959, p. 193.
- ↑ 『明宣宗実録』宣徳二年十月(五日),「泰寧衛指揮僉事脱火赤・朶顔衛頭目完者帖木児子打不乃所鎮撫答剌哈出等来朝貢馬」
- ↑ 『明宣宗実録』宣徳二年十月己卯(二十五日),「賜泰寧等衛指揮僉事脱火赤等二百一十九人・朶顔衛頭目完者帖木児子打不乃所鎮撫答剌哈出・百戸把孫等綵幣表裏金織襲衣有差。仍賜完者帖木児綵幣」
- ↑ 『明宣宗実録』宣徳六年八月乙未(三日),「泰寧等衛都督脱火赤遣指揮同知安忽等来朝貢駝馬」
- ↑ 『明宣宗実録』宣徳六年八月甲寅(二十二日),「命故勇士指揮使童良弼子玉襲職、仍于羽林前衛帯俸韃官。泰寧衛都指揮僉事阿者罕子脱火赤襲職、陞指揮同知、阿魯忽里為指揮使」
- 1 2 3 4 5 6 李 2006, p. 14.
- ↑ 『明宣宗実録』宣徳六年十二月甲辰(十三日),「賜泰寧等衛都督僉事脱火赤差来指揮同知孛羅等及奉使泰寧等衛指揮同知失令等九十七人綵幣表裏等物有差」
- ↑ 『明宣宗実録』宣徳七年正月戊辰(八日),「泰寧衛掌衛事都督僉事脱火赤奏、旧印為胡虜本雅失里掠去、請再給授。従之」
- ↑ 和田 1959, pp. 228–229.
- ↑ 『明宣宗実録』宣徳七年五月癸亥(六日),「泰寧衛達官都督僉事脱火赤等遣指揮僉事哈剌罕、四川邛部長官阿喬遣把事李阿得等来朝貢馬」
- ↑ 『明宣宗実録』宣徳七年七月戊午(二日),「遣指揮丁全・趙回来的等齎勅及金織綵幣表裏、賜泰寧衛掌衛事都督僉事脱火赤等・朶頭衛都指揮僉事哈剌哈孫等・福餘衛都指揮僉事安出等、以能綏撫其衆恭事朝廷故也」
- ↑ 和田 1959, p. 225.
- ↑ 和田 1959, pp. 225–226.
- ↑ 『明宣宗実録』宣徳七年十一月丙子(二十一日),「泰寧等衛都督僉事脱火赤遣指揮僉事猛可帖木児、朶顔等衛指揮僉事逞吉児等来朝貢馬」
- ↑ 『明宣宗実録』宣徳八年五月壬戌(十日),「泰寧衛掌衛事都督僉事脱火赤卒。事聞、命其弟指揮同知拙赤為都督僉事、仍掌衛事撫輯民人、且賜之襲衣綵幣」
- ↑ 『明英宗実録』正統二年十月癸酉(十七日),「賜故和寧王男火児忽答孫・妻速満答児・朶顔衛故都指揮哈剌哈孫・泰寧衛都指揮納哈出・故都督脱火赤男討勤・福餘衛都指揮歹都・故都指揮申帖干孫男達魯花・納蘭等織金襲衣綵緞表裏絹匹有差。倶命来使猛哥帖木児・伯顔帖木児等齎与之」
- ↑ 『明英宗実録』正統三年八月壬申(二十日),「福餘衛都指揮安出遣指揮卜児台、泰寧衛都督脱火赤男討勤遣指揮咬脱歓、朶顔衛都指揮完者帖木児遣指揮乞林禿等、倶来朝貢馬駝。賜宴并賜綵幣等物有差」
- ↑ 『明英宗実録』正統三年八月戊寅(二十六日),「賜福餘衛都指揮安出頭目阿兀歹・泰寧衛已故都督脱火赤男討勤等紵絲織金襲衣綵幣等物、命各衛来使班丹等齎与之」
- ↑ 『明英宗実録』正統四年五月庚午(二十三日),「泰寧衛都督脱火赤子討勤・朶顔衛韃靼客乞児等来朝貢馬、賜宴并賜綵幣等物有差」
- ↑ 『明英宗実録』正統四年八月辛巳(六日),「泰寧衛故都督脱火赤子討勤・朶顔衛都指揮完者帖木児各遣頭目……倶来朝貢馬及方物。賜宴并賜綵幣等物有差」
- ↑ 『明英宗実録』正統五年十一月戊申(九日),「朶顔衛都指揮倒斤遣指揮把孫・泰寧衛都指揮脱火赤・福餘衛都指揮影赤不花・千戸把禿児・遼東安楽州達官指揮僉事阿里・千戸忽法提・自在州達官指揮僉事你都・四川播州宣慰使楊炯遣長官韓仁寿等、倶来朝貢馬及方物。賜宴并賜綵幣等物有差」
- ↑ 『明英宗実録』正統六年正月庚申(二十二日),「命哥吉河衛指揮同知可成哥孫末希納襲職、泰寧衛都督脱火赤子討勤襲為都指揮使、授都督拙赤弟失南帖木児為正千戸、倶賜勅諭」
- ↑ 『明英宗実録』正統六年十二月丁酉(五日),「泰寧衛都督僉事拙赤・都指揮使脱火赤・討勤・都指揮同知隔干帖木児・都指揮僉事納哈出・火児赤台、福餘衛都指揮同知安出・都指揮僉事歹都・申帖干、朶顔衛都指揮使完者帖木児・都指揮同知倒斤・朶羅干、建州左衛都指揮李張家等、各遣使来朝貢馬。賜宴并賜綵幣等物有差……」
- ↑ 『明英宗実録』正統八年十一月丁卯(十六日),「福餘衛都指揮安出遣頭目古納台、泰寧衛都指揮討勤遣使臣悩答児等貢馬。賜宴并賜綵緞衣服靴韈、仍命齎勅及綵緞、帰賜安出及討勤等」
- ↑ 『明英宗実録』正統十一年六月庚子(四日),「勅諭泰寧衛掌衛事都督僉事拙赤・都指揮使討勤・火脱赤・都指揮同知隔干帖木児・都指揮僉事火児赤台・納哈出及大小頭目人等曰、今得爾等遣頭目帖木児奏称、本衛部属迭的谷等、先帯家小往忽克爾帖里温囲猟、被瓦剌也先朝貢使臣乞児吉歹等擒拏解京、乞朝廷給還完聚……」
- ↑ 『明英宗実録』正統九年十一月癸未(八日),「泰寧衛都指揮討勤遣指揮紐林等、朶顔衛頭目伯台遣指揮扯扯干来朝貢馬。賜宴及綵幣表裏等物有差」
- ↑ 『明英宗実録』景泰四年正月癸酉(十五日),「建州左衛野人女直都督董山等、并泰寧衛都指揮使討勤遣頭目阿脱木、朶顔衛頭目卜台遣達子額也台等、来朝貢馬并貂鼠皮。賜宴并襲衣綵幣表裏有差」
参考文献
- 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年。
- 李艶潔「明代泰寧衛首領世系変遷」『内蒙古大学学報(人文社会科学版)』第38巻、2006年11月。
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