ピュロン
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ディオゲネス・ラエルティオスはアポロドーロスを引用して次のように述べている。ピュロンはもともと画家であり、彼の絵はエリスの学校に保存されていた。後にデモクリトスの著作によって哲学の道へと導かれ、ブリュソンやスティルポンによってメガラ派の論理学に習熟するようになった。
ピュロンはアナクサルケスとともにアレクサンドロス3世(大王)の東征に随い、インドでは裸の哲学者たち、ペルシアではマギたちに学んだとされる。東洋哲学、特に仏教哲学に触れたことが、自分の哲学を生み出し、孤独な生活を送るようになったきっかけとなったようである。エリスに戻ってからは貧困に生きたが、エリス人たちは彼を尊敬し、またアテネ人たちは彼に市民権を授与した。彼の思想は主に、弟子のプリウスのティモンによる風刺文学によって知られている。
ピュロンは紀元前270年頃、懐疑論に束縛されるあまり、不運な死を遂げたと言われている。伝説によれば、彼は目隠しをしながら弟子達に懐疑主義について説明しており、弟子達の、目前に崖があるという注意を懐疑したことにより不意の死を迎えたと言われている。しかしこの伝説もまた疑われている。
